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評論|西村朗 考・覚書(1)高畑への道|丘山万里子

西村朗 考・覚書(1)高畑への道
Notes on  Akira Nishimura
(1) Road to Shin-Yakushiji  Temple

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)
(堂内撮影不可につき、本尊は寺のパンフレット、その他は HPから転用)

高畑(たかばたけ)の道とは、新薬師寺への曲がりくねった細い坂道のことだ。思うところあり7月初め、住友生命いずみホールでの西村朗新作初演『12奏者と弦楽のための“ヴィカラーラ”』を聴こうと京都大阪数日滞在の折、空いた時間にこの古寺を訪れた。その前夜、たまたま見つけた古本、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』の《新薬師寺》なぞを読んだのは益か害か。
「新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。」との冒頭についつい頁を繰ったのだが、数年後の訪れで「注意してみればみるほどだんだん感心しなくなるようにできあがっているようだ」となり、築地の破れのひまより秋草のしずかに揺らぐさまなど期待したのにおむつが乾してあるだの、民家や道筋みるほどに索然とするから見ないほうがいい、「いっそ人間もおらず、伽藍もさだかにみえぬ夜中に、こっそりしのび訪れたほうがまし」。最後を『徒然草』の「神仏にも、人の詣でぬ日、夜まゐりたる、よし」を引いて締めるあたり、亀井とはこういう人であったっけ(昔読んだはずなのに)、と唖然とした。亀井、自分の不信心がこの「変心」のゆえとは言うが。
続く《薬師信仰について》で、薬師如来は衆生の病気平癒を本願とする現世利益の観念を伴うゆえ、眼病平癒祈念にこの寺の如来の眼は大きく創られており「まるで異人のようだ。半眼に宿る仏眼の深さはない」、霊験を人為誇張は信心のゆかしさとはいえないと切り捨てる。周囲を取り巻く12神将群像は「品くだれるもの」で「経文の粗暴な解釈、渡来文化の拙劣な模写、あるいは小乗仏教によくみられる民心へのコケおどし」「信仰は健全な祈りとあこがれを失って、ようやく狂騒的な迷信に堕しはじめた兆候」「要するに金堂本尊と12神将群像は私にはグロテスクに思われる。」(昭和17年冬)だと。

西村の新作はこの古寺に十数年前に詣で、その感銘から着想したものだ。曰く。

「薄暗い堂内中央の大きな円形台座の中央にふくよかな薬師如来(本尊・国宝)が座し、それを外敵から保護する等身大の12神将が円周上で外側を睨み威嚇するようなポーズで立ち並んでいる。見るものを釘づけにする超現実的で凄絶な光景である。十数年前、偶然にも人の気配がなく、ただ一人初めてこの堂内に立ち入った時、まさに心身は震え、凍りついた時間の中での幻聴を体験。何か恐ろしいほどに激しく骨身に響くものを感じた。」

さらに薬師如来は人身健康の保護者、かつ、生きとし生ける者の命や魂そのものの象徴、化身であるから、8世紀の人々がこの仏にどれほど全身全霊で祈りすがったかを思うと
「その極限的な切実さに、生きるということの意味を新たに痛感し、長く合掌した。その合掌の記憶が、時を経てこの作曲となったと言えるかもしれない。」

筆者はこの文面を東京ですでに読んでいた(プログラム掲載と同文)。
つまり、西村の「超現実的で凄絶な光景」と亀井の「コケおどし」の両者が頭にごっちゃになったところで、古寺に向かったのである。
亀井が「見ないほうがいい」と言うなら私は歩かん、と門前までタクシーを乗り付けた。暑かったし。コロナ時であるから誰もいない。門扉は自分で開け、鹿が入るからちゃんと閉めよの立札に従い、重い木柵をよっこらしょ。暗い堂内には堂守の僧一人、何か書いている。

なるほど如来の眼はぱっちり大きい。左手に薬壷を持つ。12神将はそれぞれの武器を手に様々な威嚇ポーズで仏をぐるり取り巻く。西村がタイトルとした「VIKARALA」(梵語)すなわち毘羯羅(ビギャラ)は右手に三鈷杵(さんこしょ)を振りあげている。剣、矢、弓、斧、槍、宝棒、払子、鉾などの中で、この三鈷杵は「煩悩を打ち砕く悟りの知恵の象徴」とされる。ほう、と筆者は思った。
信仰も信心も皆無の筆者であれば、西村と亀井の感受とは遠く、釘付けにもされず心身震えず、下品ともコケおどしとも感じない。
かなり長いこと堂内に置かれた椅子に座し、円柱と梁の組む力強く簡素な空間の美と漏れる光を仰ぎつつぼんやりしていたのだが、たまに訪れる人も長居するわけでなく、時は静かに過ぎてゆくのであった。

この古寺は、聖武天皇の眼病平癒を願って光明皇后が創建(747)した。薬師如来は衆生の病気平癒を本願とし、12の大願がある(カッコ内大意)。

1.光明普照(自らの光で三千世界を照らし、あまねく衆生を悟りに導く)
2.随意成弁(仏教七宝の一つである瑠璃の光を通じて仏性を目覚めさせる)
3.施無尽仏(仏性を持つ者たちが悟りを得るために欲する、あらゆる物品を施す)
4.安立大乗(世の外道を正し、衆生を仏道へと導く)
5.具戒清浄(戒律を破ってしまった者をも戒律を守れるよう援ける)
6.諸根具足(生まれつきの障碍・病気・身体的苦痛を癒す)
7.除病安楽(困窮や苦悩を除き払えるよう援ける)
8.転女得仏(成仏するために男性への転生を望む女性を援ける)
9.安立正見(一切の精神的痛や煩悩を浄化できるよう援ける)
10.除難解脱(重圧に苦しむ衆生が解き放たれるべく援ける)
11.飽食安楽(著しい餓えと渇きに晒された衆生の苦しみを取り除く)
12.美衣満足(困窮して寒さや虫刺されに悩まされる衆生に衣類を施す)

筆者は事前に寺の HPで知り(曼荼羅図も掲載)、「差別」「ジェンダー」「貧困」といったことごとへの言及に、昔も今も問題は変わらないのであるな、と思った。堂内にそのような願いの文言や絵図は見当たらず、人がいないのを良い事に、堂守に聞いてみた。
彼は分厚い『薬師瑠璃光七佛本願功徳経巻上下』(漢訳)を持ってきて、わからんでしょうが、という顔で置いていった。筆者、多少は経典を読んだことがあるので目が引っかかるところは順次眺めていったのである。
如来御真言に「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」とあったが、この真言(マントラ・呪文)は堂内にも掲示されていた。
せっかくなので筆者はその真言のオンコロコロを口中に転がしながら、もう一度ゆっくり一巡、それぞれのお顔を確かめた後、ビギャラの隣の摩虎羅(マコラ)が一番気に入ったな、などと思い、小さな香薬師堂へと向かったのだった。

帰りは高畑の道を歩き下った。戦後生まれの筆者にしてみれば、十分に味わい深い道であったと思う。鹿も出たし(道案内板に近寄ったら陰からのそっと出てきて、思わず悲鳴をあげそうになった)。

さて、西村の新作本番。
12奏者が12神将ではあるのだが、固定役割はないとのこと。全5部、約22分。
打、チェレスタ、ピアノ、弦楽による導入(Ⅰ)は密かなざわめきのようであり、堂内にそこはかとなく浮沈する衆生の唱えるオンコロコロのような・・・気もしなくはないのだが、すぐとそんな邪念は消えた。音は、音だ。空間の間取り配列の清冽、音色選択の巧み。と感受につれ、やはり御堂の柱、梁の空間設計が眼前に浮かんでくるではないか。弦のグリッサンド、大太鼓の打ち込みが、虚空を穿つ。(Ⅱ)はオーボエソロから管楽器主体で豊かな響きがうねうねと帯のように幅と広がりをもって流れる。このあたりから筆者、足元に堂内円陣、神将らの何かが動く気配にとらわれる。(Ⅲ)は弦楽合奏へロフォニー、コントラバスの高い声音がひゅうとよぎる。三鈷杵が動いた!(Ⅳ)スケルツォはいかにもらしい軽み弾み刻みから、終盤、各神将筋骨隆々にたたみかけるその切迫。(V)のハープソロは紫雲たなびく天女の舞か、種々の楽想、多彩な響が宙を交錯、とまあ、もはやずっぽり邪念どころか我が幻影に惑い切り、やがて静謐半眼〜瞑目溶暗に自分も溶けてしまったのである。随所に多用の執拗トレモロ効果と累積クレッシェンド圧。この西村トレモロ、西村クレッシェンドの独特の人心陥れるなんたる危うさ。

訪れねば、見えぬ幻影であったろう。
聴かねば、見えぬ幻影であったろう。
亀井の言葉など、何ほどでもない。
ただ音が、別の異界を開いた。

それはなんだったか。
もとより西村の「幻聴」「長い合掌」云々は彼の心象であり、筆者のものではない。
それゆえ、だ。

如来とは悟りを完成した仏の異名、大乗仏教では「真如(真理)より来生するもの」の意で、真如から来て(真理の体現者として)衆生を教え導く活動をする仏のこと。薬師如来は上記のごとく12大願を立て(仏が衆生を救おうと立てた誓願)、東方瑠璃光浄土からやってきた。ちなみに阿弥陀如来は48願西方極楽浄土からで、こちらの方が極楽浄土、願いも多く総花的ゆえ仏としての人気も格も高いなどいう人もいるがいかがなものか。
とにかく、筆者がこの新作の「音」に感取したのは、これら12の願いがぐるぐる旋回しつつ発する瑠璃光音波であった気がする。それはざわわ「風」立ち音立つ何か、1300年の時層を震わすかすかな衆生のつぶやきに思われた。

と、かなり話が危なくなってきたので、今回はここらで止める。
西村といえばヘテロフォニー、アジア、密教世界、めくるめく色とりどり、理に走らず、常に衆生(聴衆)のツボ(大阪人的ボケとツッコミと筆者は呼ぶ)を押さえ、冴えたる職人技の作品をうち揃えてきた作曲家。
昨冬オペラ『紫苑物語』はその集大成と言われ(だろうか?)、さらにこの5月には「Music Tomorrow」で新作『華開世界』(道元『正法眼蔵』華開世界起より読み替え)発表のはずであった。
このアクロバティックな芸域、筆者はながらく傍観であったのだが(『紫苑物語』は作品評とせず)、「Music Tomorrow」での 細川俊夫『渦』と新作『華開世界』の対峙に気持ちが動いていた。顰蹙恐れず極端化するなら、細川の墨絵・わびさび・禁欲内向路線と西村の曼荼羅・雑食・享楽外向路線に何が見えるか。仏教の小乗大乗をここにかぶせてもよい。
西村は沼野雄司との対話本(『光の雅歌』春秋社/2005)で「哲学は人を締めつけ、宗教は人を自由にする」(p.165)と言っている。
気になるのはそのあたり。
『華開世界』は道元禅師、まさに日本の宗教・哲学の孤絶大伽藍だ。
その初演がコロナで流れ、新薬師寺へと筆者を誘ったのである。

なお本考、何年かかるかわらないゆえ、まず覚書として折々に書き留める心算。

(2020/7/15)

追補)『12奏者と弦楽のための“ヴィカラーラ”』はコロナ禍にあって書かれた。西村に新薬師寺が想起されたのは自然だが、筆者も含め全ての享受者(演奏者も含む)もまたその中にあった特殊に、一期一会の邂逅を思う。