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評論|西村朗 考・覚書(4)寂光院にて〜『寂光哀歌』|丘山万里子

西村朗 考・覚書(4)寂光院にて〜『寂光哀歌』
Notes on Akira Nishimura (4) Jakkoin

Text & Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

小学5年のシューベルト『軍隊行進曲』ののち、ベートーヴェン『第九』、ドヴォルザーク『新世界』と西村少年は出会いを重ね、スコアを読みつつ「いいなあ、オーケストラを思う存分に繰って、こんな曲が作れる作曲家になりたい」と「家にあるオルガンと縦笛とハーモニカのための交響曲の作曲に邁進した」。(『曲がった家を作るわけ』53,54p)
頃はちょうど東京オリンピック(1964)、有色人種国での初の開催で日本中が盛り上がっていたのだが、少年はそれより作曲に心奪われ、さらに裏手の工場移転に伴い自宅が増築され天井も高く広くなったことで、いよいよ大志が膨らんだとのこと。*
オリンピックといえば、開会式『オリンピック序曲』は團伊玖磨が担当、天皇皇后を迎える際には黛敏郎の電子音楽『オリンピック・カンパノロジー』が流れ、清水脩や小倉朗の『オリンピック東京大会讃歌』が聖火点火・消火時に歌われるなど、作曲家も大活躍であった。とりわけ注目されたのが黛の電子音楽。1958年『涅槃交響曲』で梵鐘を用い、すでに「東洋への回帰」路線であった彼は、各地の寺の名鐘10数種類を録音したものをNHK電子音楽スタジオで編集、これを国立競技場に響かせている。
日本の現代音楽の前衛たる黛の面目躍如たるものがあるが、西村少年がこれら前衛の音を実際に浴びるのはそれから6年後の1970年大阪万博、高校生の時だ。

ともかく、少年の音楽への熱は増すばかり、中学進学にあたり親に大望を打ち明けた彼は外界を知るべく大阪市立東中学に越境入学、環境を一新、作曲家への道(ピアノ、ソルフェージュ、和声法の学習)を歩き始める。同期の早熟天才君からウェーベルンその他の前衛を、さらに武満徹、三善晃、池辺晋一郎ら日本の現代邦人作曲家を知る。高校は大阪府立旭高校へ。東京藝大を目指しての本格的な学びが開始された。
その高2での話。

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この9月半ば、筆者は京都大原寂光院を訪ねた。
琵琶湖近くの「ながらの座・座」という庭園音楽サロンでの『庭と音楽2020』を見聞の前日に寄ったのである。
西村の『寂光哀歌』(無伴奏女声合唱のための/1992)は初演ではないが以前聴いた記憶がある。筆者はもともと女声高音が苦手なのだが(合唱部でsopを歌っていたのに)、薄靄の中をたなびく女声の美しさがいつになく身にしみ、あれ、これ西村作品か?と立ち止まる気持ちになったことを覚えている。行ってみようと思った。
三千院は好きで何度も訪れているが寂光院は高校の頃一度だけ。その時は三千院から回ったが、名の通り寂れた感じでひと気もなかった。
今もコロナ禍であれば、人影はぽつりぽつり、雨もよいの昼近くで、門への石段は湿気を帯び、緑がいっそう映えるものの、やはり寂寥が流れる。かつての訪れは秋であったから、紅葉にもっと彩られていたはずだけれど。

寂光院は天台宗の尼寺(594年建立)で、その第3代建礼門院は父平清盛に命ぜられ高倉天皇中宮となり安徳天皇を生んだ女性(にょしょう)。壇ノ浦で敗れ、8歳幼帝は祖母、平時子の胸に抱かれ「極楽浄土へお連れ申す」との言葉に小さな手を合わせ入水、生き残った彼女は30歳(1185)で入寺し真如覚比丘尼と称した。滅びた平家一門と我が子の菩提を弔いつつ、この寺で過ごし60歳近くに没したとされるが歿年は諸説ある。
門をくぐると正面に飛鳥様式の内陣、桃山様式の外陣を持つ小さな本堂があり、手前の庭園左手に汀の池。『平家物語』の語りそのままに、千年の姫小松(枯死したが姿をとどめ、太い注連縄が巻かれている)、汀の桜が池を囲む。
西村は『平家物語』灌頂巻から3首をテクストとした。侘びしさに昔を偲ぶ「女院出家」、寺をお忍びで訪れた後白河法皇の「大原御幸」、嘆きの日々に死を迎える「女院死去」の3場面から引かれている。

第1曲 ほととぎす:「女院出家」より建礼門院の和歌

郭公(ほととぎす)花たちばなの香をとめて なくはむかしの人や恋しき
(ほととぎすよ おまえが橘の香りを求めて鳴くのは いまはない 昔の人が恋しいのか)

第2曲 さくら:「大原御幸」より後白河法皇の和歌

池水にみぎわのさくら散りしきてなみの花こそさかりなれ
(水辺の桜が池に一面に散って今は波の花が盛りだ)

第3曲 憂き世に:「女院死去」より建礼門院の和歌

いざさらばなみだくらべむ郭公(ほととぎす)われもうき世にねをのぞみなく
(ほととぎすよ、それでは私と泣き比べをしましょう。つらい世を生きて望みもなく泣いてばかりいるのです)

高校生の西村がこの尼寺を知ったのは、その頃どっぷりはまった歌人吉井勇の一首に震えるほどに感動したからだ(吉井については合唱曲があるが、それはまた)。

うつし世の淋しさここにきはまりぬ寂光院の苔むせる庭

是非とも、と高校2年(1970)の冬休み年の瀬に訪れた。終点八瀬の手前で電車が信号停止。

すると無音。全くの静寂。おそろしいほどの静けさ。何も聴こえない。
大阪の喧騒に育ったこの身をはじめてシーンとした静寂が包んだ。その数分間の特別な感覚を今もはっきり記憶している。(同上235p)

それから2時間、地図を片手に高野川沿いに若狭街道を歩き続け、三千院を横目に曲がり細道を行き寂光院に至った。筆者は八瀬からはむろんバス、緩やかなうねうね坂道に遠い山並みで歩くにはかなりハード、さすが高2西村。大原からはみな歩きだがやはり人通りはなく、畦道のコスモスが秋風に揺れる。
そして鬱蒼にひんやり質素な佇まいの門前が現れる。

本堂の地蔵菩薩立像は、その外観の寂び具合に対し、白白ふっくりお顔に緑赤金の衣と驚くほど派手だ(2000年火災で損傷を鎌倉時代そのままに復元した鮮やかな彩色)。奥の門院は墨染衣(浄土宗)で座す。中近世、浄土・天台兼備の尼寺だったからだ。なるほど。日本の神仏、宗教のごちゃ混ぜ感、それが文化の時層、地層と改めて知る。そしてその時空の果てない拡がりも。
では、西村の音楽の時層、地層は。
庭を眺め、『諸行無常の鐘』を眺め、ぼんやりそう考える。

高2西村は地蔵を拝し、門院を拝し、欄干から目を落とす。

形容できぬ深い色調で広ごる苔。勇が歌った、淋しさここにきわまれる庭である。初めて味わう悲しく静かな感動があった。(同上236p)

帰りがけ、背にかかる尼僧の見送りの声の「雅な京大原の言葉のニュアンス、味わい」「言葉を超えた何かが心にしみ入って、そのひと声の記憶は今も瑞々しい。」

冬至の日暮れの早さを知りつつ、彼はさらに北に向かう。古知谷阿弥陀堂を目指して。霊性の強いこの寺に心惹かれてだが、閉門間近の黄昏道。引き返すことにしたが、しばし佇み、その先を見つめる。

暗く深い樹林に抱き込まれるように、道はさらにつづき、ゆるやかに曲がって夕闇の森にのみ込まれている。
その先はどこに通ずるのか。
もはや現実の道でなく、冥界への道かと思えた。
そこに踏み込み、歩みを進めれば、もう帰っては来れないような。
生と死の臨界域、トワイライト・ゾーンの道。(同上238p)

筆者はこの手の想念が苦手だ。ついて行けない。
西村の音楽でしばしば語られる「ゾーン」の類い、それを「冥界への道」と言われると、ああそうかい、それではね、と踵を返したくなる。
おそらくそれが、彼の音楽を終始遠ざけてきた一因でもあろう。
いや、音の話だから。
そうね、それなら余計な説明はいらない。
そんな感じだ。

それより、『寂光哀歌』のあの女声の美しさはどうだ。
正直、吉井の歌もさして良いとは思わぬ(わからぬ)筆者に、苔の色調や極まる淋しさなどの気分もなかった。
けれど独り、庭に座していると「何かが心にしみ入ってくる」ような合唱のうっすら烟り流れる声の回廊が、判然としない情緒にふと筆者を濡らす。
とりわけ第1曲《ほととぎす》の入りが好きだ。

《ほととぎす》3p

帰京し音を聴き、スコアを見ながら。
まずAの「ao」(aoはaとoの中間もしくは暗めのaという指定がある。aoの文字下にはスラーがかかるがそれはここで表記不可能)、それからB、G、Dと順次pp < mf > ppで1小節、声の帯を広げる。またいで最も高音Eがpで入り、E-F-Gと上行。この2小節5声、そのひとはけひとはけの色合いとかすかな波は、薄絹をそっと重ねるような朧な幻想美。女声でなければ描きえぬ世界。
情緒とは、こういう響きが生むのだろう。「ほととぎす」の句はそれからしばらくのち、高音DGを伴い姿を現す。言葉が入ると声の身振りは小さく大きく波打ち、「なくはむかしの人や恋しき」の前、accel.で一瞬不穏の色を浮かべる。「こいしき」の残影が尾をひいて溶ける。

《憂き世に》19p

《さくら》は3声、言葉とともにほぼ揃って動く。高音sop.はダイナミックですらある。終尾近く「さくら」が漣となって一気に寄せた後、凪いだ池面でふっと添えられるFisを保続音としたppのHZis、EFisに句点の閑けさ。
《憂き世に》4声に顕著なのは3連符の動きとmfでのアクセントによる輪の広げ方、そしてグリッサンド。第1曲での「ほととぎす」の句は、ここでは哀切な「いざさらば なみだくらべん」を受け一声でのみ歌われる。mfアクセントから「憂き世に」のあとaoテヌート7連符3連符揃ってのmf下降形が上行グリッサンドppに昇り「ねをのみぞ なく」に収斂、最後は4声AのaoにEがしめやかに沈んで行く。

庭に在って感じた情緒を、楽譜に探すつもりはない。
ただ、寂光院が纏う何かが、この薄絹の、薄靄の、哀を帯びた女声合唱の回廊には流れている。それを筆者は感触した、と振り返る。
そして、八瀬手前での停車が生んだ「無音」、古知谷阿弥陀堂への道に佇んでの「生と死の臨界域」を振り返る。
西村の新たな世界の手触り、全き静寂と臨界域との最初の接触が、ここにある。
それは何だったか、どのように彼のそれからへとつながるのか。
(だがシューベルトを忘れまい。それが「何か」の初発と思い)

前述したが同年は大阪万博が3〜9月に開催されており、むろん彼は何度も通い、ナマ武満やシュトックハウゼンを眼前に興奮しまくり、ますます作曲に熱中する日々。管弦楽曲『耿』(こう)を作曲、毎日コンクールに提出し第1次予選で落選したのもこの年の6月だ。
寂光院はその年の瀬。

大阪の実家「にぎやかな始まり」から一歩外へ出て、作曲家を夢見つつ祇園、大原をさまよう若い背に呼びかけた声は。
『寂光哀歌』はそれから20年ほどのちの作品だが、もう少しその青春の彷徨周辺をめぐってみたい。

終わりに、高2西村、敬愛する吉井勇に捧げた句を(これ以降、一首も吟じていないとか。同上239p)。

さびしさに耐えつ大原(おはら)に入りたれば陽は西山に傾きつ赤し

 

なお、寂光院の翌日鑑賞した「ながらの座・座」での諸井誠体験は、本稿の流れの中にあり筆者に強い印象を残した。「何か」の手触りの一つとしてお読みいただければと思う。

(2020/10/15)

註)*この一文は作曲者よりの伝聞
関連記事)ながらの座・座 庭と音楽2020|丘山万里子

参考資料)
◆CD:ビクターエンタテインメント
https://store-tsutaya.tsite.jp/item/sell_cd/4519239010477.html
◆楽譜:全音『寂光哀歌』
http://shop.zen-on.co.jp/p/719075
◆ 書籍
『曲がった家を作るわけ』 西村朗 春秋社(2013)
◆Youtube 『寂光哀歌』
https://www.youtube.com/watch?v=MrAZCjtxGnU

◎『西村朗 考・覚書』(1)(2)(3)