Menu

カデンツァ|音楽の未来って (13)梅本佑利作品・考(2)|丘山万里子

音楽の未来って (13)梅本佑利作品・考(2)
“Where does Music come from? What is Music? Where is Music going?”
“ D’où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?”
(13)Memo/Yuri Umemoto  (2)

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

このコラムでの《音楽の未来って》シリーズはここまで12回を数える。2020年1月15日号 開始だから、これが13回目。
音楽の未来を考えようと思って始めたことで、初回は高校生のブラスバンドと大学生の合唱について。その最後を「SNSゲーム世代のデジタル思考、とか、音楽の真の力を伝えるには、などの論議の前に。私たちこそ、音楽の喜びの灯火がいつどこでぽっと自分に灯ったのかを、もう一度凝視めるところから始めたい。」と締めくくった。
2年を過ぎ、そろそろ終わりにしようと思っていたが、その前に。

4/15号でプチ炎上した私のレビューでの梅本佑利氏作品への言及についての考えの初回は、前号に掲載した。
梅本氏(以下、敬称略)は二十歳だと言う。
演奏終了後の拍手に立ち上がった若者は、確かにとても若かった。
ゆえ、《未来って》シリーズの中で考えてみたい。

彼の音。スコアを見ながらyoutubeで、あれから何度か聴いた。全2部構成。
https://www.youtube.com/watch?v=OU8-vKPXb9s
第1セクション。しつこいが、私が『ハノン教則本』と述べたように、DからDの音階(ニ長調)を上下行するシンプルな開始、のち反行形を重ねるなどラインに沿ってちょっとした変化を与えてゆく。一貫しているのは全て8分音符の一音一音がヴィヴラート付きのくっきりした発声を持ち、規則正しいリズムで上下行を続けてゆくこと。後半は上行形のみとなり上昇を繰り返し、耳を射る高音 Cで高止まる。
第2セクションでは同じパターンがトリルで奏されるという、いたって単純、ミニマムな作りである。
Youtubeだと7分近くの長さにいささか飽きるが、実演は成田の表情や動きが加わることで、十分楽しめた。
小難しい現代音楽なんか「はぁ?」、で、繰り返すが、誰にだってわかる音階の動きが小気味よい。いわゆる現代音楽の特殊奏法やら耳障りな非音楽(とここでは言っておこう)に多少は慣れている私のような聴者が、この程度の音響の軋みやトリルで(しかも私は『西村朗覚書』連載中で西村軋み・トレモロなどなどを日々浴び続けており)気持ち悪さや違和感を持つのは難しい。

彼には彼の音楽的文脈があり、その上で当該作品を聴いたなら、理解も違ったことだろう、というご批判のもと、遅まきながら梅本作品がずらり並んだyoutubeを私は全部聴いてみたのである。
https://www.youtube.com/results?search_query=yuli+umemot
ありていに言えば、どれも楽しかった。
音と遊んでいる感じが、いい。
春祭リサイタルでの成田達輝の生き生き加減にしろ、当夜プログラム全体の諧謔・アイロニーにしろ、遊びの喜悦が素直にあって、レビューにもそう書いた。
したがって音そのものについては、私は梅本作品を好感する。
どれもとても短いが遊び心に満ちており、『SUPERBACHBOY 』シリーズなんか特に楽しい。『SUPERBACHBOY 3 (2021)』(cello, electronics, electronic bulletin boards, acceleration sensor and Super-Famicom-controllers)は実演の場にいたかった、と思った。画面に松平頼暁と思しき方が見えるが、氏はこうした「新音楽」の場には必ず居て、私は感嘆する。ついでに言えば、『山澤慧vc邦人作品集vol.2』(4/15@東京コンサーツラボ)での氏の『コ・アクション』の美しさ、内部奏法特殊奏法満載だが青黝い宇宙に飛び散る瞬時の光跡の如き輝きで、時代を超える力とは、を深く考えさせられたのだった。
山根明季子は梅本との対談で自分はファミコン黎明期だから世代が違う、と言っていたが、それどころか私はカラーテレビに大騒ぎの世代ゆえ、このリミックスぶりには興奮してしまうのだ。最後のソロ・フレーズも泣ける。
『Fluffy Pink! for string quartet (2020)』は、聴き親しんでいる若手4人、特に田原綾子va のソロ部分などでの表情には惚れ惚れするし、演奏に溢れる鋭い英気に「これは僕らの音楽!」という声が聴こえてわくわくする。なぜ行き逃したか。ちなみにここに現れる種々の音響(昆虫の羽音風とか)は西村朗に似る、と言ったら両者の不興を買うだろうか。
『【切り抜き・脱線.電波】成田と梅本による即興演奏』は文字通り梅本のピアノと成田の即興だが、二人の響きのまさに既存文脈どっぷりの美的リリシズムにはうっとりしてしまう。
音だけで言えば『プラスチック・ヴァギナ』は、この遊びリミックス文脈にすんなりおさまる。それを、テーマパーク(私世代は遊園地)で次々いろんな乗り物に乗って遊ぶ1日的文脈、といえば良いか。

後日出された梅本のステートメントを見よう。
当該作品の音そのものについて「グロテスクとポップな表現・音楽的文脈」の項目で、「『プラスチック・ヴァギナ』では、<ポップ>の裏側にある<グロ>の表現、既存の<長><短>がもつ観念の逆説的な音楽語法を模索した。例えば、均一、幅広なヴィブラートを過剰にかける長音階は、聴く人に、どこか奇妙な感覚を表出させ、調性が持つ固定観念を揺さぶる。この場合、この奇妙な違和感は、過剰なヴィブラートによる、非調律的な、不安定なピッチによるものだと作者は考える。実際に聴者がその音を聴いてどう感じとるかについては、当然、コントロールできない。しかし、ミニマムな構造(ここでは<長音階>)をエフェクト的に<フィルタリング>することで、既存の構造が持つ固定観念と異なった音の聴こえ方を促すことはできるかもしれない。」
この文章の前段で、長短に伴う明るい・暗い、楽しい・悲しいといった音楽的対比の逆説として、シューベルトの長三和音を持ち出しているが、これはいささかナイーブに過ぎよう。ただシューベルトを引くにあたっては、その音楽のただならなさを察知しているからだろうし、彼こそミニマムの人であると言うこともできるのだから。
長短(既存の音楽的文脈)をポップとグロ(今どき音楽的文脈)に置換する、つまり長音階のポップの裏側に非調律的、エフェクト的フィルタリングによりグロを貼るのがこの作品でのロジックとのことだが、「結果的には極めて感覚的な、<音楽的>な作業であったと言える。」。その発想の始点は、性具の「ポップでカラフルなパッケージと、内包されている<グロ>のギャップに衝撃を受け」「その形容し難い感覚を、音楽に置換」しようという欲求であった。
前稿で述べたとおり、そもそもそのモノを見たこともなく、見たいとも想像したいとも思わない私であるから「主に日本における男性向け性玩具<オナホール>を題材とし、日本の消費社会における性消費の過剰性、男性中心の性消費社会で造り上げられた、歪な<女性器>の具象を描いています。」と言われても、その具象化がどのように音に表現されたかを検証はできない。解説を読み、音の上下運動に性行為を想起した以外の解釈(前回触れたが、匿名投稿女性も同様な聴取であった)、それを悪趣味と書いた以外の感受は私には不可能だ。
ただ、ポップというならウォーホルや伊藤若冲を、グロというなら西欧教会にあまた描かれるキリスト磔そのもの、あるいは『往生要集』の地獄図六道絵が即座に私には思い浮かぶ。
つまり、どの時代(領域)にもポップとグロはあるのであり(むろんエロも)、こうした語彙は時代時代の「切り取り表象」であって、その底に流れる深く大きな地脈と水脈をたえず意識してこそ、その「切片」が十全に立ち上がってくるのだと私は考える。
いわゆるコンセプチュアル・アートが意味を持ちえたのも、フルクサスが影響力を持ちえたのも、今なおそれらが新しいのも、そこをきちんと押さえているからではないか。
当該作品において、作曲者がアダルトショップで受けた衝撃が彼にとってのピンポイント(刺さった)であっても、その衝撃波をどのように他者に伝えるか、投げかけるか、は「置換」で済ませられるものではなかったろう。遊具乗換え(上述通り、それを私は非常に楽しむ)とは異なる「意味」がここには生じてきているのだから。
ここから、表現とは何か、という問いが浮かんでくるが、それは後回しにする。

次に、春祭サイトの自作解説で使用された「商品」「消費」から敷衍される「フェミニズム的側面を持つという指摘に対して」という項目を見てみよう。

「本作品は、日本の消費社会における性消費の過剰性、ヘテロ男性中心の性消費社会で造り上げられた、歪な<女性器>の具象を比喩的に描くとともに、<極端なところまで来てしまった日本のカルチャー>、<表現>の文脈を回収し、誇張して、それらを提示するという表現目的を含みます。そしてあくまでも作者が申し上げたいのは、殊更その性消費の在り方を、あらゆる性的客体化を含む表現技法を全否定する意図や、日本の<エロ>を否定する意図もないことです。同時に<オタクとフェミニストの対立構造>を煽る意図も一切ありません。日本のフリーダムな性的表現を賞賛せず、<性器解放>も主張しません。あくまで作者が行うのは、極限まで辿り着いた日本のカルチャー、表現の文脈を回収し、それらを提示すること、音楽語法の追求、<作家自身が生きる社会の暗黒部分を描くこと>、そして、西洋音楽という社会の文脈において、男性中心的な立ち位置以外の視点で創作することです。最後の文言には、少なからずフェミニズム的主張を含みます。」

ここでまず私が注目したのは論旨でなく「否定句」の連なりだ。「〜を全否定する意図や、日本の“エロ”を否定する意図もない」「対立構造を煽る意図も一切ない」「〜を称賛せず、〜も主張しません」という否定の連句は、対立衝突は避ける(したくない)という一貫した彼の姿勢を明示する。
これは、曲目解説にある文言、「気持ち悪さと違和感」と響き合う。すなわち、私が使った「愉快」と「不快」といった二項対立を避ける態度だ。気持ち悪さや違和感は、相手を遠ざけはしても否定はしない。嫌なら避(よ)ければ良いのであって、わざわざぶつかる必要はない、とする「距離の保持」。
この姿勢を今日の世界状況における「他者との距離」に当てはめるなら「傷つきたくない、傷つけたくない私」という人間と社会の構造(最近は世界観というらしい)にまで及ぶだろう。
さらにいうなら、弁証法的西欧ロジックに乗らないという意味で、否定でことを語るインドの思惟方法に似るが(否定弁証法をどう位置付けるかは専門的知見を乞う)、これはあまりに短絡な話なのでここでは追わない
ただ、とりわけクラシックを学んだ、あるいはその素養を身につけた人間が何ごとかを語るにあたり、幼少期から仕込まれた西欧的思惟・論理から免れる事は難しい。私自身もそうだし、西洋音楽を手にしたなら、それはどうしたって避けがたい。
ではあるが、梅本作品の持つボーダーのなさ、あれこれホイホイの屈託なき身軽さ気軽さ軽量軽快リミックス力を、商業主義だの大量消費だの回収だの接続だの、そんな社会分析用語で解説するのは(これらの文言にアドルノを想起するのは容易い)、それこそ旧来の「西欧社会的文脈」に無頓着に自分を「回収」させるようなものではないか。
Wikiには「パソコンオタクでもあった父親の影響で秋葉原によく連れて行かれていた彼は、そこで見たオタクカルチャーや萌え、キャラクターカルチャーを自身のアイデンティティーとしている」という解説があるが、そもそもアイデンティティー(自己同一性)という言葉自体、近代西欧の固定概念の写し絵でもあり、Wiki執筆者の西欧体系への無自覚な帰依を示していよう。
続く 「2020年以降、梅本の創作コンセプトは西洋音楽の物語消費性と消費主義的な現代日本のカルチャーを接続すること、現代音楽でのスーパーフラットの提示である。」はまさに彼のステートメントを裏付けるが、こうした文言とは別の切り口で、彼のスーパーフラットを語ることができないものか。20世紀西欧の残滓でなく、軽快なフットワークのボーダレスな音に似合った語りがあるのではないか(これこそが今日の若い「批評」の仕事ではなかろうか)。
私が、梅本の否定連句に注目するのはそこだ。
ステートメントで自身のセクシュアリティを「非断定的に“クワロマンティク・アセクシュアル”」と述べる、その「非断定性」にこそ、「しない、しない、しない」という彼のリフレインにこそ、彼の本然を見る気がするのである。

西洋音楽受容史を眺めるに、国をあげての欧化を明治期とするなら、たかだか150年。それ以前は漢語文化圏を規範に、それこそ4世紀からの長大な歴史があり、それらが近代の欧米化によって全て塗りたくられた訳でもない。今やIT用語の氾濫だが、それくらい外来文化に節操なき日本の文化「リミックス力」(この言葉、日本を語るになかなか適切と私は考えているが、梅本と山根対談での彼の発言「リミックス」の日常感覚は新鮮だった)は、常に可動な態度、どっちつかずの「いい加減」な受容摂取を貫いていると言うこともできるのだ。その裏に、梅本の物事を「断定しない(非断定的)曖昧力、融通力」、あるいはその作品群の二項もしくは複数項の往還的あり方を見てもいい。
『梅本佑利 × 山根明季子、新作《Oo./x》を語る』
ゆえ、彼の遊園地作品をそのように、漢文化渡来から続く「したたか日本リミックス」に見出すのは、そう突飛でもないのではないか。
もちろん、西欧を語るに西欧理解は必要だが、その枠組みの中でしか考えられない縛りを持つ西欧人をどこまでも規範とする態度から、そろそろリミックス力自在発揮の新世代が出てきてよかろう。かつてシノーポリが東京の音大生の、西洋の音楽家にはすでに失われた新鮮な取り組み、偏見のなさを称賛したのは1987年のことだが*、あれから30数年、私が聴く最近の若手たちの演奏は、確実に独自の演奏スタイルを生み出しており、そのことをこの『未来って』シリーズでも書き続けてきた。
梅本作品を愉しげに弾く彼らに溢れる同時代の音楽のスリルと愉悦を、私は『SUPERBACHBOY 3 』でのラスト、チェリストとゲーマーの「いえーい!」的盛り上がりと弾ける笑顔に見て、心底この場にいたかった、と思った。松平頼暁がどんな顔をしていたか、も見たかった。それは、ケージの『4分33秒』の現場に居たかった、と思うのと同じだ。それが『プラスチック・ヴァギナ』の折の盛り上がりとどう違うか、はここでは触れないが。

なお、川島素晴は本誌『五線紙のパンセ』で作曲の学生たちのゲーム音楽の影響を指摘しつつ、未来に向けての視点を以下に示している。

日本のゲームは世界に流通し、当時のゲームも今もってプレイ動画等で再共有されている。この「遊び」は、前述の「遊び」の精神とは遠いかもしれないが、このことが現代人の音感の背景に強く影響しているとしたら、「遊び」は再び「音楽」とつながり合い、何らかの国際標準を形成していると言えるのかもしれない。その感覚を是とみるか否かはともかくとして、このように、文化は既に国境を超えて人々の感覚レベルで共有し合うものとなっている。
クラシック音楽の現場にいると、そんなことは言わずもがなであると思う反面、遺伝子レベルでは超えられない壁を感じることも多々ある。毎週のようにグレゴリオ聖歌に親しんで育った人物と、その存在を成人した頃にようやく知ることとなる人物とでは、基本的音感レベルで大きな隔たりが生じてしまうのは仕方ないことだと痛感する。音階を平均律の鍵盤で教育している時点で、優秀な音感を養いつつ、様々な大切なことを失っている。そのような差異を知り、「遊び」の精神で、且つ真摯に耳を傾けることがなければ、この溝は埋まらない。「ゲーム音楽」で育つ感覚と「グレゴリオ聖歌」で育つ感覚、どちらが是であるという話ではなく、「歌オラショ」が生月島の人々にとって真実であったように、そのどちらも真実であるという前提を持つことから、全ては始まる。
自然体(そこには「自然と一体」も含意される)であり、且つ、今を生きる新しい美の可能性を探ること。これは、作曲家としてのみならず、一つの小さな人生の歩き方としての、指針でもある。

私は深くこれに同意し、SNSでの言の葉の不毛を思う。

最後に、当該作品を書いた動機としての梅本のセクシュアリティについて。
性の多様性については昨今オープンになってきているが、長い人類の歴史(宇宙規模ではないが)ではそうした縛りも近現代のものでしかない。ヘテロ男性のエロ、といった括りも古代にはなかったし、そもそもヘテロが何を意味したかは「肌の色の相違」が元だ。異色、異人、異国、異教徒などなど、自分と「異なる」外見に人は恐怖と憧憬を抱いた(ヘテロについては『西村朗覚書』の《ヘテロフォニーとは何か》で詳述している)。
前2200年頃のセム人、続くアーリア人の移動が異なるものとの遭遇・対面・対峙・差別を生み、それに基づくそれぞれの土着宗教文化を生んだ。
ヘテロの語源をプラトン『国家』(紀元前430~420年頃)に見るのは西洋史であり、古代インド聖典『リグ・ヴェーダ』(前1800~1200年頃)にはカースト制の萌芽(階級差別)として示されている。仏教も旧約・新約も、こうした流れから派生し、クラシックもその上にある。
ここでくどくど歴史のおさらいをするつもりはない。
ただ、「異なるものを差別する」のは人間の本性で、仲間内も仲間外れもはたまた界隈も、全てここに起因する。
このパンデミックに、私たちはそのことをしたたかに思い知らされたはずだ。
「愛は抱きしめる。愛はまた絞め殺す」** は私の好きなアランの言葉。前6世紀のブッダは「愛執の蔓草の根を智恵によって断ち切れ」「犀の角のように独り歩め」と言った***
人はずっと「他者との距離」に悩んできたし、これからもずっと悩むだろう。
AI支配の世界になっても、たぶん。
ついでに言うなら、ステートメントでの観察記述部分に、私は梅本の言語感覚の独特を感じた。情緒で濡れた言葉を回避し、外科医のような語彙を並べるのは「距離の保持」ではないかと。
私がその語彙を酷く苦痛に感じたのは、性という個別の秘匿領域に対する言語感覚の相違以上に、デジタルあるいは AI的感覚(というのもおかしいが)への違和のようなものをそこに覚えたということなのかもしれない。

私にはアキバも萌えもオタクもゲームも、わからない。
この先の未来は、想像を絶する。
けれど古今の知恵が同じ泉から水を汲むことは、遅ればせながら知っている。
だから。
注意深く自分の眼で周囲を観察し、その現象の一つ一つに眼を凝らし、歴史の泉に手をひたし、差異をボーダーを、超えてゆこうとする意志をもちたい。
「他者との距離」を抽象で論ずるより、目の前の一人の人との違いをこそ、その温度で、手触りで、どこまでも探ってゆきたい。
表現とは、私にとってはそういう行為だが、そうでない「表現」がある、あるいは立ち上がってきている、のかもしれない。
私はやはり、それを知りたい。
だから知りたかった。皆さんはどうだったのですか、と。
だから、投稿くださった方々には感謝している。

私は確かに感情を露わに、尖った言葉をそのまま吐いた。
そうせずにいられなかったから、そうした。
それが批評か、と、むろん多くの人に言われた。
なぜ、そうしたか。
次回、それを述べてみようと思う。

註)
*『音楽展望』吉田秀和/朝日新聞1987
** 『プロポ1』p.43 アラン/みすず書房
*** 『ブッダの真理の言葉 感興の言葉』p.58 中村元/岩波書店
『ブッダのことば』p.17 中村元/岩波文庫

(2022/7/15)