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評論|西村朗 考・覚書(5)歌曲『涅槃』と『輪廻』〜レコーディングで|丘山万里子

西村朗 考・覚書  (5) 歌曲『涅槃』と『輪廻』〜レコーディングで
Notes on Akira Nishimura (5) Song “Nirvana” and “Samsara”〜 in Recording

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

『覚書』を開始時点で、西村作品の実演には可能な限り出かけることにした。新作初演も含め発見も多いが、コロナ禍にあり中止になった公演もある。
鈴木亜矢子ソプラノ・リサイタル (pf/吉本悟子)もそれで、西村の数少ない歌曲(現時点で5曲1))から『涅槃』(1997)『輪廻』(2004) が歌われる貴重な機会だった。落胆大きかったところ、西村氏よりカメラータ・トウキョウの CD収録が当日行われることになったので立会い可能、とのご連絡。すっ飛んで行ったのである(10/18@東京オペラシティ・リサイタルホール)。
レコーディング参観は龝吉敏子&ルー・タバキン(by及川公生、氏の仕事では高橋アキ&森山威夫ライブ一発どりも体験)、藤井郷子・田村夏樹@NYなど数回あるが、クラシック系は初めて。カメラータの井阪紘氏については本稿第3回でも触れているが(龝吉敏子、伝説の『孤軍』他)、西村作品収録への並々ならぬ情熱に今回も低頭の気分であった。JazzTokyo時代、プロデューサー稲岡邦弥氏から井阪氏(以下、敬称略)の世界的名声(呼称「小さな巨人」だそうだ)を聞いてもおり、三善晃、松村禎三、八村義夫らのCD(筆者関連では)、さらに草津でもその仕事ぶりに長く接していたから、その意味でも千載一遇のチャンスだったのである。

この2曲、テクストはいずれも萩原朔太郎。
朔太郎を西村が用いるのは『「青猫」の五つの詩』(1996/女声合唱と四重奏のための) が最初で、実は筆者、この『「青猫」の〜』を2018年5月の合唱祭『Tokyo Cantat 2018』(@すみだトリフォニー)で初めて聴き、衝撃を受けたのだ。西村にはこんな世界があったのか、と。それが『紫苑物語』へ、本稿へとつながる思惟の背を押した、と自覚する。
西村の代名詞ケチャ、ヘテロフォニー、トレモロにゲート、グレーゾーン、汎アジア、曼荼羅世界、あとはなるほど職人芸ね、と片付けるに済まない異形の音声が襲いかかる、それに背筋がぞくっとした、あの時確かに筆者は西村が奥底に抱く底冷えする燐火のようなものに触れたと思う。それはまちがいなく『紫苑物語』のどこかに姿を見せていたのではないか・・・。
ゆえ、まず『「青猫」の〜』に触れたいのだが、そこに分け入る前に、眼前の『涅槃』『輪廻』に耳目を凝らそう。

レコーディングという繊細な場に部外者は邪魔であれば、挨拶もそこそこに西村、井阪の背を拝しつつ手渡された2曲の自筆譜に見入る。
『涅槃』は『「青猫」の〜』の翌年の作で、朔太郎の詩集『蝶を夢む』(1923/『青猫』と同年)の一編。
この『蝶を夢む』については、『涅槃』のち、『かつて信仰は地上にあった』(2000/男声合唱と打楽器のための)、『内部への月影』(2001/無伴奏混声合唱、カウンター・テナーまたはソプラノ独唱のための)、さらに『蝶を夢む』(2002/無伴奏混声合唱曲)で中原中也、大手拓次の詩とともに用いている。この間に混声合唱とピアノの『輪廻』(2001/テクストは同じ)2)も作曲しているから、『「青猫」の〜』から数え、この時期、朔太郎を連続して書いたことになる。
歌曲『涅槃』から『輪廻』の間を合唱作品が埋める形だ。
にしても、涅槃だの輪廻だののタイトル、なんとなく『青猫』じっとり哀傷世界からはイメージを描きにくい気がするが、いや、やっぱり朔太郎。

《涅槃》
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

涅槃は熱病の夜あけにしらむ
青白い月の光のやうだ
憂鬱なる 憂鬱なる3)

あまりに憂鬱なる厭世思想の
否定の、絶望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影
哀傷の雲間にうつる合歡の花だ。

涅槃は熱帶の夜明けにひらく
巨大の美しい蓮華の花か
ふしぎな幻想のまらりや熱か
わたしは宗教の祕密をおそれる
ああかの神祕なるひとつのいめえぢ4)――「美しき死」への誘惑。

涅槃は媚藥の夢にもよほす
ふしぎな淫慾の悶えのやうで
それらのなまめかしい救世(くぜ)の情緒は
春の夜に聽く笛のやうだ。

花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟(おもひ)にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。

まずは通して、次に細部を聴いてゆく。
Adagio sempre molto espressivoでピアノの序奏から。和音(con ped. a piacere)の上のふるふるトリル、これが至難だ。
「ゆっくりでなく風がふっと入るように。音の粒立ちが欲しい。」(西村、以下N)
アルペッジョ、順次上行その他種々に変形した音形がppからfまでaccel.を繰り返しrit.ののちpp「はなざかり〜」が入る。

「その“は”、はっきり。」(井阪、以下I )
ppだがはっきりとは、響きがぼやけないように、ということだろうが、日本語は実に難しい。山田耕筰『歌の唱ひ方講座』(1928)での指摘を思い出す。山田の時代、端唄小唄など、巷に流れる節回し・発音はまだ身近で、藤原義江らはそれを自然に身につけていた。が、そんな巷が消えた今、日本語歌唱技術はもはや意識と修練によってしか得られまい。
井阪は総じて言葉の発音を、西村は音楽面を指摘する。
2回目の「ねはんは〜」の引き伸ばされた「は」は、続く「ねったいの」に入る前の跳躍音形3連符(ais-e-ais)の動きを「はっきり、たっぷり」との指示(N)。
この「ねはん」の3句だが。
1. 涅槃は熱病の夜あけにしらむ 青白い月の光のやうだ
2. 涅槃は熱帶の夜明けにひらく 巨大の美しい蓮華の花か
3. 涅槃は媚藥の夢にもよほす ふしぎな淫慾の悶えのやうで
幻想を徐々に広げ欲望の悶えへと至らせるこれら言葉に寄り添う、いや、言葉に音が蛇のように絡む姿形(「蛇」も西村世界のキーワードと筆者は思う、ちなみに彼は巳年だった!)が見える。その表出のある種の淫靡に「救世の情緒」など言う朔太郎も朔太郎なら、それを音に脈打たせる西村も西村。若いソプラノ鈴木の誠実と素直が手探る二者の世界に何やら身裡(みうち)がじりじり火照ってくるようだ。隣接する順次、半音、あるいは増音程進行が多い譜線上に周到に混じる5度を超える跳躍には必ず詩句の強さがこもる。
そうして第5節終句「春の夜に聽く笛のやうだ。」に「アー」のヴォカリーズがp<fでg~fis 4小節、pp<fでfis~f 4小節続く。この間ピアノも同音のトリルの波。終えたところでピアノ両手ユニゾンとクラスターが音場を裂き、rit.して最終節「はなざかりなる〜」が回帰。この仕掛けをどうさばくかだが、わりとすんなり進行は、この「アー」にある種の解放感があったからではないか。最後の特大緊張を強いる終句「おもう」(p, es-a)の語りへの集中がこの間にはかられる、とか。その言葉の余韻の鎮まりとともに、ピアノが最低音a,es(減5度重音)から最高音fis,cまでをpp>ppppで昇る。花ざかりの菩提樹の下、神秘の残り香が・・・。

筆者、2度目のインド旅でブッダ生誕から入滅の地を巡り、かの悟りの菩提樹の下(ブッダガヤ)にも行ったが、むろん信徒で溢れ、観光客がわずか混じる。ではあるが、インドの灼熱に焼かれ干からび切った身をよろめかせ、近代とは無縁、闇中の篝火でここに村ありと知れるド田舎の道をまさに苦行のオンボロバスでめぐっておれば、朔太郎の「幻想」もあながち当たらずとも遠からず、なのだ。原始の熱帯漆黒にどれほど月光が樹影が花々が、ぼうたる幻想をまとっているか。どんな「涅槃」世界が広がるか。
ただ西村の音楽は決して過剰な汁をこぼさぬ微妙な抑制があることも確か。
ちなみに西村はこの『涅槃』の詩をいたく好み、『ニルヴァーナ』(2000/sop,pf,SQ)も書いている。
朔太郎の「涅槃理解」と西村のそれの照応にまで話を飛ばす前に、『輪廻』へ行こう。

『輪廻』は『定本 青猫』(1936)所収で、初版『青猫』から十余年後、初版に不満だった朔太郎が改編した。その中の1編『輪廻と樹木』がテクストだ。

《輪廻と樹木》
輪廻の暦をかぞへてみれば
わたしの過去は魚でもない 猫でもない 花でもない
さうして草木の祭祀に捧げる 器物(うつは)や瓦の類でもない。
金(かね)でもなく 蟲でもなく 隕石でもなく 鹿でもない
ああ ただひろびろとしてゐる無限の「時」の哀傷よ。
わたしのはてない生涯(らいふ)を追うて
どこにこの因果の車を輪廻して行かう
とりとめもない意志の惱みが あとからあとからとやつてくるではないか。
なんたるあいせつの笛の音(ね)だらう
鬼のやうなものがゐて木の間で吹いてる。
まるでしかたのない夕暮れになつてしまつた
燈火(ともしび)をともして窓からみれば
青草むらの中にべらべらと燃える提灯がある。
風もなく
星宿のめぐりもしづかに美しい夜(よる)ではないか。
ひつそりと魂の祕密をみれば
わたしの轉生はみじめな乞食で
星でもなく 犀でもなく 毛衣(けごろも)をきた聖人の類でもありはしない。
宇宙はくるくるとまはつてゐて
永世輪廻のわびしい時刻がうかんでゐる。
さうしてべにがらいろにぬられた恐怖の谷では
獸けもののやうな榛(はん)の木が腕を突き出し
あるいはその根にいろいろな祭壇が乾(ひ)からびてる。
どういふ人間どもの妄想だらう。

筆者はこの特に最後の4行に、先般の<ながらの座・座>での体験を思い出し、まさにこれだ、とうなったのだった。岩が動き出し、樹木のコブがせり出し、根元がぐずぐず這ってくる、あの奇怪。音楽が(尺八とクラリネット)が引きずり出したとしか思えない。朔太郎もまたべにがらいろの恐怖の谷に、それを見たのだ・・・。
鈴木の歌唱はこちらの方がぐいぐいのノリで、前曲以上の圧迫と眩惑が。というのも、「うおでも」「ねこでも」「はなでも」ない、といったたたみかけや、「あとからあとから」「べらべら」「くるくる」が幾重にも襲う音形によって強調、絶大な効果をあげるからで、筆者はとりわけ「べらべら」6回の執拗には異様な昂奮すら覚え(一気に歌われる)、この辺りで西村への好みが分かれようぞ、と実感であった(シューベルトの偏執を思わずにいられない)。言いつのるなら『紫苑』のうつろ姫がここに居る。まさに青草むらの中にべらべら燃える提灯、ではないか。

順次見るなら曲冒頭、misterioso こちらもppピアノ低音アルペッジョにトリルが浮かぶ。
「音の粒立ち、はっきり。音が見えるように」。歌の入り「りんね、molt espressivoね」「ピアノ左手、もっと出したほうがいい」(N)
ピアノは全編このパターンゆえ、あとは歌唱をどう波にのせるかに腕がかかる。同型はむろん因果の車、輪廻の回りであろうし、そこにとりとめもない意志の悩み、妄想にしだかれる「わたし」(人間ども)が乗る。歌声がそれ。
第5行「ああ ただ」の「ただ」の下降するges~bアクセント「ffの意識を」(N)。続く3連符p<mf accel.「ひろびろとしている むげんのときのあいしょうよ」rit.しての四分音符f上のフェルマータ「もっと長く」(N)。「わたしのはてないらいふ」の前にpp「o」のヴォカリーズがges~f~e~esと半音階下降する、この挿入も輪廻の車を回すための “溜め”であろうか。

西村の指摘が重なったのはやはり後半「わたしのてんせいは」、急激なp<fとりわけ「てんせいは(わ)5)」の3連符g-fis-is上のアクセント以降。「うちゅうは(わ)くるくるとくるくるとまわっていて」に「逃れられない苛立ちを強く訴えるように」との指示。ここはピアノも忙しく低音トリルを重く順次進行でずり上げて行き、f<p「えいせい」(e~f跳躍)からf「りんねの」as-g-f 3連符を突出させるのだが、このf>p<fのギアチェンジは特段に難しかろう。そこから、凄み漂うべにがら色の恐怖の谷へと突っ込むのだから。
終句 meno mosso「どう(お)ゆう にんげんどもの」、rit. pp「もうそう、は響きを暗くしないように」。mf「だろう(お)」の「ろ」に最後のアクセントが置かれ溶暗。
この終尾には「もっとスパイシーな響きで」と、ニュアンスの要求が入る。スパイシーとはなんと難しい・・・複雑な妙味、ということらしい。
最後、奏者二人へねぎらいの「ブラボー」をかけ、録音は終了した。

朔太郎、西村の「涅槃」理解(涅槃とは仏教の最終境地)も含め、二者の綾なす世界に踏み込むにあたり(次回)、歌曲2曲の収録立ち会いを入口にできたのは幸運というほかない6)。この作曲年代時、すでに西村は器楽でその独自の技法を確立している。『ケチャ』(79)のケチャ、ホケット、『交響曲第2番』(79)のトレモロ、『弦楽四重奏のためのヘテロフォニー』(75~87)『雅歌1〜Ⅳ』(87~88)『2台のピアノと管弦楽のヘテロフォニー』(87)のヘテロフォニー、『瞑想のパドマ』(88)のドローン、『太陽の臍』(89)の汎アジア、曼荼羅世界と出そろった後だ(ただし、いずれもその萌芽は最初期作品群に見出せる)。むろん、それらは声の領域にも反映されている。
器楽領域については西村自身が著作その他で大いに語っているが、歌曲・合唱作品への言及は少ない。従って、『紫苑』への道として、もう少しこの「声」の領域を言葉とともに振り返りつつ歩こうと思う。

註)

  1. 『猫町』text by 萩原朔太郎(2015/松平敬委嘱初演)
    『木立をめぐる不思議』text by 大手拓次(2018/藤木大地委嘱初演)
  2. 『輪廻』(2001/男声合唱、pf)はYoutubeがあるが、歌曲とは全く異なる相貌で、器楽的表現が顕著だ。参考のために挙げておく。
  3. 「憂鬱なる 憂鬱なる」と「あまりに憂鬱なる厭世思想の」の間に行あけがあるが、原詩はない。レコーディング時に頂戴した詩文のコピーに従った。
  4. 「いめえじ」は原詩にも強調の「﹅」が振られているが誌面では反映できないので、斜体太字にしてある。
  5. は(わ)といった発音指定はスコアに書き込まれている。
  6. 立ち会いを許可くださった西村、井阪両氏に厚く御礼申し上げる。

参考資料)

◆書籍
『萩原朔太郎 ちくま日本文学全集』  筑摩書房
『月に吠える 萩原朔太郎詩集』 角川文庫

◆楽譜
『涅槃』全音 準備中
『輪廻』全音 準備中

◎『西村朗 考・覚書』(1)(2)(3)(4)

(2020/11/15)