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Pickup (2021/4/15) |『テラ 京都編』|田中 里奈

『テラ 京都編』
TERA in Kyoto

2021年3月26日~28日 京都市上京区興聖寺・涅槃堂
March 26-28, 2021, Kosho-ji (Buddhist temple), Nirvana Hall

Text and Photos by 田中 里奈 (Rina Tanaka)
Photos by 北川啓太

演出(Direction):坂田ゆかり Yukari Sakata
出演(Performance):稲継美保 Miho Inatsugu
音楽(Music):田中教順 Kyojun Tanaka
ドラマトゥルク(Dramaturg):渡辺真帆 Maho Watanabe
衣装(Costume):藤谷香子 Kyoko Fujitani(FAIFAI)

アフタートーク進行(Moderator at the posttalk):田中里奈 (Rina Tanaka)

 

「テラ」シリーズの最新作『テラ 京都編』
2018年、国際芸術祭Festival/Tokyoの「まちなかパフォーマンス」シリーズとして、東京・西方寺で『テラ』という作品が初演されたi。同作は2019年にチュニジア・カルタゴ演劇祭に招聘され、さらに2020年には、タイの現地アーティストによる再創作の結果、タイ版『TERA เถระ』がチェンマイのワット・パラット寺院で上演されもしたii。当初予定された2021年2月の公演予定が緊急事態宣言によって後ろ倒しになり、翌月3月に京都・興聖寺でようやく発表された『テラ 京都編』は、2018年東京初演版の制作チームによる3年ぶりの「新作」だ。

京都・興聖寺(筆者撮影)

初演版は、三好十郎の詩劇『水仙と木魚――一少女の歌える――』(1957)を主軸としつつ、浄土宗の「四誓偈」(経典『仏説無量寿経』)や吉岡実の詩「僧侶」(1958)、さらには出演者の生い立ちといったさまざまなテキストを場面ごとに用いて、現実とフィクションの境目をひょいと反復横跳びしていたのが印象的だった。今回の京都編では、新たなリソースとして、安倍公房の『カンガルー・ノート』(1991)や富岡多恵子の詩「物語の明くる日」(1961)、そして会場となった臨済宗の興聖寺に伝わる聖典やYouTube法話が加わった。これらのテキストの断片がまるでコラージュのように繋ぎ合わされ、集合的に作品を形作っている。『ジャータカ』や『今昔物語集』を序文から切れ目なく上演したら、ちょうどこんな感じになるかもしれない。一見即興的でアトランダムにみえるテキストの順序は、しかし耳を澄ませてよく聞いてみると、音や言葉の端々に小さな想起の連鎖が積み重なっているのがわかる(演出:坂田ゆかり)。

井戸からウッカリ地獄落ち?
それにしても、冒頭で示される物語は、よくよく考えずともちゃっかりしている。井戸からウッカリ地獄に落っこちた女性・京極光子が、偶然通りがかった地蔵菩薩に助け舟を出してもらい、無事に生還を果たすなんてあり得るだろうか? ブレヒトの『三文オペラ』よろしくiii、現実で「ウッカリ地獄めいた」状態に陥ったとしても、「通りがかりの地蔵菩薩」は現れないし、「助け舟」もなかなかやって来ないだろうに。

『テラ 京都編』より(撮影:北川啓太)

上演の中心にいるのは、「京極光子」というキャラクターだ。ただし、1つの人格を有した一人の人間がいるわけではなく、数多の光子が登場し、それらはすべて稲継美保によって演じ分けられる。冒頭に現れる地獄落ちした光子は少し古風な話し方の女性だが、別の場面には週末の昼間からスマホでインスタライブをする女優の光子が登場する。つまり、各場面の時代設定は一定ではない。独りが好き(でも寂しがり)な光子、お金が欲しい光子、変わりたいけど変われない光子……彼女は、生まれ変わるたびに前世とは別の煩悩に囚われる人間のようでもある。

「じゃあ、行ってくるわね」という言葉を残して、光子がたびたび御堂から退場すると、「みっちゃんが行ってしまったので」という言葉と共にその場を引き受けるのが、音楽と演奏を担当する田中教順である。彼は、会場の中央奥に鎮座している地蔵菩薩像の前で「地蔵菩薩の依り代」役を演じたり、かと思えば、本人役として登場し、お寺の子どもとしての生い立ちや、実際に起こった親子間でのすれ違いについて語ったりもする。彼の口から語られた「分かり合えなさ」の問題は、平安末期の僧・覚阿の逸話と重ねられ、表現を介して他者に何かを伝えることの難しさと、それでもなお表現せざるを得ないという切実さにつなげられる。それは、作り手のアイデンティティの問題というよりも、コロナ禍でもなお、テクノロジーを駆使してコミュニケーションを取ろうとしては毎度痛い目を見る私たちの方に近しい気がする。そもそも、芝居について言葉を尽くして語ることは、浜辺の砂を両手で掬い上げようとするようだと思わずにはいられない。

『テラ 京都編』より(撮影:北川啓太)

それはともかく、『テラ 京都編』の、まるで走馬灯のようなテキストは、ストーリーとキャラクターから成るドラマという制約を超えて、観客と同じ目線で――涅槃堂には「舞台」と「客席」という境目が無いという文字通りの意味と、観客が参加するタイプの上演でもあるという2つ目の意味がある――、1名の演者による語りと1名の演奏家による音楽を通して、淀みなく展開される。稲継美保がさまざまな声色と仕草で、テキストを多彩かつ印象的に演じ分ける。登場するたびに様変わりする衣装(藤谷香子)が、大道具による場面転換とは異なる形で、各場面を視覚的に印象付ける。くわえて、田中教順のドラムスとパーカッションから繰り出される、独特の、けれど決して居心地の悪くないリズムが、75分間の上演の根底を流れている。

観客の側はというと、多くの場面を「わからないなりに」傍観するとともに、ある場面では参加者として「体験」もする。観客一人ひとりに配られた小さな木魚は、まずは合奏のための楽器として、次にアンケート(「自分が死んだらどこに埋葬されたいか?」)の回答ボタンとして、そして最後に繰り広げられる観客参加型禅問答に参加するためのツールとして機能する。パーカッションの演奏と共にスピーディーに示される108の問いに直観的に反応していくと、気づけば禅問答が成立しているというユニークな発想も、用意された108の質問内容も、初演時からほぼ変わっていない。だが、3年前には何気なく聞こえた問いを今日改めて聞いてみると、すっかり意味が変わってしまってもいた。旅行や住まい、生死に関する問いはその最たるものの一つだろう。

「遊戯三昧」する作品
『テラ 京都編』には、最後に何らかのオチに辿り着けるような、わかりやすい一本道の物語があるわけではない。過去の場面で取り残された謎があとで回収されることを期待すれば、話が進めば進むほど、ますます取り残されてしまうだろう。そうではなく、目の前で起こる出来事をあえて即座に解釈しようとしないのが、この作品を面白く観るコツだ。臨済宗の中興の祖・白隠禅師の言う「遊戯三昧」の感覚と言い換えてもいい。つまり、「見たまま聞いたままを楽しむ」ということだ。

会場となった涅槃堂(筆者撮影)

その態度は、この作品の冒頭で行われる宣言(「寺に来たからには、寺の話をしようじゃないですか」)とも通底している。いわゆる「ご当地」的なパフォーマンスでありながら、自己言及的かつ哲学的なこの作品は、実在する寺での公演にあたっての入念なリサーチと交渉に端を発しているiv。劇場が、劇団やオーケストラが入らないと何も生まれない空っぽのハコではなく、その土地の景観の一部を成してきたように、『テラ 京都編』における興聖寺も、単なる一会場を超えた役割を担っている。

そう言ってしまえば、コミュニティ・シアターや応用演劇の文脈をつい惹起してしまうが、ここでの目的は「演劇で社会を変える」ことではない。身近にあるのによくわからないし、普段そのことについて考えもしない物や事――現代日本における寺社も、コロナ禍も、私たち自身もそういう存在じゃなかろうか――をあえて取り出して、目の前に置いて眺めてみる。「さまざまな対象との距離感を計り(かね)ながら、行ったり来たり、寄ったり引いたり」vすることで生まれた『テラ 京都編』は、観客にも同様の体験を提供している。

「わからない」に相対する
さて、今回の公演には30分程度のアフタートークが付いた。進行役としてその場にいて印象深かったのが、2日目にフロアから挙がった、「よくわからない内容を観客に提示する作り手は無責任ではないのか」という指摘だ。たしかに、『テラ 京都編』はわかりやすい作品ではなかった。けれど、それは本当に悪いことなのだろうか。この問題をどう開いたらいいだろうか。

私はこれまでに「わからない」演劇をいくらか観てきた。内容が分からなかったり、上演言語に不慣れだったり、要素が多すぎて認識が追い付かなかったり、「わからない」の種類や程度はさまざまだ。けれど、少なくとも今は、内容をその場で全部理解できないと駄目だとまったく思わない(観てから10年後に突然ひらめく作品もあるのだ)。だから、その場でわからなくて焦ったり失望したりすることも一時期より随分減った。

だが同時に、大人になってから「わからない」ことを楽しめるのが、今日では持てる者に限られがちだということもわかるのだ。ここでの「持てる者」というのは、ひょっとしたら理解することが困難かもしれない舞台のために、あえて時間とお金を費やすことのできる余裕の有無だけでなく、「わからない」イコール「恥ずかしい」ことではないと思えた経験の有無に関わっている。自戒を込めて付け加えるとすれば、理解の及ばないものに分かったフリをしてきた(あるいは、そういう不思議な体験について「見りゃわかるよ」などと煙に巻いてきた)インテリにも問題があると思っている。持てる者と持たざる者との間には、大きな溝がある。

そのうえで、あえて「わかりやすさ」を定義するならば、それは、作品における一つひとつの場面がよく理解でき、登場人物の心の動きを追体験できるということでは必ずしもない。そうではなく、この作品には外枠があって、上演時間中に安心して道に迷えると「わかる」ことなのではないか。道の迷い方は人それぞれだが、同じ時間に同じ場所で数十人が一緒に迷っていることは、実は皆で作品をマッピングしていっているようなものなのだと思うvi。作り手任せではそうはいかないし、受け手ばかりに負担を強いてもしんどくなる。アフタートークや批評は、その協働の間にいるささやかなファシリテーターであったらいいのにと、ときどき思う。

「わからない」作品に飛び込むことも、「わかられない」かもしれない作品をあえて作ることも、今日ではますます難しくなっている。そういうご時世に、「わからなさ」に真正面からぶつかっていった『テラ 京都編』が生まれたことを、私は言祝ぎたい。

関連評:テラ 京都編 – あなたは誰?|チコーニャ・クリスチアン

(2021/4/15)

(註)

  1. まちなかパフォーマンスシリーズ『テラ』2018年11月14日~17日、西巣鴨・西方寺。https://www.festival-tokyo.jp/18/program/tera.html
  2. 『TERA เถระ』については、本誌2020年11月号にて取り上げた。http://mercuredesarts.com/tera_tera-tanaka/
  3. 『三文オペラ』では、「主人公のメッキー・メッサーが絞首刑になる」という本来の結末が劇中で変更され、取って付けたようなハッピーエンドで終わる。「現実はいつでもバッドエンド」(大岡淳訳)から美しいコラールへの転換にアイロニカルなカタルシスが備わっている場面だが、今回、『テラ 京都編』における歌曲の役割を筆者が考える際の補助線となった。
  4. 3月28日アフタートークにおけるドラマトゥルクの渡辺真帆からの発言に基づく。
  5. 公演当日に配布されたプログラムに掲載されたドラマトゥルクの渡辺真帆による文章より抜粋。
  6. 3月28日~28日に京都芸術センターで展示されていた、dot architectsと和田ながらによるリサーチ型プロジェクト「Kansai Studies」(Kyoto Experiment内プログラム)はまさしくその土地のマッピングのプロセスを本質的に含んだアートプロジェクトだった。https://kansai-studies.com/