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テラ 京都編 – あなたは誰?|チコーニャ・クリスチアン

テラ 京都編 – あなたは誰?|チコーニャ・クリスチアン

臨済宗 興聖寺
Rinzaishū Kōshōji

2021年3月28日
2021/3/28

Text by Cristian Cicogna
Photos by 北川啓太 (Keita Kitagawa)

 >>>Italian

<演者>
坂田ゆかり  演出
稲継美保   出演
田中教順   音楽
渡辺真帆   ドラマトゥルク
藤谷香子(FAIFAI)衣装

<アフタートーク>
田中教順
渡辺真帆
田中里奈(明治大学国際日本学部助教)

Cast
Regia: Yukari Sakata
Interpretazione: Miho Inatsugu
Musica: Kyojun Tanaka
Drammaturgia: Maho Watanabe
Costumi: Kyoko Fujitani(FAIFAI)

After talk
Kyojun Tanaka
Maho Watanabe
Rina Tanaka (critico)

 

~『テラ 京都編 – あなたは誰?』~
Tera (versione Kyoto) – E tu, chi sei?

コロナ禍。
新型コロナウイルス感染症の流行が生み出した新語の一つだ。ニュースや人々の会話の中で嫌になるほどこの言葉を聞くようになってかれこれ一年になる。
この言葉を耳にする度に、私の右目の下は軽く痙攣する。きっとコロナ疲れにやられているのだろう。
ヨーロッパでは、行動の自由を制限する法令が厳しく、医療面のみならず経済的にも危機に直面し、不満やストレスが爆発寸前にまで高まっている。特にイタリアでは、未だに一日の死者数が400人余りで、学校やレストラン、劇場などの閉鎖が続くなか、市民は慣れないマスクを着用することもソーシャルディスタンスを保つことも億劫で、ルールを破ったり反政府デモを起こしたりする人もいることもあって、不安を募らせている。
真面目な日本人はストレス発散があまり上手くないと私は思う。日本人ではないが私にもその傾向がある。
桜の花を無残に散らす肌寒い雨の中、私は京都市上京区にある臨済宗の興聖寺(こうしょうじ)へ赴いた。もちろん、目的は座禅を組むことではなく(私は正座が苦手なのだ)、『テラ 京都編』観劇だった。しかし、それが精神分析を受ける体験に近いものになるとは思いも寄らなかった。

会場は本堂から少し離れた、それほど広くないが天井の高い部屋。障子があり、畳の代わりにありがたいことに床暖房がついている。正面の壁に彫り込まれた仏壇から地蔵菩薩が柔和な笑みを浮かべている。
客席は二列に並べられた折り畳み式の椅子20個余りと最前列の座布団10枚。ソーシャルディスタンスを守るため、実際に利用できるのは半分で、プラスチック製の木魚が置かれた座席だけ。舞台といった舞台はなく、仏壇の前に背もたれの高い椅子が一つ。その右側で、開演時間がまだ少しあるのに、パーカッショニストの田中教順が複雑に組まれたパーカッションを叩いている。その音と繰り返されるリズムはアフリカの農村で行われる何かの儀式を連想させる。
開演時間になると、彼は客席の前に立ち、観客に木魚を持たせ、楽しい「木魚ジャムセッション」を促す。
なるほど。
寺にいる緊張感が緩和されていくような気がする。
照明はもともと天井に付けられている洋風照明器具が放つやわらかいオレンジ色だ。
出演者は田中教順と稲継美保の二人だけ。
主人公京極光子(稲継美保)は寺で生まれ、寺で生活しているアラサーの普通の女性で、スマホを片手に友達と話をしたり、インスタに動画を上げたり、歌を歌ったりして暇をつぶす。
彼女は池に小石を投げるようにさりげなく様々な問いを投げかける。「なぜ人の住むところにお寺があるの?」、「人は死んだらどうなるの?」、「動かぬ骨になる前に私たちはここで何をするの?」。自分にだけではなく、観客に向けても問いかけている。生と死についてのアンケート調査と言う。
なるほど。
観客が積極的に参加していいのだ。私は納得する。
解答用紙に答えを書く代わりにバチを手にして木魚を叩くことで回答になる。一つの問いに対して、幾つかの答えの選択肢があって、それを京極光子が一つずつ述べていくという形で、複数の選択も可能だ。
いきなり、「埋葬はどうしますか」。
埋葬という言葉を聞いて、キリスト教育ちの私は驚きを隠せない。まさか、寺で火葬ではなく、埋葬の話をされるなんて。しかし、やはり、最後は「自然の中で散骨したいと思う人?」という問いがあって、私は思い切り木魚を鳴らす。

京極光子は突然地獄に落ちる。
仏壇の両側には扉があって、扉の向こうには別の部屋がある。役者たちが着替えをするその部屋が地獄に見立てられている。京極光子がその地獄からか細い声で地蔵に助けを求め、地蔵に扮した田中教順が彼女を地獄から助け出す。
地獄。まさに「テラ」の合言葉のように聞こえる。
この一年の間に世界中の人々が体験している新型コロナウイルスがもたらした地獄。それに結び付くのが「救いはあるのか」という問いだ。
『テラ 京都編』は、人の一生を表す「はまかぜ」という船が現在の地獄(=困難の海)を渡って行く話に展開する。「はまかぜ1号」から「2号」へ、「2号」から「3号」へ、船を乗り継ぐことによって、危機を乗り越える。
毎回違う衣装で現れる京極光子は同じ人間ではない。死んではいないので、生まれ変わったわけではなさそうだが、成長しているように見える。正確に言うと、脱皮したように見える。
田中教順が語り手になって、思い出を語る場面もある。椅子に座って、少し緊張した様子でしゃべる。本当に自分の話なのか、脚本の台詞なのか、判然としない。

それが演技なのかどうか、私の疑問は解消されないまま、『テラ 京都編』は精神分析の体験だということを裏付けるクライマックスを迎える。
田中教順がパーカッションを勢い良く叩きながら、遊び半分で禅問答を真似て108の問いを観客に投げかける。問いは彼の後ろに設置されたテレビスクリーンでも字幕のように表示されていく。
返事は言うまでもなく、木魚叩きだ。私みたいにためらって軽く鳴らす人がいれば、バチを振りまくる人もいる。
趣味と嗜好を尋ねる問いに混じり、社会や人生、来世について真剣に考えさせる問答もある。
質問のペースはパーカッションに合わせて早いし、私は観客の反応に気を取られることもあって、回答のタイミングを逃してしまうことが多い。
印象に残った問いは「人間は弱い/人間は強いと思う?」、「心は頭にある/胸にある/体の外にあると思う?」、「友達がもっと欲しい?」、「有名になりたい?」、「死んだら、死んだ家族に会いたい?」。

『テラ 京都編』の面白さはその題名の多義性と構造の柔軟性にある。
まず、題名について言うと、片仮名が想像力をそそる。
「寺」だけではなく、様々な意味が浮かんでくる。Teraは「兆」という桁(例:テラバイト)でもあるし、ラテン系の言語では「地球」を、古代ギリシャ語では「怪物、化け物」を表す。
次に、構造について述べたい。
「京都編」では臨済宗の地蔵菩薩が核になっているが、東京の初演時は極楽浄土の阿弥陀如来だったと言う。物語の骨組みはそのままに、寺と地名、唱えるお経を変更するだけで様々な場所で上演できる。宗派に縛られない。
その構造を活かして、去年タイでタイ人が現地の寺院で「テラ」を発表した。続いて、ミャンマー、インドネシア、ベトナムのチームが加わり、コロナ時代にふさわしい《テラジア 隔離の時代を旅する演劇》という国際プロジェクトが生まれた。
京極光子はマイクを手に全身全霊で歌を歌う。ストレスの発散になるだろう。真似したくなるくらいだ。
そして彼女は、ふと思い出したかのように、つぶやく。
「一人でいい。一人でも生きていける。(間)でも、寂しいなぁ」。
すると、田中教順がため息をつきながら「そうだろうなぁ」と合いの手を入れ、観客の笑いを誘う。
私を含めて、観客はみなきっと同感している。
パンデミックによって現代社会が押しつける孤独はいや増した。けれども、「テラ」は旅する演劇という形で、コロナ禍の中で動けなかったり動きたくなかったりして悩み苦しんでいる人々にむけてメッセージを送る。
「あなたは一人ではない。救いはある。」と。
それは希望の兆しとなるだろう。
これこそ宗派を超え、地域を超えて拡がってゆく演劇の力ではないだろうか。
ムハンマドと山の話を思い出す。
ムハンマドは言った。「私は山にここに来るように言った。しかし山の方ではそのつもりがないようである。よって私は山に向かっていこうと思う。」

108問答の最後の問いは「あなたは誰?」だった。
自分を悩ませる問題、頭に浮かぶことなどない疑問、自分に問いかける勇気さえない質問と向き合う体験を与えてくれた「テラ」は、グループセラピーの一種だ。(面白いことに、イタリア語でセラピーはテラピーア(terapia)と言う。やはり、「テラ」なのだ。)
木魚を叩くことで私たちが抱えている問題について考えるきっかけをくれたし、孤独の膜を破る力さえくれた。
自分の心の中をのぞきこんで、様々な問いの答えを探ってみる。たとえ答えが見つからなくても、不安が収まっていく。少し視点を変えるだけで、違う自分が見えてくる。
疑問や悩みをきちんと言葉で表して、声に出すことで(木魚を叩くことで)力が湧いてきて孤独と戦える。場所を問わず、宗教も問わない。それがこの「テラ」なのだ。
あなたは誰?
私は答えをまだ見つけていないが、『テラ 京都編』を観劇した後、心は少し自由になり、いつもと違う自分になっていたことは確かだ。
他の観客も同じことを感じただろうか。

関連記事:Pickup (2021/4/15) |『テラ 京都編』|田中 里奈

(2021/4/15)

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チコーニャ・クリスチアン(Cristian Cicogna)
イタリア・ヴェネツィア生まれ。
1998年にヴェネツィア「カ・フォスカリ」大学東洋語学文学部日本語学・文学科を卒業。現代演劇をテーマに卒業論文「演出家鈴木忠志の活動および俳優育成メソッド」を執筆。卒業直後に来日。
日本語及び日本文学への興味は尽きることなく、上記「カ・フォスカリ」大学に修士論文「『幻の光』の翻訳を通して観る宮本輝像」を提出し、修士号を取得。
SCOT(SUZUKI COMPANY OF TOGA)の翻訳及び通訳、台本の翻訳に字幕作成・操作をしながら、現在、大阪大学などで非常勤講師としてイタリア語の会話クラスを担当している。

研究活動に関する業績
・“Il rito di Suzuki Tadashi(鈴木忠志の儀式)”、イタリアの演劇専門誌Sipario、ミラノ、2006年
・“From S Plateau”(演出家平田オリザの演劇について)、Sipario、ミラノ、2007年
・“Ishinha”(劇団維新派の活躍について)、 Sipario、ミラノ、2008年
・Bonaventura Ruperti, a cura di, Mutamenti dei linguaggi nella scena contemporanea in Giappone
・ボナヴェントゥーラ・ルペルティ監修『日本の現代演劇における表現の変化』(カ・フォスカリーナ出版、ヴェネツィア、2014年)において、第三章「鈴木忠志:身体の表現」、第八章「平田オリザの静かな演劇」を執筆。