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丘山万里子執筆レビュー(4/15号)における梅本佑利氏作品への言及につきまして

2022/6/5 丘山万里子

4/15号掲載、丘山万里子執筆『成田達輝(vn)~現代美術と音楽が出会うとき~』
での梅本佑利氏作品への言及に関し、4/21に梅本氏のステートメントが氏の HPに掲載されました。
また、この記事に関する4篇のご寄稿を本誌にいただいたことを感謝申し上げます。
ステートメントを含め、全てを拝読いたしました。
みなさまのご指摘、ご意見を踏まえつつ、梅本氏の作品を巡って私が向き合った様々な問題を、少しずつ解きほぐし、今後書き継いでゆければ、あるいは論議してゆければ、と思っています。
今回、その起点として、まず当該作品の音楽、タイトル及び自作解説文についての考えを述べます。

◆音はどう聴こえたか。愉快と不快〜匿名女性投稿文とともに

当該作品の「音」そのものがどう聴こえたかを、前号掲載投稿文中の匿名女性の体験と照合させつつ見てゆきたいと思います。というのも、解説文なしで聴取、のち、解説文を読む、という過程が私と共通するからです。
(youtube上の当該作品と、匿名女性投稿文をご参照ください)
実題を知らず、春祭ブックレット記載の『新作』として聴いた私は、その音階上下行をアンチ・ハノン教則本、その絶妙のねじれや軋み具合、バイブレーションを、旧来の楽器学習法、西洋音楽学習要綱的文脈へのスパイシーな揶揄、と「愉快」に聴きました。
一方、匿名女性は(映像分野、フェミニズムを学ぶ20代の方とのことです)、youtube
で解説抜きで聴いた時のことを「正直聴いてて不安になりすぎ」、飛ばし飛ばしに聴いての後半の激しさに「余計に恐怖を覚えました」と述べておられます。
つまり、音源だけで、彼女は不安、恐怖、二度と聴きたくないと思うくらいの不快を味わった。作曲家の意図たる「気持ち悪さ、違和感」を正確に感じ取っていたということです。
これは、私の聴取とは真逆です。
なぜそうなったか。
私は、当該作品をこの公演のブログラム構成の中での一つの『新作』として聴いている。
グロボカール、ブレクト、ケージと、パフォーマンス系に果敢に挑戦する攻めの選曲の持つアイロニーは、成田達輝氏によって十全にその魅力を発揮していた。
米国帰り、日本前衛運動の旗手であった一柳慧氏作品(1990)の後に置かれた当該作品は、一般通念・既成概念・既存システムへの「問い」(いわゆる反芸術・非芸術)という一連の大きな文脈の中にあると思え、だからクスリと笑える愉快な「反ハノン」、なるほど『新作』と聴こえた。
公演全体のコンセプトをそのように私は理解、そこに当該作品を位置付けて聴いたから、不快どころか、愉快だった。
ところで、愉快と不快という私と匿名女性の聴取の相違の間には、まず聴取における二つの異なった状況があります。
一つは公演全体の流れの中での聴取と、youtubeでの単体音源による聴取の相違。
すなわち全体と単体。
もう一つは一回性ライブの会場時空と、随時再生可能な個的時空との相違。
つまり、一回性と再現性。あるいは他者との共時共空間性と、私的な私時私空間性。
これは相違であって、むろん聴取の正誤優劣とは関わりない。
それぞれに音源としての固有の立ち方、人との関わり方をしているということです。
ただ、この認識はやはり押さえておくべきことと考えます(これは、後ほど触れる佐々木裕健氏の投稿も同様です)。
ここから、様々な問題が提起され得ますが、ひとまず「全体」と「単体」に絞ります。
つまり、全体での私の「愉快」と、単体での彼女の「不快」の背後にあるものは何か、ということ。

◆音に何を聴くか〜解説文はどう作用したか

公演全体のコンセプト、その文脈の私の「読み」が音に「反・旧弊音楽教育」という意味を持たせ、聴取を「愉快」へと導いた。
一方、音源単体である彼女の享受が、作者の意図たる「不快」を正確に聴取し得たのは、彼女の耳が音に対してより即物的なものであったから、ということでしょうか。
いいえ、彼女にも、映像やフェミニズムへの関心という個的文脈があったと私は思います。
「解説文読後」の再聴では、女性である自分にはその違和感や女性身体のモノ化の不快さはとてもわかり、恐怖や不安は、「こういった現実の事象と人間の感情を表したものなんだと思うと愛おしかったです」というふうに理解できた。
自らも「表現者」である彼女は、現実の事象と感情をいかに表現へと昇華するか(音楽化)、について、読後、理解と愛情を寄せている。
作曲家の解説「〜〜は男性の性対象として作り上げられたミニマムな女性器の具現化である。“優れた<機能>を持つ性器”は<商品>として、大量に生産され、消費される。店頭に陳列されたパッケージには、性欲を刺激する卑語や女性器の断面図、美少女キャラクターが描かれ、過剰にカラフルでポップに装飾される。性的対象のために作り上げられた、実際には存在し得ない人工の“内臓”。この作品が表すのは、その気持ち悪さと違和感である。」は、不快な「音」を「表現としての評価」へと変えるのに非常に有効であったと言えます(解説後半の音についての記述はステートメントを参照しつつ、改めて触れたい)。

一方の私は、実演後、実題と解説文を読み、愉快が不快に変わった。
まずもって、使用されている性の領域における語彙や文言(引用上記は一部省略。なお、佐々木氏はこの文言について「作者の意図はどうであれ、本作品が<性的な言葉を辞書で探して喜ぶ中学生>っぽい受け取られ方をされかねない構造にあるのは、暗喩的表現を一切しなかったタイトルと曲目紹介からも仕方がない面があり、それをしてしまうのはやはり現代においても男性である率は非常に高いからです。」と述べておられる)を読むのは、私には甚だしく苦痛でした。
拙文で、受け止めには性差、個体差があろうと記しましたが、それらは、作曲家の関心事である性具とそこから派生する問題へと否応なく読み手を引きずり込もうとする言葉としか感じられませんでした。目にしたことも、見たくもないものを眼前に突きつけ直視せよ、あるいは想像せよ、という強要・内的侵犯を言葉によって受けた苦痛を言語化した一言が、あまりに強すぎたとは思いません。
ステートメントに「当該記事には、本作品を”レイプ”などといった強い言葉で形容するなど、作品に対しての誤解を助長するような記述が散見されました。」とありますが、私は「(この解説を読んだ女性から「精神的レイプ」と感じた、との感想があった)」とカッコで記しています。これは、作品そのものではなく「解説文」だけで苦痛を覚えた女性が使った言葉ですが、それを聞き、まさにこれが私の探していた言葉だ、と思ったから借用しました(そう感じたのは私だけではなかった、という意を含ませようとした浅薄を恥じています。あくまで自分の言葉として記すべきでした)。
目にしたくない語彙を読み下さねばならない苦痛、さらに作曲者の文言によって自分が「愉快」と感受した音像(文脈を含む)を強制変換させられたこと、その両方によって、私は「不快」になった。
あの音たちは、そういう意味だったのか....と。
解説文はそのように私には作用した。

◆聴き手それぞれの文脈と理解

ところで、匿名女性は、その音と表現について、「音楽に疎い私ですら作品の解説にあった音での上下運動表現など、男性の激しいピストンを想起させるような生々しくも芸術的な表現方法に一表現者として感銘を受けました」と述べていらっしゃる。
ついでに言うなら、やはり投稿をいただいた川島素晴氏は音の運動につき、拙文を引用、「<音の動きが行為を思わせる>という勝手な空想(そのようにしか感じ取れない感性を恥じるべきなのでは?)」と述べておられますが、いったいどのような感性であれば、勝手でない空想と判断なさるのでしょうか。
彼女はこうも述べています。「そしてとても胸が痛くなりました。グサッと来たと言うか。性被害者の叫びを聞いた時のような、なんともいえない虚無感と悲痛さに襲われました。」
私が文言によって想起させられた音の運動に、彼女もまた似たような痛みを感覚した、と私は捉えます。
ともあれ、ここで確認すべきは、その運動の表現方法に、彼女が表現者として感銘を受けていること、さらに、性被害者の叫びに重ね、虚無感と悲痛を覚えるフェミニズム的視点が察知されること、です。
一方で、『進撃の巨人』の音楽との類似点を見出し、「その不快感が進撃の世界の残酷さを物語っているようでとても好きなんです。情報がなければ不安定な音に怯えてしまいますが、進撃の世界観にあった残酷で不安定な、でも希望があるかのような美しい音に感動したことを思い出しました。」と結んでいます。
つまり、似たような「痛み」であっても、それを彼女は希望へ美しさへと転化している。残酷だけど、希望があり、美しい、と。
そこに彼女独自の思考の道筋、固有の文脈(世界観)、美的世界を私は見る。
なんといっても私は「教則本ハノン」が速攻浮かんだ化石世代、かつクラシック音楽領域でしか通用しない文脈での理解にとどまります。
したがって彼女が、解説文〜音、と辿り直し、当該作品の表現と『進撃の巨人』の音楽へと思考を飛ばし共感してゆくのを、なるほど、そういう受け止めもあるのだな、と驚きとともに理解しました。
自分とは違うけれど、似たような痛みや不快から、どのように彼女は美と希望へと歩いて行ったのだろうか、と、考えました。
そうして、彼女のいう『夕暮れの鳥』を視聴し、そういうことか、と思った。
そういうことか、というのは、無論、音そのものの捩(よじ)れが与える不安を感取するとともに、たまたま見つけたこのミュージックビデオの映像に、灼熱地獄たるエジプトの砂漠、街中から借景のように見えるピラミッド、王墓の中の美しい壁画、はたまたバベルの塔、さらにウクライナまでを一挙に想起、そこに流れる音楽に彼女の言う「虚無」や悲しみがあるように思ったからです。
化石世代の私ではあるけれども、現代の若者たちの生きる時代がどのようなものであるのか、眼を開こうと試みるくらいのことはする。
同時に、この「今」が、古代からの人間の歴史の堆積であることを、改めて実感もした。
ついでに言うなら、やはり『進撃の巨人』の中の『衝撃』に、寺山修司『田園に死す』を思い出しました。
そのように、個々の固有な文脈とは、深く大きな地層をもととした、全体の文脈に必ず繋がってゆく。
理解とは、そうした異なる固有のすり合わせからこそ、豊かに開けてゆくものではないか。
これから先は、またの機会といたします。

◆作品理解への道とは

さて、次にレビューのプチ炎上に興味を持たれた佐々木氏の投稿文を見てみます。
氏は、レビュー読後ステートメント、音源と進み、「作曲者の意図した”気持ち悪さと違和感”が見事に表現されていた」という理解に至っておられます。
「あの性具の見た目や存在感は、後のステートメントで告白した梅本氏のアセクショナル性によらずとも一般的に十分グロテスクと感じられるものであり、それを器楽曲のフォーマットに変換する発想、実現できる技術は彼の面目躍如といったところ。」で、それは「現物を目の前で突きつけられているようなものだから」実演に接して不愉快に思っても不思議はない、と。そもそもそのモノを知らない私には、こうしたリアルな想像や評価は不可能とだけ、ここでは申し上げておきます。
ただ、氏の理解の「道筋」は作曲家の意図を折込み済みで、コンセプトから音を確認する行程であったと言えましょう。いわゆるコンセプチュアル・アートがコンセプトありきであること、当該作品がそれであるかないか、はここではおいておきます(次回、ステートメントと音楽に沿っての論考で触れたい)。
また、文脈に関し「現代音楽では珍しいことだったかもしれませんが美術、文学、映画…様々なアートジャンルにおいて露骨な性表現をしたとしても決してポルノ的文脈ではなく、その暴力性をもってして現代社会の暗部を告発する手法など、一般的だとさえ言えるからです。」と続け、さらに「現在までの梅本氏の創作活動を知っていたら、本作品も彼が作り上げてきた文脈の中にスッキリと納まるものであることはほぼ明確であると思う」
もちろん私は露骨な性表現や、暴力性を伴う社会暗部告発の手法があることは知っています。好まないけれど、否定もしない。
ただ、表現の自由があるように、受け手にもまた享受選択の自由がある。
少なくともこの春祭のミュージアム・コンサートでそれに遭遇することを想定はしていなかった(サイトにおける総合パンフレットは2月4日現在で『新作』と記載されており、公式プログラム発行は3月18日となっていますから、この時点ではおそらく関係者以外は実題を知らずに公演を選んでいるはずです。さらに、当該公演サイト更新は公演当日の3月24日となっており、事前にこの情報を得ることは困難と思われます)。
私は入口でもらった公式プログラム情報でさほど不足は感じず、なんと言っても絵画を鑑賞することに忙しく、当日のプログラム記載用紙と QRコードチェックもしなかった(それを怠慢とするのも一つの見方ではありますが、私は「現代絵画と音楽の出会い」に心弾ませていたのであって、音楽だけを聴きに行ったのではありません。また若い画家の作品に対すると同程度に、若い作曲家の詳細を知らなくとも楽しめると思ったし、楽しんだ)。
あとで解説を読み、驚愕した。
「なぜ、と思う。」と書いたのは、だからです。それは、なぜここにそのようなコンセプトの作品を置いたのか、あるいは作曲家が書かねばならなかったのか、という問いでした。
その答えが作曲家のステートメントであったと思います。

いずれにせよ、佐々木氏の享受は、作曲家の意図を汲み取ること、いわば敷かれた道を歩くものであるように私には思えます。
手がかりや解説があれば迷わずゴールに達する、など、それが作品の理解の唯一の道なら、ずいぶん窮屈なことではないでしょうか。
自由な散策を楽しみ、自分で道を探して歩くのが好きな人がいてもさほど不思議はないのではないでしょうか。
ここに、批評家の資格への問いが出てくるでしょうが、後日といたします。

◆演奏、享受における創造性

春祭ブックレットには成田氏の短文『現代作品を弾く楽しみ』が掲載されていました。
彼はそこで、初演作品を手にした時は「“初め”が肝心」と言い、「まずは楽譜をぱらぱらとめくりながら、「へぇ、こういう人(作品)なのかな?」と想像をめぐらせてみたりします。」
そうして、技術的に困難があれば作曲家に指摘する一方、「作曲家のアドヴァイスを耳に入れて、考えながら弾くプロセスを最高に楽しいと感じます。」
楽譜から想像、作曲家の意見を聞きながら「考えるプロセス」。それが演奏家の創造性であることは言をまたない。
彼はまた、「初演に臨む感覚は、まだ誰も滑っていないゲレンデを見つけて、パウダースノーを駆け抜ける爽快感というか、遭難覚悟(?)でコースに突っ込んで行く快感が<うぉー生きてるぜ!>みたいな剥き出しの本能に変わるーーそんな最高に気持ちのいい瞬間なのです。」と述べています。
この文章を読んで、わくわくしない人がいるでしょうか。どんな演奏が、作品が聴けるんだろう! 演奏者の想像・創造性があってこそ、作品は命を持つ。
命を持った音楽が私たちの前に響き立ったとき、聴衆である私たちもまた、その命に触れて、なにごとかを想像し、創造する。
少なくとも私は、まだ誰も滑っていないゲレンデを、遭難覚悟で突っ込んでゆく冒険心を持たない聴衆でいたくはありません(ここでも、批評家の資質が問われるでしょうが)。

さて、実演を聴いた唯一の投稿者である川島素晴氏はもちろん、事前に文言を読み、「当夜随一の驚嘆すべき音楽作品」と評価なさっています。
当夜随一かどうかはともあれ(トリの増井哲太郎氏の初演曲『無伴奏ヴァイオリンの可変双魚室』も実に愉快だった)、当該作品の音楽それ自体は、音階という誰にでもわかりやすい形であることも含め、私が十分楽しんでいることを見落とさないでいただきたい。
客も大受けで、背後の絵も動いて見え、これは音楽の力が引き出したものだ、と書いています(川島氏はこの記述についても「観客等第三者の様子を<勝手な思い込みで>文中に盛り込む傾向」があり、「こうした態度も客観性を欠いたもので、批評家としてあるまじきこと」と思われるのでしょうか)。
なるほど、私はとりわけ現代作品の場合、客席の反応を記すことが多い。ご指摘の通り、今回もあちこちに書き込んでいます。他の人がどのように受け止めているか興味があるし、それを読者に伝え、現場の空気を記録としてそこに残すことも大事なことだと思うからです。
ケージの『4分33秒』が初演時に客席に起こした反応はどんなだったのか、私は知りたいと思うし、100、200年経っても知りたい人はいるに違いない。ちなみに吉田秀和は1954年ドナウエッシンゲンでケージの『34’46.776”』(プリペアドピアノのための)を聴き、「果たして、野次が相次いで起こった。そんな猛烈ではないが、休止が多くて、とぎれとぎれになるこの種の音楽に、実にうまく間を合わせてかけ声がかかったり、口笛がなったりする。テュードアが笛をならすと、満場が哄笑した。」* 面白いとは思いませんか?
川島氏はさらに、「梅本の文章にも作品にも、一切の法的問題やハラスメントに相当する性描写は含まれていない。梅本自身が事後に公開したステートメントを見るまでもなく、<いかがわしさ>は微塵もないし、<精神的レイプ>などという伝聞の感想を軽々に引用すること自体、名誉毀損に相当する。」と述べておられます(伝聞については既に反省を述べました)。
「<これは若者たち(作曲・演奏・聴衆)の確信犯的合意>と断じるに至っては全く根拠不明な誹謗中傷行為」であるとの言や、佐々木氏や多くの方々もご指摘の、印象や主観の垂れ流し文というご批判も含め、これらについては改めてお応えする所存です。

ということで、今回は当該作品の音、タイトル及び自作解説文についての記述にとどめ、ここで筆をおかせていただきます。
次回は、梅本氏のステートメントと音を読み込んでゆきたいと思いますが、こちらも時間をいただきたく思います。

ところで私は M・デュシャンが好きだし、『遺作』を見たとき(覗いた時)はいろいろなことを考えました。A・ウォーホルにしてもオノ・ヨーコにしても、彼らは常に、多くの問いをこちらに投げかけてくる。そして常にオープンです。
「好きに見てね」。
こちらの感性に揺さぶりをかけてくる。
一柳慧氏も、アンコールの塩見允枝子氏も、フルクサスの流れに身をおいた方々でしたが(アンコールの選曲、演奏、素晴らしかった!)、本来、コンセプチュアル・アートとは、芸術や表現を旧来の縛りから解き放ち、発想の転換を促し、享受者を拘束するのでなく想像、創造の自由へと羽ばたかせるものと私は考えます。もちろん、デュシャンらには革新すべき伝統があった。そういう時代だったからこそ、「反」となり得た。
では、今の「反」は、何を標榜するのか?
梅本氏解説文には、「商品」と「消費」という文言があります。
氏のステートメントと音楽から、それを考えたいと思っています。

*『吉田秀和全集第8巻』 p.284 白水社 (1975)

編集部より:
本文冒頭にあるように、論議を深めるべく多くの方々のご投稿をお待ちいたしております。
前回同様、以下にお寄せください。
office@mercuredesarts.com
なお、SNSでの言葉の断片の応酬は、こうした問題を掘り下げてゆくのに適切とは思えません。また、誌面ばかりでなく、論議の場となるような形を模索中ですが、時間がかかることをご了承ください。
どうぞよろしくご理解のほど、お願い申し上げます。

(2022/6/15)