Pick Up (2022/08/15)|「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022」全プログラム発表記者会見|田中 里奈
「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2022」プログラム発表記者会見
“KYOTO EXPERIMENT – Kyoto International Performing Arts Festival 2022” Full Lineup Announced
京都芸術センター、2022年7月19日
July 19, 2022, The Kyoto Art Center
Text by 田中里奈(Rina Tanaka)
画像提供:KYOTO EXPERIMENT
主催:京都国際舞台芸術祭実行委員会[京都市、ロームシアター京都(公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団)、京都芸術センター(公益財団法人京都市芸術文化協会)、京都芸術大学 舞台芸術研究センター、THEATRE E9 KYOTO(一般社団法人アーツシード京都)]
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→記事前半:KYOTO EXPERIMENT 2022 プログラム発表記者会見報告
新作を招聘するリスクと意義
共同ディレクターの川崎が、「アーティストの皆様に新作をつくって頂くということが、このフェスティバルの力」と記者会見で述べた通り、「Shows」にかかる11演目のうち、約半数の5演目が新作だ。
他方、国際芸術祭では近年、完全な新作よりも、話題になった作品を招聘する傾向がますます強まっている。2010年代後半頃には、各地の芸術祭で予算が縮小される中、複数の芸術祭の横断ツアーを打つことで、制作と移動にかかるコストを複数の収入で回収することのできるアーティストと作品しか生き残れないような状況が世界規模で形成されていた。それは、内野儀の言うところの「移動性(モビリティ)」2をいっそう高める一方で、「西洋の観客の関心を高めるように、自己をエキゾチックに仕立てる(self-exoticize)」3ことを助長してもいたように思う。
国際芸術祭をめぐる現状はますます厳しくなりつつある。長く続くコロナ禍で、海外アーティストを招聘するリスクが高止まりしてしまったからだ。そのリスクを引き受けるかどうかを決めるのは主催者だが、もしあえてそのリスクを引き受けるつもりならば、「なぜその必要があるのか」を出資団体または広く公に説明することがいっそう求められる。あいちトリエンナーレ2019をめぐる報道や、感染拡大初期の「不要不急」という判断基準の導入などを経て、さらにパンデミックによる経済打撃が重なり、日本で国際芸術祭を《いま、あえて》開催することの意義が問われている。
今日に芸術と付き合うことの難しさ
今回の会見資料に掲載された「ディレクターズ・メッセージ」の冒頭には、あいちトリエンナーレ2019以来の表現の自由に関する議論や、経済格差、さまざまな分断、舞台業界の現場における権力構造の問題、そしてロシアによるウクライナ侵攻が、表現領域に大きな影響を与えるだろうと明言されている。これらの問題は、観客にとっても他人事ではない。
何かを観るためにチケットを予約し、劇場に足を運ぶことで、誰かを積極的に支援すると同時に別の誰かを蔑ろにする構造の再生産に否応なく手を貸してしまう、という根本的な問題はますます露呈し続けている(この問題に関しては、これまでの寄稿記事「ジルヴェスターとニューイヤーは何のためにある?」「無害化された問題にあっかんべーする岡田利規」でも少し取り上げた)。「観に行かない」という行為を取れば、積極的に何のアクションも起こさないことで、構造の再生産に別の形で手を貸してしまう。情報を収集して、ぐちゃぐちゃな現実について考えようとすればするほど、どうしたらいいのか、途方に暮れてしまうだろう。
現状をそのように鑑みた時、本稿で報告した記者会見の冒頭で、天野実行委員長が言及した内容は非常に重要だ――「芸術は、直接現実を変えることはできない」代わりに、「見方を変える」という仕事を担っている。
政治哲学者のアイリス・マリオン・ヤング曰く、さまざまな不均衡(彼女の言葉で言うところの「不正義」)を生み出す社会的な構造には、あらゆる人が直接的または思わぬ形で関わっているために、責任の所在を追及するだけでは不正義の構造は変わらない。重要なのは、「構造がどのように不正義を生産し再生産するか」、言い換えれば、「過去においてどのように生起し、こんにちまで機能してきたかについて理解する」4ことを通じて、構造の再生産に意識的であり続けることだ。個々人ができることに限りはあっても、人々の意識の変化が社会全体を徐々に変えていくことは、ここしばらくの世界各地でのハラスメントをめぐる問題――少なくとも10年前と比べて大きな変化が起こっていることは間違いない――を見ていても明らかだろう。
ここで先回りして、不正義を生み出してきた構造を多角的に理解するのに、芸術が果たす役割がある、と結論付けてしまいたいところだが、急いでそう言い切ってしまう前に、ヤングの考えをもう少し腰を据えて紐解いてみよう。
「もしもし?!」から「てくてく」へ
ヤングは、歴史的な不正義の構造を理解することが必要だと主張する一方で、それを日常生活で達成することがいかに困難なのかを指摘する。「日常生活においては、ある特定の他者との相互関係の直接性によって、わたしたちの注意とエネルギーは消耗し、より広範な社会的見地をとったり、いかにわたしたちが組織化し、自分たちの行為を調整する必要があるのかを考えたりする余裕はほとんど残されていない」5。事実、私たちは目の前で次々に起こる出来事や、パソコンやスマホなどの画面にひっきりなしに現れる自分宛のメッセージや通話に対処することに、一日のうちに使える時間のほとんどを使い切ってしまう。
限られたリソースの中で、途方もなく大きな問題に向かっていくには、いったいどうしたらいいのだろうか。ヤングは身近な他者との関係性につねに立ち戻る。なぜなら、「他者の現前に在ることで、[…]その人びとの目の奥へと目を凝らし、その肉体の傷つきやすさを感じ」るという具体的な出会いが、「もっとも根源的に責任を経験する」瞬間だからである6。ここでの《責任》とは、「自己責任」という語から連想されるような、誰かへの非難と排除を伴うものではない。そうではなく、異なる立場の人々が「いま、お互いにどのように関わり、どのようにより公正な未来を作りだすことができるのか」7を共に考えようとする態度を指している。
〈他者の目の前にわたしがいる〉という他自的な肌感覚の起こる可能性が最小限に狭められたコロナ禍において、〈今は目の前にいないけれど、本当はつながっているはずの他者〉とどうやってつながり直すことができるのか。つながりの感覚的喪失に対して、KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNは「もしもし?!」と声をあげたのではなかっただろうか。この芸術祭はそのようにして、地理的または感覚的に遠くにいた他者とのつながりを、できる限りの方法で確認しようと試みたはずだ。
昨年のコンセプトをそのように認めると、「ニューてくてく」と聞いたときに筆者がなぜしっくり来たのかに合点がいく。「もしもし?!」の次の段階は、その他者のもとへ「てくてく」歩いていく、あるいは、他者とのつながりを「てくてく」歩きながら考えることだ。言い換えれば、「ニューてくてく」とは、忘れかけていた身体の感覚に立ち戻り、他者とフィジカルに出会う時に生ずる《責任》を感覚的に思い出すということであり、さまざまな関係性の網の中のどこかに引っかかっていたはずの自己と他者との見えなくなった関係をつないでいくことである。
この関連で思い出したのは、2020年のヴィーン芸術週間のオープニング・トークにおけるミロ・ラウの発言だ。
現実がリアルじゃないのが問題だ。[…]すべて実際に起こっていることなのに、リアルじゃない。だからアーティストとして、私はそれを現実に翻訳することが芸術の仕事だと考えている。8
ここでいう「翻訳」行為が、すべてを理路整然と説明してくれることを指すわけではない。そのままでは苦くて飲み下せないものを美味しく調理したり、オブラートに包んで呑み込んだりするための手段ではもちろんない。だが、いかなる題材を扱っていたとしても、芸術は思いがけぬ対象の選択や切り口を通じて、リアルではなくなってしまった現実と向き合う機会を私たちに開いていると、筆者は思う。
そうした新たな歩みとしての「ニューてくてく」が連想された一方で、むろん、一般的な意味としての説明責任もまた追及されなければならない。京都市による予算削減が妥当だったかどうかはきちんと問われるべきであろう。文化庁が京都に移転する年に、移転先の国際芸術祭が存続の危機を訴えているというあべこべの状況をやり過ごすわけにはいかない。
これまで、芸術祭の予算分配をめぐる判断は、公的助成の決定者に委ねられていた。だが、クラウドファンディングが始まったことで、支援するかどうかの判断は私たち個々人にも委ねられた。そんな時、私が判断する基準は、資金の使用用途だけでなく、この芸術祭が今(または未来)の自分にとってどのくらい大切なのかということだ。自分で考え、判断するために状況をきちんと理解することが、私たち個々人に求められている――とはいえ、ふるさと納税プログラムへのエントリーでゲットできる非売品のトートバッグ目当てで寄付するのと、芸術祭の意義について思い悩んだ末に寄付するのとで、どちらが良くてどちらが悪いという話ではまったくない。支援を決める基準は人それぞれである点が、クラウドファンディングの長所だろう。
「ニューてくてく」を掲げたKYOTO EXPERIMENT 2022で、どのような出会いが待ち受けているのか、まだわからない。感染拡大の著しい日本国内で、公演が次々とキャンセルされていく現状では、先の話どころか、明日の公演が無事に行われるかどうかもわからない。そうした先読みを繰り返すことの不安に、「てくてく」という地に足の着いた擬音のもたらす不思議な安心があることは、今だからこそ書き留めておきたい。
(2022/08/15)
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2 内野儀『「J演劇」の場所:トランスナショナルな移動性へ』東京大学出版会、2016年。
3 Erika Fischer-Lichte, Theaterwissenschaft: Eine Einführung in die Grundlagen des Fachs, Narr Francke Attemto Verlag, 2009 (English edition: The Routledge Introduction to Theatre and Performance Studies, edited by Minou Arjomand and Ranoma Mosse, translated by Minou Arjomand, Routledge, 2014: 139).
4 Iris Marion Young, Responsibility for Justice, Oxford University Press, 2011(『正義への責任』岡野八代・池田直子訳、岩波書店[文庫版]、2022年、194頁)。
5 前掲訳書、295頁。
6 前掲訳書、291-2頁。
7 前掲訳書、329頁。
8 Howlround, “School of Resistance – Episode One: This Madness Has to Stop,” presented by NTGent, May 16, 2020.