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パリ・東京雑感|幸福の<原層>を掘り当てた若者たち 脱成長時代の見晴らし|松浦茂長

幸福の<原層>を掘り当てた若者たち 脱成長時代の見晴らし
Today’s Young has Returned to the Primitive Happiness.

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

カール・ヤスパース

2008年に東大で「軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱ – いかに未来を構想しうるか?」という雄大なテーマの公開シンポジウムがあった。
そもそも「軸の時代」って何?歴史は同じテンポと密度で進むわけではなく、例外的に凝縮した時代がある。紀元前500年ごろ、地球上の三ヶ所でほぼ同時に、精神の大変容が起こり、
①中国では孔子、老子、墨子ら諸子百家が活躍
②インドでは釈迦が生まれ、懐疑論、唯物論、詭弁術などあらゆる哲学が展開
③イランではゾロアスター教。パレスチナではエリア、イザヤ、エレミアら預言者が出現。ギリシャではパルメニデスからプラトンまで哲学の黄金時代を築いた。
人類は今も彼らの思想を糧として生きている。困難に直面すると、そのたびにこの時代に思いをはせ、彼らの思想に立ち返って飛躍のエネルギーを分け与えてもらう。つまり、世界史はこの時代の達成を軸として展開されたという説である。「軸の時代(枢軸時代とも)」を提唱したヤスパースはこの不思議な現象についてこう書いている。

この時代に始まった新しい出来事といえば、これら3つの世界全部において(ヤスパースはイラン、パレスチナ、ギリシャを一まとめに西洋と数え、中国、インドと並べている)人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識したということである。人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを経験する。人間は根本的な問を発する。彼は深淵を前にして解脱と救済への念願に駆られる。自己の限界を自覚的に把握すると同時に、人間は自己の最高目標を定める。(『歴史の起源と目標』)

では「軸の時代Ⅱ」とは何だろう?一言で言えば、人間と地球との関係が「軸の時代」とは変わってしまった。だから「軸の時代」の思想はもう役に立たない、という恐ろしい警告なのだ
シンポジウムの基調講演をした見田宗介氏に言わせると、「軸の時代」は、貨幣システムと都市が成熟し、人間が安定した閉鎖社会から、限りない世界に飛び出て行く「旅する人」誕生の時代に当たる。このとき、世界の「間」を生きるようになった人間は、世界が「無限」であるという真実の前に立たされ、戦慄した。その「無限」への畏怖と苦悩のなかから、新しい時代を開く大思想が生まれたのである。
ところが、人類はいま、グローバル空間の限界に突き当たり、うろたえている。気候変動、資源の枯渇、水不足……わたしたちは世界が「有限」であることを知り、恐怖におののいている。「無限」の恐怖に初めて出会った「軸の時代」とは正反対に、いまは「有限」の恐怖に対処しなければならないのだから、釈迦牟尼もプラトンも、助けてくれない。とすれば、「軸の時代Ⅱ」の新思想が生まれるのを待ち望むほかないのではないか?

あのシンポジウムから14年。見田先生の予言は当たっただろうか?大洪水、大干ばつ(自然災害がひどいので火災保険が大幅値上がりした)、アメリカ民主主義の凋落(トランプが破壊したものはまったく修復されていない)、そして極めつきが新型コロナ。地球と人間の関係が変調をきたしたのは誰の目にも明らかになってきたし、人間社会の方も、民主主義の根っこにある大切なものが腐り始めた兆候があちこちで見られる。深い淵に向かって滑り落ちて行くような今をどう読み取るのか、見田宗介氏の近著『現代社会はどこに向かうか』を覗いてみた。
「終わりの時は近づいた。悔い改めよ」と、荒れ野に叫ぶ預言者みたいに回心を迫られるのでは、とおそるおそる読み始めたら、完全に肩透かし。今は大変幸せな時代なのだそうだ。
日本の青年層の意識変化を見ると、「生活に満足していますか?」との問に、1973年は53%が「はい」、2013年は89%が「はい」と答えた。給料が増えない、非正規雇用が激増したというのに、圧倒的多数が「満足」なのである。
ヨーロッパでも同じ変化が見られる。(「満足ですか?」ではなく「非常に幸福ですか?」と質問しているが。)1980年代と2010年近くの変化を20-24歳の年齢層について見ると、
フランスは、19⇒49%
イギリスは、35⇒44%
西部ドイツは、9⇒27%
デンマークは、29⇒48%
確実に幸せになっている。
3年ほど前、若い女性監督がつくった『ある夏のリメイク』というフランスのドキュメンタリー映画が上映された。道行く人に「幸せですか?」と聞き、その理由を根掘り葉掘り探るのだが、驚いたことに、ほぼ全員が「ウイ」と答えていた。「なぜ幸福?」と聞くと、「良い天気だから」とか「病気ではないから」とか「不幸じゃないから」とか、答えは軽い。パリ・東京雑感|重い喜び、軽い喜び| 松浦茂長 | (mercuredesarts.com)
どうやら、この「軽い幸福感」が地球有限時代の支配的気分のようだ。

見田氏は、幸福感の中味を吟味しようと、「非常に幸福」と答えたフランスの学生たちに「あなたが幸福な理由」を訊いた調査を紹介している。
○私の理由はごく取るに足らないものです。私は大切な人達と穏やかな一週間を過ごしたばかりです。
○春が始まる、私は太陽が大好きです。
○家族は健康で、いまやっている勉強は楽しい。
○一日3回ごはんを食べられるから。
○至急解決を要する問題がありません。
○クリスマス休暇のとき、家族と一緒にいました。ある朝、窓を開けました。外は天気がよくて気持ちがよかった。山々も眺められました。私は幸福だと感じたのです。
読んでいるだけで楽しくなるこの調査結果について、見田氏は詩情あふれるコメントをしている。

一番大きい印象は、何かとくべつに新しい「現代的」な幸福のかたちがあるわけではなく、わたしたちがすでに知っているもの、(もしかしたらずっと昔から、文明のはじまるよりも以前からわたしたちが知っていたかもしれない)あの幸福の<原層>みたいなもの、身近な人たちとの交歓と、自然と身体との交感という、<単純な至福>だけだということであるように思う。

進歩・成長の強迫観念に追い立てられていた時代は、より豊かな明日のためあくせくするばかりで、今の生が空疎化することに無頓着だった。今この時は、未来のための投資でしかなく、いかに今の幸せを犠牲にしているかに気づかなかった。逆に地球有限時代は、未来に<夢が持てない>時代。夢がないとは、裏返せば、今の生を<夢=目的=未来>のための手段とする成長イデオロギーからの解放でもある。こうして、若者は<単純な至福>を感受する力を取り戻した、というのが見田氏の見立てである。
かれらの間で、ブランドもの、高級車などは幸福の理由にならない。日本の若者が志向するシンプル、ナチュラル、脱商品化とフランスの若者の意識は同じ方向を向いているそうだ。

『ALWAYS 三丁目の夕日』予告編より

見田氏の14年前の講演にも近著にも『ALWAYS三丁目の夕日』(2006年)が登場する。映画は高度経済成長前夜の1958年の東京が舞台。「人びとが未来を信じていた時代」の回顧物語だ。
今は、「未来が素晴らしい」と思う学生はほとんどいない。1970年頃はデカい夢が語られたのに、今の学生の夢は「一度でも景気の良い時代に生きてみたい」とつつましい。1958年と2006年の間に、日本人の「心のあり方」に巨大な転換があった、と見田氏は言う。
ところで、 『ALWAYS三丁目の夕日』の監督、山崎貴は2017年に『DESTINY鎌倉物語』をつくった。大小の妖怪、幽霊、神さまが日常のシーンにごく当たり前に登場し、人間と交流する。「四谷怪談」などの怖いお化けとは違って、異界も霊界もやさしく日常化している。
見田氏によると、「魔術的なものの再生」もまた、今の時代の奇妙なしるしである。1973年から2013年の青年層の意識変化を見ると、来世や奇跡を信じる割合が確実に増えている。
①「あの世、来世を信じる」5⇒21%
②「おみくじや占いをした」30⇒46%
③「お守り、お札を信じる」9⇒26%
④「奇跡を信じる」15%⇒26%
近代社会は生のあらゆる領域が<合理化>され、<魔術からの解放>、脱魔術化が近代の特徴とされたのだが、今起こっているのは、脱・脱魔術化現象だ。
黒沢清監督の『岸辺の旅』(2015年)は、あの世から戻ってきた夫と、まだ死んでいない妻が、思い出を確認する旅に出る。再会する相手も生者あり、幽霊あり、まことに豊かな人=霊関係が展開される。
伝統的幽霊は、たとえどんなに愛した人であっても、いったんあの世に行った者は穢れであり、祟りであり、お化けに会うと取り殺されることになっていたけれど、脱・脱魔術化時代の幽霊はむしろ友好的だ。日本の若者の間で「魔術的なもの」が再生したといっても、怪談話の昔と同じではない。タイやスペイン映画に人間と交歓する魅力的な幽霊が出てきたのと同じように、日本の霊界ストーリーも、ようやくイザナギーイザナミ以来の黄泉への原始的恐怖から脱却したように見える。近代<合理性>以前の魔術に逆戻りしたのではなく、<合理性>の限界を知り、見田氏の用語を借りれば、「合理と非合理を自在に往還する精神=<メタ合理性>の水準」とでも呼ぶべきだろうか?

さてしかし、若者の幸福感といい、魔術の再生といい、あまりに軽いのではないか?上手に軽さを生きられるときは良いが、人生に行き詰まったとき、あるいは孤独の谷に落ち込んだとき、あの軽さでは救いにならない。地球有限時代=「未来を信じられない」「夢を持てない」時代は、やはり波乱にみちた転換期であり、一歩間違えばカオスに落ち込む危うい時なのだ。
『現代社会はどこに向かうか』は、若者の意識変化の中に魅力的な未来の萌芽を見ようという狙いの本だが、それでも、この変化の時の危うさを示す例として、2008年アキハバラの無差別殺傷事件に1章を割いている。犯人は自分を「だれからも必要とされていない人間」だと感じ、その空虚感から非合理な犯罪にむかった。見田氏によれば、犯人はリストカットする少女達のように、リアリティに飢えていたのである。
未来のない軽さにたえられない人は、<手応え>を求めて、憎悪をあおる原理主義的宗教に、あるいは大衆をだますポピュリスト政治家に、あるいは左右のテロリズムに吸い寄せられて行くだろう。イスラム国の聖戦兵士に志願した若者の多くは、自殺願望をもっていたという。できるだけ多くの他人を巻き添えに死にたいという自殺願望は、日本でもすでに大勢の犠牲者を出している。電車の中で客に切りつけ、オイルをまいて火をつけた男は、大勢の客を殺したかったと言っていたし、大阪の精神科クリニックに放火した男は、患者達が逃げられないよう周到な準備をした。
あまりにも危うい今の時の精神状況を、見田氏はこう描写する。

加速しつづけてきた歴史の突然の減速がどんなに急激なものであったかが分かる。未来へ未来へとリアリティの根拠を先送りしてきた人間は、初めてその生のリアリティの空疎に気付く。こんなにも広い生のリアリティの空疎の感覚は、人間の歴史の中で、かつて見なかったものである。

見田氏によれば、これはいま歴史が第二の巨大な曲がり角を迎えているための危機である。危機を乗り越えるためには、人類があの第一の歴史の曲がり角(BC500年)の巨大な課題に真正面からたじろぐことなく立ち向かい、次の時代を生きる思想を構築したように、わたしたちも地球有限時代の見晴らしを切り開かなければならない。それに成功すれば、第二の曲がり角、危機の時代を、「もう一つの巨大な思想とシステムの創造の時代」、新しい「軸の時代」とすることが出来る。言い換えれば、「軸の時代Ⅱ」の新思想を軸に、人類はさらに歴史を展開し続けることが出来るというわけだ。

でも「軸の時代」の奇跡がもう一度起こるのを期待しても良いのだろうか?釈迦やプラトン級の超天才がふたたび世に出る奇跡をあてにして良いのだろうか?むしろ、「軸の時代」の思想に立ち返って、近代に歪められた読みを修正し、出直しを企ててはどうだろう。
BC500年の不思議を思い出してみよう。同じ時に、互いに連絡もなく、世界の3ヶ所で思想の胎動が起こった。(エジプト、メソポタミアの大文明は「軸の時代」に貢献しなかった。それは限られた3ヶ所であり、10ヶ所でも1ヶ所でもなかった。)このように起源を異にする3つの思想・信仰が歴史を導いてきたという事実は、いやでも多文化が触れあい、共生せざるを得ない今、グロバライゼーション時代にこそ決定的な意味を持つのではないだろうか。
それは、一つの思想・信仰が真理を独占する誤りに陥るのを防いでくれる。ヤスパースはこう書いている。

枢軸時代には三通りの歴史的に変わった足取りが存在するのであるから、思えばこの事実は、無際限の交わりを促しているかのような観がある。他者を顧み、理解することは、自己自身を明らかにし、おのおの自己閉鎖的な歴史性の可能なる狭さを克服し、拡がりへと離脱するのに役立つ。

ロヒンギャ難民

インドではヒンズー教徒がイスラムやキリスト教徒を襲い、ミャンマーでは仏教徒がロヒンギャ(イスラム)を迫害し、ヨーロッパでは移民・イスラムへの憎悪が民主主義の土台を揺るがせている。有限を恐怖する時代は、文化・宗教的対立が先鋭化せざるをえないのだろうか?
この危機を乗り越え、人類が生き延びるための最大のカギが、ヤスパースの指摘のなかに隠れているように僕には思える。BC500年の不思議は「無際限の交わり」への呼びかけなのだ。仏教、儒教、キリスト教、西欧近代を曲がりなりにも共存共栄させてきた日本は、「拡がりへの離脱」のお手本を示さなければならない。

(2022/2/15)