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「成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき|丘山万里子」に対するご意見(投稿)

成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき|丘山万里子」に対するご意見をお願いしたところ、期日中の4月30日に4篇のご投稿をいただきました。
以下に掲載いたします。

佐々木 裕健・《プラスチック・ヴァギナ》及び丘山氏の「批評」について
匿名(佐々木 裕健)・《プラスチック・ヴァギナ》ある非音楽家からの視点
瀬戸井 厚子・コンサート評を読んでの感想
川島素晴・メルキュールデザール2022年4月号の「成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき|丘山万里子」で問われた件について

お送りいただいた情報のうち、メールアドレスは削除しましたが、その他はフォーマットも含め変更しておりません。

なお、本件に関わる梅本氏のステートメントは以下のURLです。
https://www.yuriumemoto.com/2022/04/20/plastic-vagina-statement-by-yuri-umemoto/

編集部)藤堂
(2022/5/15)

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From: 佐々木 裕健

Subject: 《プラスチック・ヴァギナ》及び丘山氏の「批評」について

 

Message Body:

《プラスチック・ヴァギナ》及び丘山氏の「批評」について

 

 

 

私は本作を初演時には聴いておりませんが、丘山氏の批評→プチ炎上で興味を持ち、梅本氏による「ステートメント」を読んだ後にyoutubeで公開されていた音源を拝聴しました。以下は、その上での感想です。

 

 

 

本作において、作曲者の意図した「気持ち悪さと違和感」は見事に表現されていたと言えます。あの性具の見た目や存在感は、後のステートメントで告白した梅本氏のアセクショナル性によらずとも一般的に十分グロテスクと感じられるものであり、それを器楽曲のフォーマットに変換する発想、実現できる技術は彼の面目躍如といったところ。しかし皮肉なことに、この表現があまりに上手くでき過ぎていたが故に、実演に接して不愉快に感じる人がいても不思議ではないと思いました。言わば、オナホの現物を目の前で突き付けられているようなものだからです。

 

 

 

とはいえ、それを「精神的レイプ」「不快」「悪趣味」と言い切ってしまう丘山氏の「批評」は全く妥当ではありません。現代音楽では珍しいことだったかもしれませんが美術、文学、映画…様々なアートジャンルにおいて露骨な性表現をしたとしても決してポルノ的文脈ではなく、その暴力性をもってして現代社会の暗部を告発する手法など、一般的だとさえ言えるからです。

 

 

 

そもそも現在までの梅本氏の創作活動を知っていたら、本作品も彼が作り上げてきた文脈の中にスッキリと納まるものであることはほぼ明確であると思うのですが、丘山氏はそういったところまで考えられていたのでしょうか?ほとんど悪意と言ってもいいほどの決めつけで切り捨てる丘山氏の批評は、批評としての意味がない、ただの感想文であり、「匿名のブログ」と揶揄されるのも無理がないこと。ましてや「仲間内界隈で盛り上がっているだけ」とは言いがかりも甚だしい。本気でそのように感じたのならどうしてなのか、何故なのか、説得力を持たせるだけのエビデンスを提示した上で、その解釈に足るだけの論理(もしくは物語)の構築が必要でしょう。丘山氏にはぜひ、「怒りの声」に「誠実な対応」を求めたいところ。

 

 

 

同時に、梅本氏のステートメントの最後に書かれた「男性中心的な立ち位置以外の視点で創作すること」は、やや不発に終わったのではないか、という指摘も可能でしょう。作者の意図はどうであれ、本作品が「性的な言葉を辞書で探して喜ぶ中学生」っぽい受け取られ方をされかねない構造にあるのは、暗喩的表現を一切しなかったタイトルと曲目紹介からも仕方がない面があり、それをしてしまうのはやはり現代においても男性である率は非常に高いからです。もちろん、山根明季子氏が書かれていた「作者が女性であればどう受け取られていたのか?」という問いは個人的にも興味深いところであります。

 

 

 

梅本氏の今後の活動に期待したいのは、ステートメントでより詳しく説明された社会に対する問題意識を具象化した作品の創作を重ね、複数の作品が一つのパッケージになるように構成することです。近年のサブカルチャーを題材にした作品群など、一作一作は興味深くとも、まだ点と点のままで線としての繋がりが未だ見えません。が、彼ならその先をいつか見せてくれると信じていますので、じっくり待つつもりです。

 

 

 

 

 

(以上、公開を許可します。私のことについてはツイッター、フェイスブック、youtube等を参照の事。https://twitter.com/permusics

 

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From: 佐々木 裕健

Subject: 《プラスチック・ヴァギナ》ある非音楽家からの視点

 

Message Body:

(以下の文は、私の知人である音楽家ではない、ある映像分野及びフェミニズムの勉強をされている20代女性に当作品をyoutubeで視聴していただき、その感想を送ってくれたものです。大変すばらしい内容であると同時に、現代音楽が界隈の人間以外にどのように受けとめられたのかを是非とも知っていただきたく思い、彼女に投稿の許可を求めたところ、匿名を条件に許可が下りました。)

 

最初は解説が見つけられなかったので、解説抜きで聴いたのですが、正直聴いてて不安になりすぎて最初の1分も持ちませんでした。

飛ばし飛ばしに聴いていくと後半で激しい演奏に変わっていて余計に恐怖を覚えました。

一体なんなんや…もう二度と聴きたくないと思うくらい不快だったんですが、解説を見つけたので解説を読んでみると興味深い内容だったので不快と分かりながらも二度目の再生をしました。

女性の性器を模ったオナホの愉快さと悲劇を音楽で表現されていたなんて思いもせず…。しかし女性である私にはその違和感や女性身体のモノ化の不快さはとてもわかるので自分でも驚いたんですが、二度目は飛ばすことなく最初から最後まで自然と聴くことができました。

情報がない中であの音楽を聴くと恐怖に襲われましたが、あの恐怖感や不安感はこういった現実の事象と人間の感情を表したものなんだと思うと愛おしかったです。

そしてとても胸が痛くなりました。

グサッと来たと言うか。性被害者の叫びを聞いた時のような、なんともいえない虚無感と悲痛さに襲われました。

それでもこの音楽作品は愛おしいと思えますし、私は評価します。

音楽に疎い私ですら作品の解説にあった音での上下運動表現など、男性の激しいピストンを想起させるような生々しくも芸術的な表現方法に一表現者として感銘を受けました。

少し似ている話ですが、進撃の巨人のエンディング曲の「夕暮れの鳥」と言う曲が一時期怖すぎると話題になったんですが、私はその不快感が進撃の世界の残酷さを物語っているようでとても好きなんです。

情報がなければ不安定な音に怯えてしまいますが、進撃の世界観にあった残酷で不安定な、でも希望があるかのような美しい音に感動したことを思い出しました。

 

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「成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき」について、コンサートを聴いていないので、このたびの問いかけの対象外かとも思うのですが、コンサート評を読んでの感想をひとこと、読者としてお伝えします。

 

「いいコンサートだった」との思いをぶち壊してしまったという解説文を、読んでみました。

 

確かに、驚きと共に、悪趣味だ、と感じざるを得ませんでした。が同時に、これを読んで「精神的レイプ」と感じた、という感想には、あ、感じ方が私とはずいぶん違うな、と隔たりを覚えました。

 

作者は、大量に生産され消費されている商品=人工の「内臓」の気持ち悪さと違和感を表現した、と言っています。その消費の場で消費されているのは男性の性でもあるでしょう。

 

そこで女性の性は少なくとも直接的に侵犯されてはいない、と私は受け止めました。

 

これは本当に個人差だ、と改めて思います。

 

 

瀬戸井 厚子

 

 

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瀬戸井☆厚子

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メルキュールデザール2022年4月号の「成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき|丘山万里子」で問われた件について

 

川島素晴

 

私も当該公演を聴いていた。

話題になった梅本作品については、当然、私は彼の解説を読んで聴き、その上で、当夜随一の驚嘆すべき音楽作品、演奏と感じた。

丘山が問題提起として評文の注釈という形で書いた内容は、浅薄で「露骨に悪趣味なもの」だが、前段として、この評文の問題点を三つの観点で指摘する。

 

1)音楽批評を生業とする者が、作曲家の書いた文章を読まずに批評することの是非については両論あろうが、ここでは題名に接して聴いた印象、帰路に作曲者の文章に触れての印象、執筆後に「再読」して不快になったという注釈、時をおき考えた追記と、何段階にも思いの変化が綴られている。これらは執筆時に整理して述べれば済む話であり、この点だけを見ても冷静さと品位に欠く悪しき執筆姿勢の典型である。

 

2)梅本の文章にも作品にも、一切の法的問題やハラスメントに相当する性描写は含まれていない。梅本自身が事後に公開したステートメントを見るまでもなく、「いかがわしさ」は微塵もないし、「精神的レイプ」などという伝聞の感想を軽々に引用すること自体、名誉毀損に相当する。「音の動きが行為を思わせる」という勝手な空想(そのようにしか感じ取れない感性を恥じるべきなのでは?)はまだしも、「これは若者たち(作曲・演奏・聴衆)の確信犯的合意」と断じるに至っては、全く根拠不明な誹謗中傷行為である。丘山はしばしば観客等第三者の様子を「勝手な思い込みで」文中に盛り込む傾向がある(当該文章にも含まれる)が、こうした態度も客観性を欠いたもので、批評家としてあるまじきこと、猛省を促したい。

 

3)作曲家自身を含む多くの方が指摘しているように、ウェブメディアであるこの媒体が、こうした問題を自分の土俵のみで(しかも様々な制約や条件を勝手につけて)処理しそれ以外を黙殺しようという態度にも根本的な問題がある。

 

この問題への言及はここまでとし、ここでは、当該公演評の別の部分で唐突に私自身の演奏について引き合いに出されたので(一見、直接関係ないようでいて深く関係しているため)それについて検証したい。

 

丘山は当該評文の序盤でグロボカール作品の演奏について

「〜その音というか響きの豊かさにちょっと驚く。楽器の人は自分の身体を楽器にする(鳴らす)コツみたいなの、つまり人体にはいろんな空洞があるってことを知っているんじゃないか、と。筆者はこの作品、ちょうど2年前、川島素晴で見ているが、そういう印象はなかった。ヴァイオリンと同じくらい、成田は自分を響かせられるらしい。」

と記述。

要約すると「成田は身体の鳴らし方を心得ている」と読める。そう書いただけなら私も同意するが、ここでは2020年に私が行った演奏を引き合いに出し比較して述べている。つまり私は、成田よりも「身体の鳴らし方を心得ていない」演奏を行ったと指摘されたことになる。

 

成田の演奏が優れていたことは否定しない(弦楽器奏者による演奏としてはクチュリエによる驚嘆すべき前例が存在する)が、こと「鳴らし方」に限れば、着衣のまま行われた成田の演奏が、私の演奏に比して「鳴らし方を心得ている」と(何も前置きせずに)評するとすれば、それは曖昧な記憶による印象批評である。確かに、骨を叩くような発音箇所等、丘山指摘のような響きを引き出した部分もあり得るかもしれない。しかしこの作品は素肌を叩く部分も多く、そのような部分においては、いかに「心得て」いようとも、着衣は大きなハンディになる。物理条件からして作曲者が望む響き(素肌を直接叩く音)を実現できる道理はなく、本作の様々な演奏を検証した上で述べるなら、着衣が有利に作用することは考えられない。作曲家の意図を踏まえない記述から判明することは、丘山は、根本的に音楽を聴く姿勢に問題があるということである。

或いは、まさか私の演奏が上半身裸で行われたことすら失念したのだろうか。丘山が私の当該演奏が動画で公開されていることを承知していることは2020年の当該公演評に、動画をまとめたブログ記事へのリンクも貼っていることからも明白だ。「脳裏に残ったもののみ記述した」という2020年の文章には、グロボカール作品へのコメントは無い。脳裏に残らなかったものを2年経ってうろ覚えで記述したのだろうか。記憶が不確かならせめて動画で確認できたはず。それすら怠った曖昧な印象批評だったとすれば、致命的である。

 

以上の検証から、丘山が、音楽批評を行う最低限の耳や良識を欠いた人物であることがわかる。このたびの悪趣味な問題提起に直接応答するまでもなく、それを指摘するだけで十分であろう。

 

余計なことを言わなければ、かような事実を露呈せずに済んだのに。

「秘すれば花」でも学んだらどうか。

そもそも、こんな分不相応な問いかけをして、ご自分のとりまき界隈で、盛りあがりたかっただけの「確信犯」なのではないか。

 

しばし筆をおいて頭を冷やすべし。

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