五線紙のパンセ|結局、作曲家は何を書いているのか(言葉で)という問題(1)|田中吉史
結局、作曲家は何を書いているのか(言葉で)という問題(1)
Text by 田中吉史(Yoshifumi Tanaka)
今月から3ヶ月、この欄に書かせていただく田中吉史です。よろしくお願いします。
このご時世、何を書いてもOK、しかも3回にもわたって書かせていただけるなどという機会は、滅多にありません。もともと文章を書くのは嫌いではないし、さて何を書こう?
とりあえずは自分の作曲について書いてみようか。
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そういうわけで、意気揚々と書き始めてはみたものの、ふと自分の仕事について文章で書けることというのは実はそんなに多くはないのではないか、と思い始める。もちろん、色々なことを考えながら作曲し、その過程では言葉を使ったメモをたくさん書き残すのだけれど、それは独立した文章としてまとめられるようなものではなく、その作品を書くためのごく一時的な助けの一つでしかない。
今まで、自分の作品についてまとまった形で文章にする機会が2度ほどあった。一つは伊藤弘之さん、原田敬子さん、望月京さんと企画したセミナー「作曲フォーラム’99」でのプレゼンテーションを後で文章にしたもの(このとき作った冊子は日本国内のさまざまな音大図書館に寄贈したので、もしかするとどこかで読めるかも)、もう一つは2015年にリリースされた私のポートレートCD(FONTEC/FOCD-2578)のブックレットの解説であった。改めて読みかえすと、二つともずいぶん違う観点から書かれていて、大きな矛盾があるわけではないし、書いた当時はそのようにしか書きようがないというくらいには考え抜いていたのだが、今となっては、いや何か違うな、と感じるところもある。
結局、私は自分の創作で何をやっているのか、よく知らない。いや、「知らない」というのは何だか無責任だな。「よくわかっていない」というほうが適切かもしれない。私の場合、曲を作る作業は、全てが言語を使って明確に意識されることなく、ただ遂行されるという側面が強い。言語化されるより先に実践があり、手仕事の途中で言葉が使われることがあるにせよ、全て終わって振り返って言葉にしたものは、その後を辿ってたまたまそのように書き表されたに過ぎないように思える。
自分の仕事を文章で説明するのは、わりと好きな方だと思っていたけれど、思い返してみれば、実は大して得意ではないのだろう。もう一つ厄介なのは、無理やり文章で書き表してしまうと、私の作曲の仕事がその文章に全て表現されているかのように解釈され、それについてだけ語られてしまうことだ。エクリチュール恐るべし。
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とは言いながら、とりあえずは書きやすいことから書いていくしかなさそうだ。
ここ最近、自分の作品について話す機会がある時に比較的よく取り上げてきたのは、2000年代から何曲か書いてきた「発話移植計画」シリーズだろう。私はもともと人の話し声が好きで、話されている内容が全くわからない言語であっても(むしろ意味がわからないからこそ)じっと聴き入ってしまう。《Lessico famigliare》 (2001)[vla, pf, tape]では、人の話し声を採譜し、その発話の録音と同時演奏するというのを試みた。その後、元の録音は取り去ってしまい、採譜された素材を用いて器楽パートのみの作品(その後は声楽作品にも適用)を書くようになった。
テクノロジーの進展と普及により、人の発話も簡単に五線譜に書き起こせるようになり(私自身、以前は録音を聴きキーボードで探りながら採譜していたが、近年はソフトウェアを利用している)、今ではよくみられる手法の一つになっている。そもそも私がこうした方法をとるようになる前からさまざまな作曲家による試みもあるので、このやり方は全く私のオリジナルではない。ただ、この方法が面白くていくつも作品を書いていると、気づくことも多くあり、それが次の作品を書くときの手がかりになっていったりする。
「発話移植計画」とはいうものの、このシリーズは全体に何か大きな計画があるわけではなく、ほとんど行き当たりばったりに、さまざまな発話音声を用いて書き連ねられてきた。初期の頃は、作曲家のインタビュー音声を単に採譜して器楽で何とか演奏可能な形にしたものを、自分で書いたもの(これも何だか変な言い方だが)の中に埋め込んでいくやり方だった(《An Interview with L.B. interpreted by viola and piano》[vla, pf](2006)、《Aura di Bruno, oppure un ‘intervista interpretata da tuba e pianoforte》[tub, pf](2008))のだが、いろいろな音声を素材にしているうちに、人の発話音声自体に含まれるある種の規則性や特徴に気づいた。
一つ例を挙げよう。《気象情報の形式による六重唱曲》[6 vo](2011-12)では、1970年代のテレビの北海道地方の天気予報の音声が素材となっている。当時の天気予報では、アナウンサーは今のようにフレンドリーに語りかけるのではなく、地域、風、空模様、海上の状況に関する予報を淡々と読み上げる。語彙は限定されており、定型的な文が反復され、抑揚もかなり特徴的なパターンを持つ。私が手にした男性アナウンサーの発話を(かなり強引に)採譜してみると、ピッチは大まかに3つの音高域(H,M,L)に分けられ、その間を一定のパターンで行き来していることがわかる(図1)。アナウンサーの発話は、日常的な場面での発話と比べて、日本語の特徴である高低アクセントがかなり強調されているので、こうした特徴がより顕著だとも言える。さて、こうしたパターンが見えてくると、今度はそのパターンに従って言葉とは全く無関係に新たな旋律を作ることができる。言ってみれば、発話と似た特徴を持つが発話ではないもの、かといって、音楽的な旋律ともどこか異質なものができるかもしれない。
図1 《気象情報の形式による六重唱曲》の素材としたアナウンサーの発話の特徴
もう一つ、近作からも例を挙げよう。《道路交通情報の形式によるソロ》[s-sax](2021-2022)は、イタリア語と日本語によるラジオの道路交通情報の録音を素材としている。ラジオの道路交通情報は、短時間で端的に地域の道路の混雑状況を伝達するために、天気予報と同様、決まったフォーマットに則って、非常に早口で読み上げられる。イタリア語の場合、音の高さだけでなくシラブルの長さによってアクセントがつけられるので、リズムは比較的複雑に変化する。また、全体として文の終わりに向かってピッチは下がっていくものの、途中のフレーズでは、やや語尾上がりになったり、ほとんどピッチが変わらず間によって区切られたりもする。一方、日本語では文頭(地域や道路名)は比較的高いピッチで読み上げられ、その後は基本的にほとんど下降型の動きが繰り返され、文末は必ず最も低いピッチに到達する。また、基本的にシラブルはほぼ等しい長さを保つため、全体としてリズムは単調なものになる(図2)。《道路交通情報の形式によるソロ》の前半部分ではイタリア語、後半は日本語による道路交通情報を採譜したものを用いており、そのことが各部分の音楽的特徴を規定しているといえる。
図2 《道路交通情報の形式によるソロ》のスケッチから。右はイタリア語の道路交通情報、左は日本語の道路交通情報を採譜したもの。
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ここまで延々と「発話移植計画」について書いてきたのだけれど、それは言葉で説明しやすいから、というのが一番大きな理由である。自分が興味を覚えた発話(そのほとんどは意味内容ではなくプロソディ的な側面に対する興味)から何らかの特徴を導き出し、それを手がかりに作曲していくのだが、単にここに書いたようなことが見つかればあとは自動的に曲ができるのか、というと全くそんなことはない。むしろ、これらの素材の分析(というよりは「観察」に近い)から見えてきた特徴はこの後書いていく部分のモデルに過ぎず、作業の一つの手がかりに過ぎないともいえる。
まず、実際に鳴り響く楽器や歌声の音響イメージが掴めなければ一向に仕事は進まない。そして、それらを演奏家によって演奏可能にしていくために、細部を具体化する作業に多くの時間と労力を費やしていて、むしろその一番大変な部分は言葉ではほとんど説明できない。いや、説明できないことはないかもしれないが、作業中のメモ、スケッチや下書きを目の前にして、その状況に埋め込まれているときにはっきりと頭の中にあったことも、一旦作業が終わってしまえばほとんど消え去ってしまう。スケッチを見ると何か思い出せそうではあるが、たとえ何かを思い出したとしても、それを説明するためにまた別の説明が必要になるだろうし、そのときなぜそのように考えていたかは今となってはおぼろげで、矛盾に満ちているようにも思える。別の言い方をすると、作曲という仕事は、私にとっては、煩悶しながら作業して気がついたら目の前に何か現れてきて、勝手に動き出してどこかに逃げていった、という感じに近いような気もする。
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あまり書けそうなことがない、と言いながら、書き始めると思いのほか長くなりました。この話題、今月は一旦ここまでにして、続きはまた来月。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
それでは皆様どうぞ良いお年を。
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田中吉史(Yoshifumi Tanaka)
独学で作曲を始め、1994-5年にChaya Czernowinに師事。1988年と89年に現音作曲新人賞入選。1990年より作曲家グループ”TEMPUS NOVUM”のメンバーとして活動。1996年に秋吉台国際作曲賞を受賞。2001年ISCM World Music Days、2003年ACLアジア音楽祭 に入選。2006-18年現代音楽セミナー「秋吉台の夏」講師を務める。これまで器楽や声楽作品を中心に手がけてきた。近作に、楽器演奏する際の身体的制約に注目した独奏曲、既存の音楽作品から素材を抽出した作品、人間の話し声の録音に基づく「発話移植計画」シリーズなどがある。楽譜とCDがArs Publica (http://www.arspublica.it/)、マザーアース(http://www.mother-earth-publishing.com/)、ALMレコード、フォンテックから出版されている。
・プロフィール、ディスコグラフィ
https://japanesecomposers.info/jc/composers-basic-information/tanaka-yoshifumi/
・作品リスト
https://japanesecomposers.info/jc/composers-basic-information/tanaka-yoshifumi/yoshifumi-tanaka-list/
・YouTubeプレイリスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLj061UQDeaPkirD7iJWx4ezs18QeFezGA
【公演情報】
コンサート 2 + 1 山田岳・土橋庸人・加藤和也
2023年1月9日 (祝・月) 15:00 開演 Le Reve 八丁堀(広島市中区八丁堀1番8号 エイトビル2F)
《eco lontanissima IVb》(1995/99/2001) 改訂版日本初演
《道路交通情報の形式によるソロ》(2021/22)改訂初演
演奏:加藤和也
芸術講座 トイピアノの森Ⅱ 「大人のためのトイピアノ講座」
2023年2月20日(月)18:30開演 愛知県立芸術大学 室内楽ホール
トイピアノのための《ascending》(2021) 再演
演奏:中村和枝
橋本晋哉チューバリサイタル4
2023年2月27日(月)19時開演 杉並公会堂小ホール
《Aura di Bruno》(2008) 再演