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カデンツァ|裸足のコパチンスカヤ|丘山万里子

裸足のコパチンスカヤ

Text by 丘山万里子( Mariko Okayama)
Photos by 藤本史昭/写真提供:トッパン・ホール
       堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団

初めてコパチンスカヤを聴いたのは《ファジル・サイ・プロジェクトin Tokyo 2008》の第3夜 [オール・コンチェルト]で。私の興味はサイの『ピアノ協奏曲第2番シルクロード』だったが、そちらはいたって凡庸。が、『ヴァイオリン協奏曲』(日本初演)でのソリストが破天荒に近く、その名がくっきりと脳裏に刻まれた。当時、ロマ~ケルト~ユダヤ~アフリカ音楽などのルーツと交差行路を追っていた私は、その桁外れの野生の凄みになぎ倒されたのである。言ってしまえば西欧周縁文化あるいは芸能などと「芸術」から峻別されるもののもつ強烈な体臭をその毛穴から発散させくらくらさせる、そんな音楽をやった。当時はサイ(トルコ)もクラシック界の風雲児であったが、それが霞むほど野放図少女で(すでに30歳を超えていたのに)、アルゲリッチのヴァイオリン版、と思ったものだ。
聴き手によってぞっこん惚れ込むか、何、あれと眉をひそめるか、好き嫌いが分かれる。私はこの種の魔力に弱いが、たまに会うのがいいかな、と思う質。2019年、いささか胡散臭いテオドル・クルレンツィスとともに来日、話題となったが、あまりのクルレンツィス狂騒曲に敬遠した。それから4年。
トッパン・ホールでのリサイタルには2012年に登場、過去5回のステージとのことだが
、スコアとヴァイオリンを高々振りかざし、裸足でスタスタ出てくる姿はやはりインパクト大。コパチンスカヤ劇場開幕!とわくわくする。完売客席のほぼ全員がそうだったろう。お行儀良い四角四面ステージなんて誰も望んでない。何をやってくれるか、見せてくれるか、そういう空気を一瞬にして生む、まさに破格の人だ。
シェーンベルクからアンタイルまで、どれひとつとっても「今、この時を生き切るぞ!」の顔した音たちが飛び出してくる。シェーンベルクもウェーベルンも彼女の手にかかると火傷しそうなくらいヒリヒリした血が通う。
12音技法だの無調だの色々やってみたところで、人間の「素」なんてこんなもんよ、ほら、叫んだり歌ったり急にしんと黙ったり。作曲家の作為や創意、技法や形式なんて、一皮剥けばみんなおんなじ。どうってことないわ。ベートーヴェン『ソナタ第7番』の時代背景? もちろん、そりゃあ大事。
だからこそ、今、あたしたちはこう弾く!
と、私には聴こえてしまう。

まずピアニスト、ヨーナス・アホネンのユニゾン、テーマ提示からして.....チーターが獲物におどりかかる寸前のように息を、身を(音)潜めての殺気。控えるコパチンスカヤ、そうっと目配せ、から何気に滑り込み、さあさあ、あたしの出番!とばかりに流れに躍りかかる。“狩”(ピアノ・ソナタ『狩』とは違う)の火蓋が切られたのだ。ものすごいスピードで獲物を追うチーターの目はらんらんと輝き、その俊敏の描く円弧と放物線(2人の身体運動全て)の極小〜極大のダイナミズムはとてつもない。

©藤本史昭

“狩”と言ったが、野生動物は単独一騎打ちの捕食がほとんど。自分の獲物は自分で仕留め、くらう。生存の原則だ。では、この2人は? 見るところ、彼らはハイブリッドなのだ。一心同体でなく、異身動体(動態)。くるくる目まぐるしく変わる「あんたとあたし」(アホネンがまたドンピシャリ!)がしめ縄みたいに巻き上がって一緒に飛んだり跳ねたり、うねる、くねる、はじける、ぱっと飛び散る、ぎゅっと凝縮する、フレーズごとにそれがパキパキ決まってゆく。しかもやたら速いから、いわば音楽(獲物)の肉片を食いちらし骨髄にまで貪り進む、という感じ。音階を駆け上がり駆け下るってこれほど凄まじいことだったのか。和音、重音を響かせるって(時には舌なめずりしてるみたいだし、食休みほうっと一息吐いているみたいだし)こんなに空恐ろしいことだったのか。

©藤本史昭

なぜか私は昔々のお話『ちびくろサンボ』のバターを思い出したのである(これに匹敵する物語は現代にもあるに違いない)。
唖然呆然するうち、第2楽章。これまたジプシー女(差別用語だがあえて使わせていただく)の妖艶、コケットか、はたまた生娘のうるうる純情か。両者のトレモロの絡みに文楽のわなわなを想起する。近松門左衛門『曽根崎心中』のそれ。
そうしてハッと了解した。要するに、彼らはほぼパンクなのだ、と。
むろんスケルツォでは衣装の裾を跳ね上げぴょんぴょん踊り跳ね、終楽章に突入、出力全開、怒涛のパンクとなったのはいうまでもない。
そうか、ベートーヴェンはあの頃、パンクだったのかも....。

©藤本史昭

最後のアンタイル『ソナタ第1番』は独壇場。これでもかとばかりに人間の欲動を揺すぶってくる音楽と演奏。
私は、これもあえて言うけれど、人間の生命の根源につながるセクシュアルな欲動の全てを、微に入り細に入り曝け出す、暴き出すような感じで、実物をまじまじ見たことはないのだが、葛飾北斎の春画が浮かんでしまうのであった。こんな音楽(演奏、と言うべきだろうが)に煽られ、炙られ、締め付けられて欲情しない人間がいるだろうか。と、感じた私は異常か?
客席は一見、大人し気であったが、それとなく足元で何かが蠢いているようであり、皮膚の下がじわじわ火照っているようであり、如何とも言い難い空気が醸成されていた、と感じた私は異常か?

さて、その5日後、私は都響スペシャル「リゲティの秘密―生誕100年記念」にいそいそ出かけた。コパチンスカヤがリゲティをやる。彼女の出番はリゲティ2曲だったが、やはり『マカーブルの秘密』(不条理コメディ)での、全きコパチンスカヤ芝居小屋とでもいった大はしゃぎは、前代未聞と言っても良いのではないか。東ドイツ秘密政治警察のパロディ、長官ゲポポによるコロラトゥーラ高音アリアの抜粋だが、「シッ!シシッ!」から始まる声と楽器を自在に操り、遊びまくり、鋭いジョークやユーモアをばら撒き、途中で出てきた指揮者大野和士が、「こんなの、もう耐えられない!」と棒を振り止め叫ぶものの、役不足にすら思える「あたしのリゲディ!」に、ステージ(オーケストラ)も客席も振り回されっぱなしの快感が満ち満ちたのであった。
客席への煽りに盛り上がる聴衆、こんなに上下内外入り乱れての歓楽ぶりはちょっと思い当たらない。
ちょうどこの夜、長らくコンサートミストレスの席にあった四方恭子vnの退任も重なり、彼女とのデュオも聴かせ、みんな喜び、みんな楽しく、みんなしみじみ、の稀有な場と時間となった。
帰路、満開の夜桜の艶やかもまた、それを祝福するようであった。

©堀田力丸

コパチンスカヤとは何か。
彼女がその場を巻き込み、巻き上げるパッションの渦パワーは、街から街を流れ歩く古今東西の楽師が本能的に備えていたもので、彼女の異能はそこに直結する。
例えば今でも私の住む地域の神社には猿回しがくるし、昔は一角に芝居小屋が設えられ、子供はのぞいちゃいけないよ、みたいないかがわしい空気があった。だけに子供はいよいよ好奇が募る。そういう「この先危険!」こそが、日常の摩耗摩滅にどんよりした人々の心を身体を掻き立てるカンフル剤で、それは私たちに必須のものではないか。
流浪の楽師はどこにでもいた(いる)。冠婚葬祭に必須だから。
インドの田舎を巡れば、ぴいひゃら笛の音に大人子供が行列でくっついて歩いてゆく。「来たよ〜」のおふれだったり、「いくよ〜」の掛け声だったり。葬式だったり、お祭りだったり。
キューバの青い海辺の街角でギターかき鳴らすおじさん、歌うおばさん。
周りを囲んでみんながダンス、手拍子。
通りがかりの老若男女が手を取り、抱き合い腰を振り。
ちょっとした「特別」が、普通の日々の隙間に彩りとして差し色されている生活、人間、その空気、在り方。
コパチンスカヤが私たちにくれるのは、そういう「特別な彩り」ではないか。
「くらうこと」「交わること」「生きること」の原初の欲動と、それに常に張り付く喜怒哀楽とを、彼女は真っ直ぐに届けてくる。日本でいうなら、出雲阿国か。
私は近くの広大な原っぱ公園散策のおり、固められた歩道でなく、芝や雑草の上を歩くことがある(原っぱ公園ゆえOK)。すると足裏に土の凸凹、下草の柔らかさが直にくる。歩きはスイスイでなくポクポクになる。ああ、そうだったっけ。大地からの刺激は、自然というものの力を実感させる。
彼女の源泉もまたそこにあろう、だから裸足の美神美獣。
どんな形式も様式も技法も、必ず時代の要請から生まれるもの。中世、ルネサンス、バロック、古典、ロマン、近現代などと区分けするが、その背後にあるのはいわば権力の動向だ。教会、宮廷、市民社会、消費社会などなど時の権力がそれぞれの時代というものを作ってゆく。
じゃあ権力を動かすものって何? 突出した独裁者? それとも無数の名もなき人々? それとも?
その移ろい(全くもってこの世はうたかた)を横目で見ながら、何気にしたたかに歌い踊る人々。
詩を吟じ、楽器を奏で流れ歩く楽師たちを心待ちし、わらわらと駆け寄ってゆく人々。
私は例えば東西分断世界や後進国と呼ばれるあちこちへの旅で、戦火に、貧しさに喘ぐ人々、子らを目に胸つぶれたが、その中にあっても強く輝く何ものかを見ることもあった。
楽師たちはかつても今も、そうした何ものかを携え、さまざまな地を巡り路地に分け入り、瞬時の輝きと喜び、陶酔を振りまいてゆく。
その地その街その村の人々から滋養を汲んで。
だから彼らは枯渇しない。
古代だろうが現代だろうが、どんな天才音楽家もそういう光景を目の片隅でもきっと見たろう、触れたろう。
楽譜にそれが隠されている。
「あたしはいつでもそこを掘る。そこから生む。」
それが彼女のベートーヴェンでありリゲティなのだ。
AI社会と核戦争という人為人禍の時代にあって、「だからあたしは今、こうやる!」。

 

付記)
間宮芳生の「足の裏音楽論」をその著作『野のうた 氷の音楽』(青土社/1980)から2つご紹介しておく。

このところ、ぼくは、「足の裏で感じ、足の裏で考える音楽」という考えにとりつかれている。これは根本であり、すべての音楽現象の故郷であり、音楽の生き死にを左右する重大事なのではないかと。そして音楽の歴史とは、人が音楽をとらえ、音楽を考えるからだの部分が、足の裏から、次第に上へ上へと昇ってきた歴史ではなかったかと。...ことにヨーロッパでは。ヨーロッパの音楽の、ぼくらがいま古典と呼んでいる、十八・九世紀の音楽などは、そうした長い歴史の中での、ごく新しい、またごく「ありふれない」特殊な上ずみのようなものではないかとも。p.66

また、祭りについて、

本来なにかを表現しようとするのではない行為を、立ち合う人々とともに共有することを通じて、ある密約を交わし合うのが、まつりなのかもしれない。p.71

 

(2023/4/15)

関連評:東京都交響楽団第971回定期演奏会Bシリーズ|齋藤俊夫
都響スペシャル【リゲティの秘密-生誕100年記念-】|秋元陽平

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◆パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)
2023年3月23日@トッパンホール
<演奏>
パトリツィア・コパチンスカヤvn
ヨーナス・アホネンpf
<曲目>
シェーンベルク:幻想曲 Op.47
ウェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 Op.7
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 Op.30-2
フェルドマン:ヴァイオリンとピアノのための作品(1950)
アンタイル:ヴァイオリン・ソナタ第1番(1923)
(アンコール)
リゲティ:Adagio molto semplice
カンチェリ:Rag – Gidon – Time

◆都響スペシャル【リゲティの秘密-生誕100年記念-】
2023年3月28日@サントリーホール
<演奏>
指揮/大野和士
ヴァイオリン& 声/パトリツィア・コパチンスカヤ*/**
合唱/栗友会合唱団***
管弦楽/東京都交響楽団
<曲目>
リゲティ(アブラハムセン編曲):虹~ピアノのための練習曲集第1巻より[日本初演]
リゲティ:ヴァイオリン協奏曲*
バルトーク:《中国の不思議な役人》op.19 Sz.73(全曲)***
リゲティ:マカーブルの秘密**
(ソリスト・アンコール)
パトリツィア・コパチンスカヤ&四方恭子vn
リゲティ : バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)