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曽我部清典&山田岳 デュオコンサートvol.8|丘山万里子

曽我部清典&山田岳 デュオコンサートvol.8
with Tempus Novum

2019年4月20日 GGサロン
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:山田岳

<演奏>
曽我部清典(トランペット)
山田岳(ギター、エレクトリック・ギター)
(ゲスト)ヴァイオリン:横島礼理

<曲目>
田村文生:『lontano for trumpet and guitar』(2019/委嘱初演)(トランペット、ギター)
山本裕之:『パルラータI~III』(1999)(トランペット独奏)
横島浩:『カスミカクモカ』(2019/委嘱初演)(トランペット、ギター、ヴァイオリン)
〜〜〜〜
山本裕之:『パルラータIV~VI』(2010、2012、2019/委嘱初演)(トランペット独奏)
鈴木治行:『句読点XI』(2019/委嘱初演)(ギター独奏)
田中吉史:『Jim and Miles』(2014/2019改訂初演)(トランペット、エレクトリックギター)

 

トランペット曽我部清典&ギター山田岳のデュオコンサートの第8回は、鈴木治行を中心に結成された1960年代生まれの作曲家集団《Tempus Novum》(羅甸:新しいとき)の作品を並べた。
2019年委嘱初演作4作に改訂初演1作であれば、それぞれ曲の紹介をせねばなるまい。
が、筆者の雑駁聴取による説明より、プログラム記載の各作曲家の言葉を適宜引用にとどめ、以下、自由に書かせていただく。

まず、長い前置きをお許し願う。
筆者が現代音楽領域で新聞評を書き始めたのは1970年代末から、ややあって細川俊夫や西村朗などが登場、目を引いたのだからずいぶん昔。
その頃の若手新人が今は40~50代だが、当時、筆者は彼らの作品に批判的であった。ただのアイデア、思いつき、軟弱皮相、主張も思想も皆無、などなど。処女出版の作曲家論(1990)が三善晃、八村義夫、松村禎三だったことからも、筆者が何を現代音楽に見ようとしていたか知れよう。評言に傷ついた若手に今なお、あの時は、と言われる。
小さな自主公演もそれなりに通ったつもりだが、自己満足的仲間内閉塞空気の中で技法だのコンセプトだの評論家ともども肩たたき合う風(ふう)に次第に足が向かなくなった。
その後ウェブマガジンJAZZTOKYOに参加、ジャズ界を覗くと、フリージャズなどやっていること、ライブの蛸壺感も現代音楽と変わらず、ジャズ語だブラッキーだクリシェだと似たようなものだな、と思いつつ、あちこち雑食つまみ歩きで10年たった。
現代音楽界隈(という言葉、好まぬが)をふたたび覗き始めたのは本誌創刊ゆえ、すなわちここ3年ほどだ。
何か変わったろうか。

*   *   *

各曲の解説に入る。文章は筆者が適宜拾い、略したもの。大意は伝わろう。
1. 田村文生:lontanoは「遠くで」や「彼方から」などの意。ギターのタッピングやトランペットのミュートによる音色で、伝わりそうで伝わらなさそうで、メッセージ性が希薄でありつつ「何かもの言いたげな音楽」の試み。
2. 山本裕之:6曲のパルラータ(話し方)はミュートの開閉操作を併せ持った練習曲集。
全てが曽我部のために書かれ、最初の3曲は1999年の若書き。21年がかり、Ⅵ(今回初演)にて完結。それぞれ1〜3分の小品。
3. 横島浩:あるシステムに沿っての創作。本来12ヶ所の変化区分を設定されたが2ヶ所の区分を通過したところで完成とした。唱歌『霞か雲か』のタイトルは子供の頃意味不明だった。ギターは和音、トランペットとヴァイオリンはほぼロングトーンで奏される。
4. 鈴木治行:今回の新作で11曲目、第1作より四半世紀を超えた。「句読点」は一連の繋がった文章に打ち込まれる楔、流れの切断、脱臼。作曲は音響を作るのでなく体験を作る、という認識であり、時間体験の彫刻である。
5. 田中吉史:トランペットとギターのための一種のディヴェルティメント。題名はジム・ホールとマイルス・デイヴィスに由来。

1番手田村。
ギター(以下gt)のタッピングがしゃかしゃかちゃかぽこ鳴った途端、筆者は楽しくなった。遊ぼうよ、と手招きされた感じ。それからトランペット(以下tp)のぷわあっに、gtのぽよーんが応じ、二人の間で絶妙の間合いと喋りが様々に繰り広げられ、ふんふんそれで?と身を乗り出し、刻まれるビートにウキウキし(こういう文章が現代音楽界隈にいかに歓迎されぬか認識するが)、それらの緩急心得た組み合わせに、「入—れて」と二人あやとりに筆者も加わった気分。
ここには「交感」の許容包摂があり、表現意味の押し売り押し付け無しのそこはかとないもの言いがあり、それをまことに心地よい、と思ったのだから作者の術中に見事にはまった(?)わけだ。

2番手山本。
全6曲が休憩をはさみ前後に分けられた。
tpがパオーンと吹いた途端、筆者の眼前に広がったのはサバンナ(行ったことはないが)。象が鼻を高々あげて鳴いたのだ。それは白くて目鼻耳ぱっちり、つい先日『奇想の系譜』で見た若冲『象と鯨図屏風』の白象と鯨へと瞬時に変容、さらにサバンナは鈴木其一『百鳥百獣図』の細密カラフルな獣園へと跳んだのだ(もちろん白象も一番手前にいる)。そうしてその大小の獣たちが吠え、鳴き、さえずる声の「交歓」、動き回るさまを実に生々しく体感したのである。
練習曲だって?確かに技巧修練狙いかもしれぬが、歌あり礫あり山あり谷あり。楽しい。
休憩という遮断があったにかかわらずその映像は持続し、筆者は前・後半終了時とも熱心に手をパチパチ叩いたのであった。

3番手横島。
わかりやすいロングトーンと和音、なのだが、前述の『奇想』ワールドに筆者はまだ遊んでおり、岩佐又兵衛『山中常磐物語絵巻』が浮かんできたのは至極当然。これは絵巻物語だな、としか思えない。ヴァイオリンのロングトーンがまるで笙みたいだったし。
ゆるゆる手繰りつつ、流れゆく時空の「物語」を読む。この流れって、私たちのなか、底の底のほうにどこかしら潜む水脈で、そこに音がぽちゃん、ぽとんと落ちてゆく、ここから短歌も俳句も生まれてきたんだろう。
なあるほど「かすみかくもか」、と聴後、納得。
このゆるゆる、に、前席の方は船を漕いでいた。安らいだのである。楽しい。

4番手鈴木。
いろんな奏法がバラエティ豊かにぱっぱ現れ、途中で「4分33秒にセットします」とタイマーをセット、アラームが鳴ったら席を左に移して続ける、といった趣向。
最初は小さな鑿でコンコンと。大理石っぽい手触り、と思ったが、対象物体はやがて消え、様々な工具によって荒削りになったり、深彫りしたり、面取りしたり、時空を自在に分割、いや伸縮させてゆき、そこに計量時間(4分33秒)を嵌め込む腕の振るい方、実に冴え冴え職人だ。ふっと横切るメロディ、響の質感量感、手(作者の、素手でない)の動きの内に計算され尽くした脱臼感。
その流れは、横島の絵巻と異なり、これまた楽しい。

5番手田中。
今回はエレキで演奏とのことで、エレキ系が苦手な筆者は一瞬たじろいだのだが、なんということはない、いたって優しい音響に胸なでおろす。だが、作者のMCと、解説にあった『My Funny Valentine』に、なにがし聴き取ろうとする意識が働き、それまで勝手に遊び歩いた筆者の想像世界がかなり「すでにあるもの」へと引っ張られたことは確か。
「既知と未知」のあんばいを楽しむにも色々であるな、それが本コンサートに通底する「新しいとき」でもあろうか、と思いつつ最後のギターのトレモロが消えるのに耳すませた。

ここにあったのは表現などと眦(まなじり)つり上げたものでなく、と言ってやわやわ意味も思想もないものでなく、各々筋の通った発言しつつ全体が私たちを手招いての遊び話・輪(わ)になっており(各タイトルをご覧あれ)、それが筆者の心身をどれほど自由にはばたかせ、楽しくさせ、それがどれほど「人間的な交歓」に満ちていたか、ホクホクと現代ギター社6階から古ぼけた小さなエレベーターに乗り階下に降りたのであった。

*   *   *

筆者が若冲を見つけたのは20年前。彼の生誕は1716年、『奇想の系譜』はその前後8名の傑作を“江戸絵画ミラクルワールド〜江戸のアヴァンギャルド一挙集結!”と謳って展示したもの。
その展示から受けた「面白すぎ!」がこのコンサートに重なったのは、江戸絵師の「遊び心」の洗練洒脱と心意気がそのまま音に見えたからだろう。
かつて、ステージでボコボコ、バスケットボールをつく類に(いわゆる前衛)、勝手に自分らで遊んでれば、と鼻白んだのとは全く異なる。
何がどう?

ここから先は、近現代史の話になるゆえ切り上げる。
ただ、「“自然”に学べ」とは全ての文化文明技芸技術の基、どの時代にも前衛は居る、を踏まえつつ、江戸アヴァンギャルドの筆が欧米近現代音楽技法そのままで(ミニマルあればわずか3cm四方画面に五百羅漢!が描かれる極小作もあり)、きょうびの音「新しいとき」へと流れ込んでいる、と思えたのは愉快だった。
音楽は演奏者がいないと成り立たぬから、奏者にも感謝。

こういう楽しみ方は邪道?
いや、佳きかな、佳きかな。

関連評:曽我部清典&山田岳デュオコンサートvol.8 with Tempus Novum|齋藤俊夫

(2019/5/15)