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東京都交響楽団第971回定期演奏会Bシリーズ|齋藤俊夫

東京都交響楽団第971回定期演奏会Bシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra Subscription Concert No.971 B Series

2023年3月27日 サントリーホール
2023/3/27 Suntory Hall
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by (c)堀田力丸/写真提供:東京都交響楽団

<演奏>        →foreign language
東京都交響楽団
指揮:大野和士
ヴァイオリン(*)&声(**):パトリツィア・コパチンスカヤ
合唱:栗友会合唱団(***)
合唱指揮:栗山文昭
コンサートマスター:四方恭子

<曲目>
リゲティ(アブラハムセン編曲):『虹』~ピアノのための練習曲集第1巻より(日本初演)
リゲティ:ヴァイオリン協奏曲(*)
(ソリスト・アンコール)
リゲティ : バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)
(ヴァイオリン/パトリツィア・コパチンスカヤ、四方恭子)

バルトーク:『中国の不思議な役人』(全曲)(***)
リゲティ:『マカーブルの秘密』(*)(**)

 

西洋クラシック音楽の歴史上、奇矯な、eccentricな音楽家は筆者が考える所ではストラヴィンスキーとバルトークを2大ルーツとして、その流れから戦後現代音楽にショスタコーヴィチとリゲティが登場する。シュトックハウゼンも作品だけ聴けば相当なものだが、彼は自身としては奇矯を目指しているのではないからこの流れには入らない。カーゲルはどうなのかと考えるとさらに難しいが、彼の脱音楽作品もストラヴィンスキー・バルトークらとは違う流れに存すると思われる。カーゲルに奇矯嗜好を混ぜると現代日本の川島素晴になるのだろうが(参考:五線紙のパンセ|川島素晴 ) 、話が本筋から逸れてきてしまうのでこのあたりにしておこう。
奇矯な音楽と言ってもその中に〈ふざけた〉要素は全く含まれない。大真面目で全身全霊をこめて音楽することによってはじめて奇矯な音楽は成就する。そこには作曲家、演奏家、聴衆三つ巴の真剣勝負の緊張が張り詰めている。いや、張り詰めた緊張を一瞬で突き崩し一笑をもたらす、それが奇矯の真髄か、はたまた隙あらば常識的思考を裏返す、それもまた奇矯のなす業。

リゲティ『虹』、管楽器が空間に色を塗り、コンサートマスターが主導する弦楽器がおぼろげな光を発しつつ上行していく。さらにチェレスタが瞬くその音楽的情景は幻想的だが、悪夢的でもあるからこそ奇矯な楽しみを味わえる。ここに今回の奇矯の音楽会は開幕した。

リゲティ『ヴァイオリン協奏曲』第1楽章、ソリスト・コパチンスカヤのかそけき調べに始まったと思ったら、オーケストラのヴァイオリンメンバーの音がソリストから細胞分裂するように増えていく。そこからジャズっぽい和声で進行する。マリンバやヴィブラフォンなど鍵盤打楽器がヴァイオリンと呼応しつつ音響空間に捻りを加えていく。最後は冒頭の続きのようにソロ・ヴァイオリンが虚空に消えていく。
第2楽章、リゲティがこんな牧歌調の旋律線を書くのか!?と驚いて間もなく、オカリナの芯のない空虚な音がぴいぷうぴいぷうと心の空隙に刺さってくる。ソリストは正統なヴァイオリンを弾いているのにトランペットやホルンやオカリナが場の精気を萎れさせる。そんな可愛そうなソリストにフルートがそっと寄り添って了。
ごく短い第3楽章、ここもソリストのたくましい旋律をオーケストラが虚無的な音響で無化してしまう。アンチ・コンチェルト的コンチェルト、とでも言おうか。最後はオーケストラが虚無へ突撃して爆発的に終わる。
第4楽章、ソリスト、弦、管、全パートが寂寞な音楽を奏でる。それでも美しい? いや、これは廃墟の美しさだ。我々がオーケストラを聴いているのと同時にオーケストラも我々を睨んでいる。これが美か? オカリナによる虚無の音響。そしてソリストを先頭に全員が上行してかき消える。
第5楽章、ソロ猛々しく。オケも荒々しく。ある意味正統的な逞しい悲壮的音楽。だがその途中でソロの演奏がバッタリと止まり、オーケストラが勝ち誇ったように音を鳴らす。それでもソロ再起し、最後のカデンツァに入ると……コパチンスカヤがやはり猛々しく楽器を擦りつつステージを走る。ヴァイオリンを弾きつつ口笛を吹き、口で「ラーラーラー」と歌い、足踏み鳴らす。それを見たオーケストラ全員揃って足踏み鳴らし、最後の最後は奏者バラバラに「パン」「ドン」「ゴン」「コン」「キー」と奏して……終曲。ナニを聴いたのだろうか……アンバランスの美に満ちた、空虚の音楽……奇矯だ。
アンコールはコパチンスカヤとコンサートマスターの四方恭子のデュオによるリゲティ 『バラードとダンス』。2人とも遊び心満載で会場中で音を楽しんだ。

奇矯の源流、バルトーク『中国の不思議な役人』は冒頭から大野和士と都響の腕に舌を巻いた。複雑極まりない管弦楽法による変拍子とポリリズムの連続をかくも整然と弾きこなすとは。特に楽器ごとの音量の微妙極まりない調節、前線に出す旋律楽器と土台を固める伴奏楽器の楽想ごとでの役割分担の徹底は、よほど指揮者が譜面を読み込み、さらにその通りにオーケストラが動く信頼関係がない限り不可能だろう。
オーケストラの集団的技量もさることながら、奏者の個人技も卓越していた。序盤の娼婦のクラリネットの色気、最初の客のイングリッシュホルンの朴直とした感覚、第2の客のオーボエの精神的不安定な様、それぞれのキャラクター作りが完璧である。その中でもタイトル・ロールたる役人の登場する、他の楽器がトレモロする中でトロンボーンが下行グリッサンドする箇所以降の音楽たるや、息をするのを忘れるほどであった。役人が女を捕まえ、オーケストラが絶叫する所の禍々しさと、それに付きまとう後ろめたい快楽など、驚異的奇矯と言うべきか。オルガンや合唱の音色・声色もまた禍々しくて気持ちが良い。そして終曲の超弱音、不条理で奇矯なこの作品を見事に締めくくってくれた。

アンコール的な作品だろう、と筆者が高をくくっていたリゲティ『マカーブルの秘密』がそれどころではなかった。コパチンスカヤがゴテゴテとしたドレス――見たところ新聞紙と、あと何か白っぽい安い生地らしきものを大量に貼り付けたもの――を着て、ブツブツブツブツと何か早口で呟きつつ早足で袖から舞台に登場。さらに「オーッホッホッホ」「ハーッハッハッハ」「アーッアーッアーッ」と絶叫したりもしつつ、室内オーケストラのメンバーに絡む。そんなことをしているうちに室内オケとコパチンスカヤがやっと合奏を始める。ジャズというかポピュラー音楽っぽいこの合奏が実に楽しい。芸術家というより楽隊屋的な気取らなさだがやってることは奇矯極まりない。コンサートマスター四方が「沈黙は金」と言ってコパチンスカヤと肩を組んだり、コパチンスカヤが高速回転したり、大野が「もう耐えられない!」と侍ジャパンの栗山監督に助けを乞うて叫んだり、いや、現代音楽は何でもあるなあ、とニヤニヤしながら見て聴いて、最後のコパチンスカヤの「ギャー!」という絶叫まで存分に奇矯っぷりを楽しんだ。

この世に「普通」の人間など存在せず、皆が皆どこかに奇矯なものを持っている。そんな人間に伏在する奇矯を表に出す今回のような演奏会は、我々にとってある種の「救い」でもあろう。

今回の3月27、28日の公演をもってソロ・コンサートマスター四方恭子が勇退するが、コパチンスカヤがアンコールや最後の曲で彼女と合奏したり絡んだりしたのはそのためだったのであろう。こういう心遣いのできる音楽家とオーケストラの存在はなんというか、美しい。

(2023/4/15)

関連記事:カデンツァ|裸足のコパチンスカヤ|丘山万里子
都響スペシャル【リゲティの秘密-生誕100年記念-】|秋元陽平

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<players>
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra
Conductor: Kazushi ONO
Violin(*)&Voice(**):Patricia KOPATCHINSKAJA
Chorus:Ritsuyu-kai
Chorus Master:Fumiaki KURIYAMA
Concertmaster: Kyoko SHIKATA

<Pieces>
Ligeti(arr.by Abrahamsen):Etude pour piano, Arc-en-ciel (Japan Premiere)
Ligeti:Violin Concerto(*)
(Soloist Encore)
Ligeti:Baladă şi joc(Ballad and Dance)
(Patricia KOPATCHINSKAJA、Kyoko SHIKATA, Violin)
Bartok:The Miraculous Mandarin(***)
Ligeti:Mysteries of the Macabre(*)(**)