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評論|西村朗 考・覚書(2)鴫野〜原光景|丘山万里子

西村朗 考・覚書(2)鴫野〜原光景(前編)
Notes on  Akira Nishimura
(2)  Shigino

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

大阪住友生命いずみホールでの新作『12奏者と弦楽のための“ヴィカラーラ”』初演前日の午後、ホールから電車で2駅の鴫野に行った。駅からすぐのバス停鴫野駅前に、西村の実家「西村自転車店」があったという。やたらケバい高価買取『おたからや』店の隣、今は誰かの政務活動事務所がそれであった。『おたからや』店頭、芸人コロッケの黄金スーツに仰け反りつつ、黄色と赤の派手な2軒並びに思わず笑ってしまい、雨の中、通りがかりの人に不審な顔をされた。
西村の幼少期の景色はどんなだったのか。オペラ『紫苑物語』のあと、ふとそう思ったのだ。集大成という了解の仕方を、とどめる何かがあった。

筆者はかつて松村禎三論を書いた。松村は京都生まれだが、「京都は因循で、陰気なところで、西洋音楽は遅れているし、1日も早くこんなところとはおさらばだ」と三高卒業と同時、20歳で上京した。10歳で父、20歳で母を亡くし、多くの親戚の死により、お寺と法事と読経が染みつく陰湿な京都から「早く東京へ出てきて音楽の勉強をしたくてうずうずし、頭に去来するのはベートーヴェンとかゲーテとかヨーロッパの文化のことばかり」(1979サントリー音楽賞コンサートプログラムより対談「原光景を語る」水上勉・松村禎三)。
水上勉との出会いは松村を大きく変える。『霰』の芝居音楽担当の打ち合わせで、どんな音楽を、と問う松村に水上は「波の上を渡ってくる梵鐘のような音です」と答える。この時、松村の内に、長く心の隅に押し込めていた京都の土地、古い響きが忽然と呼び起こされたという。出来上がった曲を聞くや否や、水上は「やっぱり京都やなあ」とつぶやき、松村はそれを最上の褒め言葉と聞いた。『ピアノ協奏曲第1番』(1973)のご詠歌のモードはそこから汲み出されたもの。ちなみにオペラ『沈黙』(1993)で神の気配を感じた松村はキリスト者となって生涯を終えるが、それについてはいずれ触れよう。
あるいは三善晃。『レクイエム』(1972)から始まる部作の『詩篇』(1979)『響紋』(1984)、交響4部作(1995~1998)、さらにオペラ『遠い帆』(1999)に流れる「わらべうた」は、幼少期に聞いた母の故郷、木曽節からのルフランと晩年語った。木曽川の傍のその神社の境内で、木々が揺れ風わたり、筆者は確かにそのルフランを聞いたと思う。
音の原光景、原風景は、そこに立つことが可能なら、立ってみたい。

*   *   *

実家前であたりを見回すと、大通りを挟んで向こうに商店街のようなものがある。信号を渡り見上げると「南鴫野商店街」との大書きがありアーケードになっているではないか。西村が通った城東小学校は近くのはず。アーチ下、店灯が並ぶものの薄暗くさびれた風情、開いている店はわずか5、6軒、ビニール傘下校中学男子が2、3人歩くくらい。そんな中、店頭でたこ焼きを焼くおっちゃんが一人。客なんて来るんだろうか。
雨であればアーケードはありがたく、そのさびれ具合、左右に伸びる昭和の匂いを残す細い路地までこまごま覗きながら歩く。途中「さぼり」という名の喫茶があり、笑ってしまう。魚屋に乾物屋、そうね、昔はみんなこういう風に小さな店が軒を並べてた。やや感傷ののち短いアーケードは終わり、出たところに城東幼稚園を発見、これは絶対近くに小学校あり、と確信、通りすがりのおばちゃんに聞く。間違いなく西村はここを毎日通学した、と思う。
すぐに見つかった。立派な小学校だ。創立百周年記念の石碑に「校訓」とあり「協同・創造・責任」の文字が刻まれる。なかなかのものだ。あたりをふらつくものの、このまま帰るのが惜しく、ダメもとと玄関ベルを鳴らしてみる。
大阪は付属池田小学校事件ゆえか門扉閉鎖、警備厳重でインタホン。突然訪問の趣旨を伝えると職員室で校長先生が迎えてくれ校内を案内してくださった。

小学校5年の西村が音楽に目覚めたのはこの学校の放送室。東京オリンピック開催の年(1964)だ。給食が嫌で新設の放送部員となった彼は学校保有のSP、LPレコードの選曲を任され、かたっぱしから試聴、中でもシューベルト『軍隊行進曲』(1818) が気に入り、毎日のようにかけた。

「あるときレコードをかけながら、校庭をぼんやり眺めていると、だれもいなくて、いい天気で、光がきらめいている。で、中間部のところを聴いていると、何か不思議な気持ちになってきたんですよ。何かがやってくるような感じというか、こう吸い寄せられるというか、胸がきゅーんとなるような息苦しさみたいな感覚ですね。この箇所へ差しかかると、いつもそう感じる。音楽というのは不思議な力を持っているんだな、と朧気ながら思った。それは、僕にとっての一種の神秘体験と言ってもいいようなもので、音楽というものに全身で震えるように引き寄せられた瞬間でした。」(『光の雅歌』p.014)

「この箇所」とは中間、トリオ部分だ。
改めて聴いて、もしくは弾いてみて欲しい。シューベルトの魔力がここに潜むことに、これを弾いた子供の頃の筆者は気づきもしなかった。
今はわかる。

シューベルト21歳、すでに交響曲を6曲書いており、滞在先のツェレス(現スロヴァキア)でのピアノ連弾作品だ。そもそも行進曲とはオスマントルコが西欧攻略時に用いた軍楽で、2度のウィーン包囲(1529、1683)で打ち鳴らされる勇壮な鼓笛のマーチが市民を震え上がらせもしたが、影響も与えた。ウィーンの香りにはカフェとともにアラブ文化、さらにロマ文化(ルーマニア、ハンガリー)の響きも混じる。その街の位置を見れば、行けば、ウィーンなるものがどれほど異国性の交路混交にあり、「異種」への憧れ(誘惑)に満ちたものであったかが知れる。筆者が住んだ家のおじいちゃんはチェコ(当時は社会主義国)への筆者の旅に、あっちの女の黒髪の誘惑に気をつけろ、と目配せしたものだ(筆者は女だし、黒髪だが)。
つまり、憧れや誘惑とは常に危うさ、妖しさ、怪しさの匂いがする。それこそが胸を掻き立てる何かであり「神秘」である、と言ってしまうのはいささか気が早すぎようか。
ともあれ、ンタララッタと鳴る小太鼓に足取り勇み立つわけだが、そこに挟まれるメロディーにはかすかな哀愁の色があり、トリオに入る直前きっぱり打ち鳴らされる盛大なD-dur主和音、一呼吸のちG-durのややなだらかな調べ、g-mollへの流れは、まさに「いざない」への匂いがする。シューベルトとは、執拗な楽句の繰り返し、光と翳の不可思議な交錯、その隙間に魂の深淵をのぞかせるそら恐ろしい魔界音楽の人であると筆者が知るのは大人になってから。
思えば吉田秀和の『永遠の故郷』4部作の最後はシューベルトの『菩提樹』(2011/集英社)で閉じられ(トーマス・マン『魔の山』で最後にカストルプが歌うそれ)、遠山一行は晩年、シューベルトを書きたい、と語り、筆者はそれを切望したものだ。
10歳の西村が「全身で震えるように引き寄せられた」、そう、惹きつけられたのでなく、「引き寄せられた」のは間違いなくこのいざない、この魔力(それを「神秘体験」と呼ぶのが彼らしい)であったと筆者は思う。
言いつのるなら、ここにある異国性の中のわずかなロマ性(ツェレスの地とともに)が、北インド、ラジャスターンを源とする放浪の民の響き(装飾音に感じる)であれば、西村の辿る道は・・・。

もう一つ、「神秘体験」についての言葉を拾っておく。「いい天気で、光がきらめいている」。
西村の作品には「光」がついたものが多い。筆者の手元にある作品目録(2014/全音楽譜出版社)を見てみると以下だ。
管弦楽作品67作中『永遠なる混沌の光の中へ』(90)から『光の環』(91)『光の鏡』(92)『光のマントラ』(93)『光の鳥』(94)『メロスの光背』『光の雅歌』(95)『残光』(98)『光と影の旋律』(2000)『秘密〜マニの光』(01)『内なる光』(03)まで10 作。
室内楽88作中『光の蜜』(90)から『光の波』(92)『蓮華の光』(96)『静寂と光』(97)『ヘイロウス(光輪)』『オパール光のソナタ』(98)『夜光』(99)『瑠璃光の庭』(2005)『光の雫』(07)まで9作。
合唱は36作中『寂光哀歌』(92)1作。
邦楽器22作中『赤光』(92)『夢幻の光』(2004)2作。
つまり、1990年から10年は毎年、2000年以降は07年まで5作に「光」を産出していたのだから、かなりの「光フェチ」と言ってもよかろう。フェチなどの言葉を使うのは、彼の音楽に強く生理的なものを感じるからで、それは主情の作曲家八村義夫の「私(わたくし)音楽」の生理情動に近い。拙作『八村義夫論〜錯乱の論理』に記した草津音楽祭の八村個展(1981)、公開講座での彼の言葉を紹介しておく。

「ここのヴァイオリンは、演奏が非常に難しい。そうすると奏者は、苦しくて顔をゆがめる。そこにサディスティックな効果、視覚的興奮が与えられるわけです。」(『鬩ぎ合うもの超えゆくもの』深夜叢書社、以下出典同じ)

そうして八村は弓を手に、ひくひくと頬を震わせわななくように楽器を引っ掻いた。
西村はその種の興奮錯乱ではないが、通底する何かがあろう。
八村はまた、『クラスター小論』で、

「私は、どんな作曲家でも、音にさわっているという気持ちーー音への触感ーーなしに作曲することは不可能なことだと思う。そして、作曲家は、クラスターを処理しているとき、クラスターしている音程の幅が広いほど、そうとうてごわく抵抗していて、ひきずりまわさねば動かない粘体をかかえて、それを前方へと押しうごかしていくような気持ちを、実感として持つだろうと思う。」

八村らしい独特の表現だが、西村もまたこの気質—音への触感—を強く持つと思える。

つまり西村の「光」は、タイトルばかりでなくその作品群の背後に常に感取される、そのことだ。そしてそれは、「いい天気」の光なのだ。前述シューベルトの「光と翳」とも異なるような、そうでないような。だからこそ筆者はそこにロマの源インドを持ち出した。

「いい天気で、光がきらめいている」「胸がきゅーんとなるような息苦しさ」。
10歳のこの神秘体験が西村の音楽の出立点であることは、彼もあちこちで述べているが、それはなんだったか。

放送室は今は給食室になっており、音楽室ならあると言う。せっかくなので見せていただいた。かなり広い教室で前面に、どこにでもある「楽聖」肖像画がずらり並んでいた。
「はあ、西村さんもこれを見てたんでしょうか。」と、出てきてくれた音楽の先生に聞いたら「いえ、音楽室ができたのは後からですから、その方が在校の頃はないでしょう。」
もちろん、ベートーヴェン、シューベルトもおり、末尾に滝廉太郎と山田耕筰が。ここにいつの日か西村朗が並ぶやも。

雨の校庭に光はきらめかなかったが、授業中の校舎は静かで、小学校に足を踏み入れるなんて何十年ぶりか、と思う。
西村は放課後、裏手の八劔神社でよく遊んだという。校長先生が、学校の塀をぐるっと回るとある、と教えてくださった。
神社はさほど大きなものではないが、子供が遊ぶには丁度良い広さか。
室町の応永3年(1396)にまず祠が立ち、大正4年に天王田村と永田村村の氏神2神を合祀、その後平成12年に瑞垣門、瑞垣、御饌殿(みけどの)、拝殿を新築ゆえ、西村が遊んだ頃の面影は鳥居あたり樹木の茂る古ぼけた一隅にしか残っていまい。拝殿もピカピカのガラス張りであった。
災難除け神社として知られ、本社には八劔大明神(やつるぎだいみょうじん)、武速須佐雄大神(たけはやすさのおのおおかみ)、罔象女大神(みづはのめのおおかみ)の3神が鎮座。
こころ惹かれたのは祠の成り立ちで、拾っておく。
鴫野村の民がある夜、夢を見る。一人の老翁が現れ、「吾はこれ熱田の神なり。跡をこの地に垂れんと欲す。明日汝等出でて吾を淀川の河辺に迎うべし」と告げた。翌日村人十数人を呼んでことの次第を語ったところ、自分も同じ夢を見たと云う者が十人余に及んだ。そこで一同、各々衣服を改めて河辺に出迎えると、果たして一ぴきの小蛇が河中に現れ、まっすぐこちらに向って来て、 やがて岸に上がった。その様の悠々泰然たるを見て、村人は畏敬に打たれ一同相従って行くと、小蛇は川を越え堤を経て鴫野村に入った。その小蛇の留まったところに祠を建てたというのだ。
蛇とは古代より、聖なる動物である。古代エジプトではコブラが主権王権神性の象徴、ギリシア神話では名医アスクレーピオスの杖が医学を(毒を持って毒を制すゆえの聖性)、インドでのナーガ(蛇神)は水・大地の豊穣を、中国ではナーガが龍神となる。そういえばインド対ギリシアの問答『ミリンダ王の問い』(前2世紀後半)の僧の名もナーガセーナ(漢訳・竜軍)。日本でも縄文土器に現れており、交尾の長さ(8,9時間)や脱皮再生から多産再生生命力を象徴、これが「注連縄」となり日本の社を飾るのである。
八劔神社には蛇でなく白鳥との別伝もあるが、いや、ここは蛇(竜)だろう。
西村は自分の響きを「注連縄」とか「床屋のねじりん棒」と語っている。

*   *   *

帰りもまたアーケードを歩く。
例のたこ焼き屋に自転車で近所のおばちゃんが買いに来ているのを目撃したから。
人通りのない中、せっせ焼き続けるおっちゃんに「半分だけいただけますか」と恐る恐る言うと、中からおばちゃんが出てきて「5個ならいいよ、150円。うちのは何もつけないでね」。よそ者へのたこ焼き指導だ。
鴫野駅のプラットフォーム、電車待ちのベンチでひそかに熱々を全部平らげた。うまかった。

原光景は立ってみるものだ。
全てが、やはり、ここにあった。
ごった煮の、雑然たる。
伸び、絡み合う地下根・地脈、原水・水脈、そして光。

(続く)

(2020/8/15)