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成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき|丘山万里子

東京・春・音楽祭2022 ミュージアム・コンサート
成田達輝~現代美術と音楽が出会うとき
VOCA展2022─現代美術の展望─新しい平面の作家たち─
Spring Festival in Tokyo 2022 Museum Concert
Tatsuki Narita (Violin)― When Music Meets Modern Arts

2022年3月24日 上野の森美術館展示室
2022/3/24 The Ueno Royal Museum Exhibition Room
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 平舘 平/写真提供:東京・春・音楽祭2022

<演奏>        →foreign language
成田達輝vn

<曲目>
V.グロボカール ( 1934- ):?肉体の(1985)
吉田 文(1992-):ヴァイオリン・ソロのためのドレープ(世界初演)
A.ジョリヴェ (1905-74):呪文《イメージが象徴となるために》(1937)
平 義久 (1937-2005):収束 III (1976)
G.ブレクト (1926-2008):ヴァイオリン・ソロ (1962) *)
〜〜〜〜
J.ケージ (1912-92):4分33秒(1952)
一柳 慧 (1933-):フレンズ (1990)
梅本佑利 (2002-):プラスチック・ヴァギナ〜ヴァイオリンのための(世界初演)
山根明季子 (1982-):うねうね動くオブジェα(2009)
増井哲太郎 (1987-):無伴奏ヴァイオリンのための可変双魚室(世界初演)
(アンコール)
塩見允枝子(成田達輝編):パッシング・ミュージック

 

ミュージアム・コンサートとて、絵を、見る。
惹かれたのが2点。
5人の少年が並んでいる『後ろ手の未来 #2〜 #6』(堀江栞/VOCA佳作賞)。
少年たちはそれぞれ手に花、ぬいぐるみ、絵筆、人形を持ち、手ぶらで両手を下ろしている子が1人。それぞれの眼差し、澄んで、じっとこっちを視るのが、やや怖い。
雰囲気が中世っぽいのにへんてこりんな『絵画鑑賞』(小森紀綱/大原美術館賞)。
鑑賞、と言われればなるほどだけど、すっきり不気味に綺麗。
ステージの背後に飾られた、赤くてインパクト大の『Raining Forest』(川内理香子/VOCA賞)は、まあ、選ばれるだろうな、でもありがちだよね、と思う。
 
ともあれ、若い画家たちのとりどりの感性が四方から放射してくる空間に、成田達輝は素足、ぴっちり黒パンツスーツでステージにあがり、顔を撫で回し擦り回し、歪め、胸をひっぱたき、ひっくり返り、動きにつれ様々な音をその肉体が発するわけだが、その音というか響きの豊かさにちょっと驚く。楽器の人は自分の身体を楽器にする(鳴らす)コツみたいなの、つまり人体にはいろんな空洞があるってことを知っているんじゃないか、と。筆者はこの作品、ちょうど2年前、川島素晴で見ているが、そういう印象はなかった。ヴァイオリンと同じくらい、成田は自分を響かせられるらしい。これが冒頭のV.グロボカール『?肉体の』。

次、吉田文『ドレープ』で、右後ろの絵『What comes to your mind? Right here, standing in this place.』(手嶋勇気)と音が響き合い始める。絵、だけではなんとも思わなかったが、不思議に音と共振、黒いラインが動き、さらに左側、もう一つの綺麗なブルーの絵『Beyond 06 「遠さ」への光』(むらちひろ)もまたさわさわと揺れ始め、まさにドレープ。どっちも単体で対したら、こんな納得感は持たなかったろう。相乗効果、だ。
筆者は音につれ、絵に視線を彷徨わせているのだが、そういう客はあまりおらず(筆者は客の反応がわかる後方の席を好む)、みんなまっすぐステージを向いている。

ジョリヴェ『呪文』では成田らしい、ストラディヴァリウスの豊潤な響きに少しうっとりするが、急にさっきの少年5人が目の前に立ち、じっと筆者を凝視めるので、G線上に絡みつく弓、旋律線に喉を塞がれる気分になり、きっとそれはこの子らが今、戦場にいるように思えたからに違いない。呪文にかかったのだ。

平義久『収束Ⅲ』で、今度は『絵画鑑賞』が浮かぶ。そうそう、この音の間取り、なんだか似ている、というか、まんまだな。色合いといい、空間の切り取り方といい、展示絵画の東西混ぜこぜといい。
ブレクト『ヴァイオリン・ソロ』は、成田がヴァイオリンを大事そうに抱え、椅子に座って布であちこち楽器を拭くだけで終わった。こういうの、嫌いじゃないです。

休憩中、筆者は音と共振した絵とか、後半に使えそうな絵を写真に撮り、ほくほくした。さあ、どんなコラボが生まれるだろう。
ケージ『4分33秒』では、思いっきりあちこち絵を見回していたのだが、そんな人は誰もいなかった。せっかくたくさん絵があるのにもったいない、のだが、そうなると絵まで黙ってしまうので、つまらない。絵の力の弱さでもあるな、と了解。

あっという間の一柳慧『フレンズ』を挟んで梅本佑利『プラスチック・ヴァギナ』 (聴取時に見た春祭ブックレットp.189には『新作』とのみ記載)、は、ひたすらスケール(音階)の上下行をぐいんぐいん弾きまくる作品。ピアノのおさらいに必ず弾かされた教則本ハノン(筆者幼少の頃は)を思い出し、笑いそうになったし、勢い良いボウイングでそれが重ねられ交錯し、カノン風になり、ビブラートがかかり、と変化するのを愉快に聴いた。誰が聴いても分かりやすかったから、客は大受けで、やっと客席があったまった感じ。背後の赤い絵からもエネルギーがばんばん出るようで、そうか、悪くないかも、とか思う。でもこれは相乗というより、音楽が引き出したものだ、と勝手に確信する。
帰り道、当夜配布紙片を見て曲名が違うのに気づき、QRコードで本人の曲目解説を読み驚愕する。「〜〜は男性の性対象として作り上げられたミニマムな女性器の具現化である。」「性的対象のために作り上げられた、実際には存在し得ない人工の“内臓”。この作品が表すのは、その気持ち悪さと違和感である。」ええっ!みんな、解説読んでの大受け? が、それはそれ。筆者にとってはハノン、それでいい。**)
山根明季子『うねうね動くオブジェα』は、うねうねいつも通りで、梅本と類似。あとで、彼が山根の影響を受けていることを知る。

トリは増井哲太郎『無伴奏ヴァイオリンのための可変双魚室』。しょっぱなから超有名曲マスネ『タイスの瞑想曲』を猛然と美麗に弾き始め、筆者は思わずクックと笑う。タルティーニ『悪魔のトリル』と思えばグレゴリオ聖歌『怒りの日』、とにかくそれらを、「こんな名曲、もうやりたくないよ〜〜!」と駄々をこね、ぐちゃぐちゃに弾き倒す天才ヴァイオリン少年成田がそこに(のち解説を読み、成田の肖像と知る)。可笑しくておかしくて・・・が、誰も笑ってない。なんで?
暴れまくりはっちゃける名曲たち、そのぶち壊し(ちゃんと音楽的)に夢中の成田少年の変顔、ドヤ顔。これって思いっきり「反体制」的じゃないか?
筆者は痛快爽快愉快決壊!で転げ回りたい気分。客席も沸騰だ。
この種の笑いは川島に似る、と思ったらこちらもやはり影響大らしい。
弾き終えての成田と増井が「やったぜ!」みたいに互いの目線に笑顔だけのハグをしているのを見て、筆者はとても幸福な気持ちになった。
同世代での創造って、なんていいんだろう!
そうそう、後半、絵はどっかに行ってしまった。

いや、やっぱり、絵と音楽を一緒に、というのはすごくいい、良かった。
いろんな受け取り方ができ、心と身体の羽を好きに伸ばせる。
演奏家と作曲家との協働に加え、やはり同世代の画家たちの作品との共振。
例えば、一昨年あいちトリエンナーレで見たような作家たちの強い主張やメッセージを展示の絵に感じることはなかったし、それを脆弱に思う筆者だが、でも冒頭上述の2つにはとても心が動いた。
遊び心に満ちた若い世代の演奏家と作曲家のタッグの楽しみ方と、これらの絵画の間にあるものはなんだろう。

そんなことを考えていたら、成田が出てきて、アンコールをやるという。
「みなさん、目をつぶってください。そうして、二つの言葉、戦争と平和、を思い浮かべていてください。」
みんな大人しく目を瞑った。
ベートーヴェンの『歓喜の歌』の一節が、朗々と流れ、前方から、横に、背後にと動いてゆく。
客席を回っているんだ、静かに。
こみ上げるものがあった(筆者はこういうのに、普通に、弱い)。

いいコンサートだった。
後ろ手の未来の少年たちが、ぐっと明るく瞳をあげたみたい。
若さとは、これから伸びてゆく力。
素直に、そう思う。

 

*)当初予定曲目が変更された。

**)以上、書き終えたのち、筆者は改めてこの作品タイトルと本人解説を春祭サイトで再読し、非常に不快になった。「音の動きが行為を思わせる」のに気づいたからだ。(この解説を読んだ女性から「精神的レイプ」と感じた、との感想があった)。
https://www.tokyo-harusai.com/program_info/2022_tatsuki_narita/
悪趣味以上に、なぜ、と思う。
いや、もう一度いう。露骨に悪趣味だ。
受け止めに性差、個体差はあろう。
筆者はただ音に反応して笑ったが(反・教則本として)、解説を読み、仕掛けを理解したらどうだったか。そうしたことも含め、なんとも言えぬいかがわしさを感じる。
あれほど楽しい気分で元気をもらって帰宅し、楽しく原稿を書いたのに、それが全てぶち壊された気持ち。
それは、書いておくことにした。
一聴衆として。
「秘すれば花」(『風姿花伝』世阿弥)でも、学んだらどうか。

*   *

やや時をおき、また考えた。
これは若者たち(作曲・演奏・聴衆)の確信犯的合意のもとであったと。
「反・消費」で括るなら、増井作品も同一路線上ではあろう。
だが、後味はまるで違う。
作曲家は「この作品が表すのは、その気持ち悪さと違和感である」と述べているが、果たして「音」にそれが表現されていたろうか。
アンチを装い、仲間内「界隈」で、盛りあがりたかっただけではないのか。
筆者を含む当日参集の方々全てに、この問いは投げておく。

(2022/4/15)

追記:
この文章はもとより筆者個人の聴取体験に基づきます。したがって筆者の自問も含め当日の作曲・演奏・聴衆の全ての方々に「あなたにとってはどうだったか」を問いかけるもので、それを知りたいと強く思っています。いつもならこうした文章には「みなさまのご意見をご寄稿ください。」と付記していますが、それを失念いたしました。ここで、改めてご寄稿を呼びかけます。
ご寄稿に際しては、本誌における公開を前提としたものであること、実名と、可能であれば属性(聴衆・作曲家・演奏家など)を明記いただければと思います。
字数は1000~2000字程度でお願いいたします。掲載は次号5/15号に特別枠を設け、そこに全てのご意見を掲載する予定です。
なお本誌は常に、一方的な批判を掲載するのではなく異なった見解・意見があればその都度ご寄稿を提案してきましたが、 そうした呼びかけに応じてくださる方は残念ながらいらっしゃいませんでした。以下をご参照いただければ幸いです。
『メルキュール・デザールってどういう仕組みなんですか、に。』(2/15号カデンツァ)
http://mercuredesarts.com/2022/02/14/cadenza-how_mercure_des_arts_move-okayama/
「なお、批判評にお怒りの声が届くこともあるが、誠実な対応を心掛けている。異なったご意見があるのは当然だし、ご寄稿いただければ掲載する旨ご提案しているが、これまでそのような形に至ったことはない。双方向の意見交換の方法を模索中である。」

ご寄稿は4月末日までに、以下にお寄せください。
事務局: office@mercuredesarts.com
Contact Us : http://mercuredesarts.com/contact-us/
活発な意見交換の場となれば幸いです。

(2022/4/20  丘山万里子)

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<Artist>
Tatsuki Narita

<Program>
Vinko Globokar( 1934-):?Corporel
Aya Yoshida(1992-): Drape for Violin Solo (World Premiere)
A.Jolivet (1905-74): Incantation “Pour que l’image devienne symbole ”
Yoshihisa Taira (1937-2005): Convergence Ⅲ
G. Brecht (1926-2008):Solo for Violin
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J.Cage(1912-92): 4’33”
Toshi Ichiyanagi (1933-): Friends
Yuri Umemoto(2002-) : Plastic Vagina for Violin (World Premiere)
Akiko Yamane(1982-):windingly moving objects α
Tetsutaro Masui(1987-):Variant Pisces House for Solo Violin (World Premiere)

(Encole)
Mieko Shiomi (Arrangement by Tatsuki Narita): Passing Music