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評論|西村朗 考・覚書(3)鴫野〜原光景|丘山万里子

西村朗 考・覚書(3)鴫野〜原光景(後編)
Notes on Akira Nishimura
(3)Shigino

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

西村は自伝『曲がった家を作るわけ』(春秋社/2013)で幼年期を詳細に述べている(「にぎやかな始まり」)。還暦記念のような作本ゆえ、亡き父母へのひとかたならぬ想いもそこここに偲ばれる。以下、そこから適宜拾っておく。

実家裏路地

西村自転車店主である父はフィリピン生まれ。19世紀末米国植民地となったルソン島の避暑地バギオ開発には日本移民が多く渡り、大戦前には繁栄期を迎えた。実業家の祖父(岡山出身)はその一人であったらしく、当地で輸入品雑貨店を開く。国際感覚に優れ英語も堪能なやり手だったが40歳頃に帰国、当時父は6歳くらい(実母には早くに死別)だったという。鴫野に西村車両工業を創業、西村の実家の路地1本挟んだ裏手に工場を営んだ。戦後高度成長期の昭和30年代には多くの従業員でフル稼働だったという。現在は実家も工場もなく、家々が肩寄せ合って並ぶばかりで痕跡はない。
家業を継いだのは祖父の三男で、職人気質の父は新品中古自転車、バイクの修理など日長一日店の仕事場におり、無口に出不精、社交性欠如の人だったという。
筆者は西村の作曲にとどまらぬ多角自営ぶり(武満徹や細川俊夫の戦略的自己プロデュース力とはやや異なろうが)に何がしの才を感じてきたが、知れば祖父の血を引くと納得なのだ。外国の空気をまとう人物(口ひげピンと立て威圧的風貌、写真の裏書に綺麗な筆記体英文など)がそばに居た、それだけで海の向こうの大陸の匂いを幼い彼は嗅いだろう。
ふと、草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル会場で見かける彼の姿が目に浮かぶ。ちなみに、この音楽祭で采配を振るうプロデューサー井阪紘(カメラータ・トウキョウ)は西村のCD録音に情熱を燃やし、対話本『音楽の生まれるとき〜作曲と演奏の現場』(春秋社/2010)も出している強力な相方である。目録のほぼ全てに近いCDが井阪の録音で、彼はジャズ(龝吉敏子ら)から現代音楽までに精通する辣腕。音楽祭での演奏家たちとの協業(K・ライスターcl、S・ガブリロフvn、アルディッティSQなどなど)も生まれ、その作品を彼らが海外で演奏する機会も得ることとなる。
遠山一行が退いた後、西村が音楽監督となったのも宜なるかな。草津が縁での様々については機を改めよう。

才より大きいのは祖父の信心だ。
日蓮宗の熱心な信徒であり、かつ神社神道を敬い、寺への寄進、神社の鳥居建立、仏像蒐集などの傍ら孫に法話本を与え、蓮華宝座から地獄絵図までを刷り込んだ。簡単な礼拝御唱えの手引きもした。
つまり、幼少時に、彼はいかにも日本的な神仏習合(混淆)を体得していたのである。
祖父の篤き信心をそっくり継いだのは父でなく、その嫁である母。加えて彼女は16年ほど子宝に恵まれず、ご霊験あらたかとの勧めで金光教に入信、ついに彼を身ごもった。

「産科医に妊娠を告げられるその朝、目をひらくとまばゆい光の輪が広がり、霊妙な鈴の音が聞こえたという。母はたびたびその話をして、だからお前は神様に授けられた子だと繰り返し言っていた。」(65p)

「まばゆい光と霊妙な鈴の音」。光フェチとは母胎内からすでに胚胎、鈴の音と共にの受胎告知を「なるほど」と頷くのは漫画チックだが、作曲家のネタとしては悪くないとしよう。
祖父に輪をかけ篤信家であった母の日常は、毎朝仏壇にお光とお香、お茶、果物類を捧げお経を唱え、お仏花も絶やさず、その隣には神棚でご神体の札を祀り、ご神器に水と炊きたてご飯を供え、榊を立てて恭しく祝詞を奏上、朝の出勤前(大阪市職員)に欠かさず続けた、というからすごい。
金光教とは幕末三大新宗教、黒住教、天理教と並び、安政6年(1859)岡山の地にのちの金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教。神と人とは「あいよかけよ(へいさほらさ)」の関係(人は神に助けられ、神もまた人を助けることで神としての働きが出来る)」であり、「神でも仏でもいとわず誰をも区別なしに守るゆえ、宗旨に凝り固まるような狭い心を持ってはならず、心を広く持ち世界を広く考えて手広くいかなければいけない」と心の寛容性と多様性を説く。なかなか興味深い宗旨だ。
鎌倉仏教日蓮の「南無妙法蓮華経」のお題目とともに金光教唱文「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)天地金乃神(てんちかねのかみ)一心に願(ねがえ)おかげは和賀心(わがこころ)にあり、今月今日でたのめい」を唱えつつ、日々神仏を敬う母の混然雑居いかにも素朴な信心は大きく西村に「神仏」の「手広いありがたさ」を伝えたのではあるまいか。何しろ実家での18年間、この空気の中にいたのだから。本稿(1)で触れた西村の言「哲学は人を締めつけ、宗教は人を自由にする」がここらにある気がする。

加えて母は父と正反対、外交的社交的でエネルギッシュであった。
幼い頃から母に連れられ道頓堀の中座で松竹新喜劇を見物、こてこて大阪弁の漫才(ダイマル・ラケットやラッパら)のギャグにお笑いセンスも磨いた。お堅いクラシック、難解現代音楽の敷居を下げる西村トークの原点である。
何より母の職場(区役所)の泊りがけ慰安旅行に同伴、その宴会での男たち、一升瓶抱えて歌うは踊るはの狂態、芸者との野球拳に猥歌踊りのどんちゃん騒ぎ。柔肌を米ぬかで洗ってもらう過保護坊やであった西村はその乱痴気騒ぎが楽しかったというから確かに「にぎやかな始まり」である。

『紫苑物語』婚礼の儀©林喜代種

筆者、先日『紫苑物語』録画を見て、冒頭「婚礼の儀」での乱痴気ぶりに、そういうことだったか、と膝を打った次第。合唱の「とうとうたらり あがりはたらり ちりやたらり あがりはとうとう」、うつろ姫の「もっともっと手数をかけて もっともっと」に「あいよかけよ へいさほらさ」(お唱えではないのだが)がなにやら浮かんでしまい、さらに「この世で あたしがしびれさえすれば すべての男はどうなってもいい」と傲然歌い放つ姫の衣下に首をつっこむ男どもに、お泊まり宴会を彷彿してしまったのである。
2019年2月、新国立劇場での初演評に、

「女体の欲望の塊をそのまま猛らせる獰猛さに男たちが気狂い乱舞、婚礼宴会乱痴気騒ぎが繰り広げられる第1幕第1場。姫の裳裾に首を突っ込み「いい匂い〜」とくらくらする男たちを傲然と振り回し、挑発独唱カデンツァをケチャの喧騒が取り巻くその大渦エネルギー。これを冒頭に置いたことで、今回の勝負は決まったと見る。」

と書いたが、この宴会シーンは実に強烈だった。
こうまで露骨な卑猥(と筆者は感じた)を新国立劇場の新作初演舞台に上げるなど、なかなかの神経。この種の宴会に異和なく溶け込んでいたなら、母という方は開けっぴろげなかなりの傑物であると思う。

その大恩ある母は2012年95歳を迎える直前に亡くなるが、ギター協奏曲『天女散華』全4部の2部を書く最中でのことで、後半3、4部は母への葬送鎮魂と語っている。この年の7月、彼は2週間ほど北京に滞在、旧市街の小さな寺院劇場で京劇『天女散華』を観劇、触発されたそうだ。この中国古代伝説の由来は初期大乗仏教経典の一つ『維摩経』。維摩居士(在家の仏徒)の病を見舞いにブッダが弟子を遣わすのだが、そこに一人の天女が姿を現し、並みいる一同に花びらを撒くという幻想的シーン。天空からの花びらは煩悩の輩の体にはくっつき、煩悩を離れた菩薩たちからはこぼれ落ちるという話で、解脱とは何かを説く。京劇版は天女が花びらで世界を清める説話となっており、鳴り物はしゃんしゃん賑やかだし声も独特のきいきいで筆者はいささか苦手だが、雲上で天女が両袖を振り舞う艶やかさ、はらはら花びら散華の美しさは東洋世界の象徴的絵図である。

伝説の女形梅蘭芳(メイ・ランファン

西村は伝説の女形梅蘭芳(メイ・ランファン 1894~1961)に想いを馳せつつ、筆を進めた。
天女散華 (梅蘭芳の歌に合わせた動画)

第1部冒頭オーケストラ部分、pppたなびく薄雲に霞のようなヴェールをまとったヴィブラフォンやアルパが京劇とは別世界の繊細、弦グリッサンドの大波小波ウィ〜ンフィ〜ンは天女の袖の舞か。ドシャーンと打のfff一撃の後、チューブラー・ベルの残影から静かにギターソロが浮かび上がる。指先からひとひら、ひとひらと花びら舞い散る、まさにElegantemente。Vibr. T-b. Arp.などアルペジオの細かな往来とトレモロの波間をぬうGt.、地上と天上の協奏の第2部から第3部 Religiosoのゆったりした管弦の笙を思わせる響の河をFl.などが軽やかに横切って行く、そこに歌い合わせるGt.、ソロになってのトレモロは送り火のようにちらちら揺れ、4部コーダではつぶやくGt.にVibr. Pf. がそっと寄り添う。散華の中、静かに天空へと抱きとられてゆく音たち。
鈴木大介、東京シンフォニエッタによる初演で西村は泣いたというが、そんなエピソードを知らぬとも胸に響く美しい作品だ。

『天女散華』第1部15p

『天女散華』第3部終尾のギターソロ 64p

(『天女散華』第1部15p および 第3部終尾のギターソロ 64p)

空襲10ヶ月後の京橋駅

さて、西村の実家から1キロほどの場所にアジア最大の軍需工場大阪砲兵工廠があった。1945年3月から始まった8回にわたる大阪大空襲の最後8月14日午後の集中爆撃(京橋空襲)で壊滅、この時の予告空爆で跳ね飛んできた焼夷弾が家の屋根を突き破って穴を開けたそうで、子供の頃、その穴の痕跡を見た記憶があると言う。1トン爆弾4発落下で死傷者は800人ほど、両親はこの時、多数の死傷者の救助に駆けつけたが、死者の集積所は、夜、人体の油の燐火がぼんやり発光していたそうだ。*)
それからほぼ半世紀後、1991年『暁の音楽』(声明、雅楽とオーケストラのための)はその鎮魂慰霊を目的とする大阪永久平和祈念祭典からの依頼で書いたもの。この祭典は年毎に異なる宗派が受け持つがこの時は黄檗宗(禅宗)で、その法式や梵唄(Bonbai)が織り込まれた。黄檗宗は禅宗の中でも中国様式が色濃く、梵唄も『般若心経』を中国式発音(唐音)で読み、銅鑼や太鼓など鳴り物入りで節に従い唱えるとのことだが、本作については楽譜も音源もなく、筆者は現時点では確認できていない。本山黄檗山萬福寺(宇治)の明朝様式を思い浮かべつつ、その荘厳を想像するにとどまる。
なお、この砲兵工廠跡地は不発弾残滓により20年あまり放置されたが、やがてそこから鉄屑を回収売買するアパッチ族と呼ばれる人々がバラック集落を作り、昭和30年代には警官との応酬が始まる。西村が「遊びに行くな」と親に禁止されたのはおそらくそれゆえで、戦後生まれの子供たち(筆者もそうだ)には、そうした「近づいてはならぬ場所」が周囲にはあった。野っ原の防空壕跡や焼夷弾の欠片、露店先や駅前で恵みを請う傷痍軍人がまだ残っていた時代だったのだ。
「日没後はほとんど真っ暗で、異様な感じがした」、そこに大阪城公園を含む一大ビジネスパークができた頃、彼は藝大生になっている。当地に建つ住友生命いずみホールのいずみシンフォニエッタ大阪音楽監督に就任したのは2000年のことだ。

西村が語る鴫野。

「塗料のにおい、鉄の焼けるようなにおい、さびのにおい、そういうのがのべつ漂っていた。道に四方の運河の油臭い腐敗臭気が漂い、排気ガスを噴出するバスやトラックで家が揺れた。常に人や車が右往左往、ある種ダーティな曼荼羅みたいのがだーっと広がっているような風景でした。」*)
(『光の雅歌』13p他より)

西村家の元旦初詣は夜明け前のお勤め、お神酒から始まり、家を中心に東西南北の近隣9カ所の神社に詣で、各お社ほぼ50社の一つ一つに丁寧に手を合わせ拝む。帰宅は昼近く、再度礼拝でやっとお雑煮の膳を囲んだ。

「宗教的な心情は今に至る自分の作曲にも関わり続けているが、かくのごとくに、もの心つく頃から神仏に親しみ、お香の匂いに包まれたことは幸せだと思う。」(66p)

追記)
*) は西村氏より伝聞の一部を適宜引いた。本考の調査執筆にあたり、事実関連で不明な点は氏に直接お尋ねし、返信いただいている。ご教示の中での伝聞も織り込んでおり、今後もその形をとることとなろう。
筆者は作曲家論の対象となる方とはほとんど接触せずにきたが(三善晃対話本は別)理由あってのこと。が、今回は事実確認についてはご協力を願った。
また、氏より楽譜と音源を多数ご提供いただいた。行方定まらぬ路程へのご協力に、深く感謝申し上げる。

参考資料)
◆ CD:カメラータ・トウキョウ『天女散華』
http://www.camerata.co.jp/music/detail.php?serial=CMCD-28283
◆ 楽譜:全音『天女散華』
http://shop.zen-on.co.jp/p/900022
◆ 書籍
 『光の雅歌』 西村朗+沼野雄司 春秋社(2005)
 『音楽の生まれるとき〜作曲と演奏の現場』 井阪紘&西村朗 春秋社(2010)
 『曲がった家を作るわけ』 西村朗 春秋社(2013)

(2020/9/15)

西村朗 考・覚書(1)(2)