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東京交響楽団第677回定期演奏会 指揮:飯森範親|藤原聡

東京交響楽団第677回定期演奏会 指揮:飯森範親
Tokyo Symphony Orchestra Subscription Concert Series No.677

2020年1月25日 サントリーホール
2020/1/25 Suntory Hall
Text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>        →foreign language
指揮:飯森範親
ソプラノ:角田祐子
コンサートマスター:グレブ・ニキティン
東京交響楽団

<曲目>
ラッヘンマン:マルシュ・ファタール
アイネム:『ダントンの死』管弦楽組曲
リーム:道、リュシール(日本初演)
R.シュトラウス:家庭交響曲

 

飯森には現代ドイツ作品を紹介せねば、という使命感のようなものがあるのだろうか。2018年5月の同じく東響を指揮してのウド・ツィンマーマン『白いバラ』日本初演(前半にはヘンツェの『交響的侵略~マラトンの墓の上で』が演奏された)に次いでの非常に意欲的な今回のコンサートでは、前半において上に記した3曲が演奏された。中でも辛うじて有名なのはアイネム(この人はオーストリア人)作品であろうが、それとて滅多に演奏される曲ではない。最近はどの在京オケもいわゆる「有名名曲」のみならずこういう刺激的な演目を並べることが増えているのは大歓迎であり、わけても東響はその先鞭を付けた存在と思え、日本の同時代作品の初演や海外作品の日本初演を多く担って来たのではないか。飯森とのこの「共犯関係」は実に尊いものであろう。なお、リーム作品でソプラノ・ソロを担った角田祐子は上述の『白いバラ』公演においても出演している。

最初の曲名、『マルシュ・ファタール』、と聞いてピンと来た方はかなりの現代作品ファンであろうか。水戸芸術館で2017年6月に開催されたコンサート「ラッヘンマンの肖像」において原曲のピアノ版が世界初演され――その際は『マーチ・ファタール』とプログラムに記されていた――、それがかなりの物議を醸したからだ(ご興味のある方は筆者が執筆したこの日のレビューを参照されたい)。「あの」ラッヘンマンがいかにも陳腐で紋切り型、ありきたりとも思える過剰なまでにベタなロマン的語法で書いた行進曲。「異化」のラッヘンマンがこのような曲を書いたのだから、そこにはコンセプチュアルな意味があるのだろう――というような聴き方をしなくてもこれはコンスタティヴに捉えて「ヘンな」作品である。これ見よがしなファンファーレと機械的で陳腐なリズムの反復、過剰な響きと楽器法、リストの『愛の夢』やワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の引用…。つまり、ラッヘンマンにあってはテクストそれ自体のコンスタティヴな「キワモノ」感とそれが喚起する文字通りの「ゲテモノ」感、そしてそこから聴き手の脳裏に派生するパフォーマティヴな意味作用が二重化されている。こういう二重性は何もラッヘンマンに限った話でもないだろうが、とは言えパフォーマティヴ、という意味で言えばラッヘンマンが2016年~2018年になってこのようなものを書いたのだからそれを知らずにいることも出来まい。「行進曲そのものが異化の対象になっている」とプログラムで長木誠司氏は書くが、ラッヘンマンが自身に対して「異化」を施しているとも捉えられよう。ちなみに、行進曲とは畢竟軍楽であり、1935年生まれの作曲者にとっては幼少時の戦争(もっと言えばナチス・ドイツ)の記憶と結び付かない、と考える方が難しかろう。だから行進曲を異化するしかなかったのだ、と。たかだか8分の曲ながら、いろんなことを考えざるを得ない。なお、オケ版は先述のピアノ版と異なり「最後の方にあたかも行進曲を流すレコードの針が飛んだかのような、あるいは行進機械ないし機械的行進が壊れたかのような繰り返し場面がある」(長木氏)。ここで飯森はおもむろに指揮台及びステージから降りて客席に腰掛けすらし、頃合を見て再度登壇。最後に天井に向けて吹き戻しを吹いて幕。客席はそこそこ湧いたけれど、プレトークでのネタバレ的な発言がなければ聴衆も虚を突かれてもっとざわめいたのではないかな。

続けて演奏された2曲目と3曲目は双方ゲオルク・ビュヒナーの戯曲『ダントンの死』をテクストとする。大まかに言って、フランス革命期においてその立役者であるダントンが宿敵であるロベスピエールによって裁判にかけられたのち処刑されるという内容であり、本戯曲において描かれる人民のファナティックな熱狂と狂気が、アイネム作品においては戦時中に経験したであろうファシズムへ、そしてリーム作品においてもアイネムを踏襲する形で2011年の作曲時における世界の排他主義的傾向に対する警告と憂慮を表明した作品であると捉えられよう。アイネム作品は相当に「分かりやすい」。晦渋さのない明確な旋律とリズム、各楽器の音色的な効果を最大化したような多彩な響き、同時代のクルシェネクやヒンデミット、あるいはストラヴィンスキーを連想させるジャズ的なイディオムや変拍子の使用。前衛的とは言えないが、しかし保守的と言うほど古めかしくもない。組曲ゆえ全曲の中から4部・15分程度にまとめていることもあり(管弦楽のみ)、これをもって音楽のみで具体的にオペラの内容をフォローできるものではないが、作品としてはなかなかの佳作とは言えよう。飯森の演奏もそれぞれの部分が効果的なコントラストの元に演奏されて適切だったのではないか。

次のリーム作品――ダントンの同僚であるカミーユ・デムーランの妻リュシールが夫の死刑を見て狂気に陥る様が描かれている――は声楽付ということもあるが、その音楽は表現主義的な切迫感及びオペラティックな表出力に富んでアイネムより刺激に満ちる。この作曲家の作品は例えば『ヘルダーリン断章』などにも顕著に表れているように声の扱いが多彩で意表を突き巧みであり、それはこの『道、リュシール』においても容易に確認できよう。角田の歌唱はある時は密やかに、そしてまたある時にはほとんど絶叫という具合にその表現力の多彩さを遺憾なく発揮。テクストの意味内容に伴う多様なニュアンスを明晰なディクションでほぼ完璧に歌い切る力量に感嘆しきり。そもそもテクストが一筋縄でいく代物ではない。一見精神的錯乱の兆候を垣間見せるようなものでありながら、そこには一貫して冷徹に自己を客観視しているかのような歌い口が要求されているように思う。これをはっきり表しているのは最後の「Es lebe der König」(国王万歳!)というアイロニカルな歌詞であり(ff??/pp?? という指示があるという)、これをどう歌うかはなかなかに至難の業という気がするけれど、角田はほとんど両義的なニュアンスを包み込んで歌にした。ここだけを取っても大変素晴らしい。先に記せば、本日の白眉はこの曲と演奏。

休憩を挟んではおなじみ(?)R.シュトラウス『家庭交響曲』。前半が先述した曲であったから、ここにこの曲が置かれるとこれも異化作用がもたらされて一味違う聴取となった気がするが、とは言え自意識の塊であるR.シュトラウス。そもそも自身の家庭の取るに足りない些事を大掛かりな作曲技法で大風呂敷を広げ約40分に渡って開陳する作曲者である。これもまた自己へのシニカルな視線の賜物であり、そうなると前半における異化、洗練された技法に基づく描かれる対象との距離感と批評性といった側面が抽出され、これもまた前後半で見事にリンクしているとも読める。もっと言えば、前半でのキータームである「戦争・革命」=国という大きな共同体における大儀(=正義)の根本は「家族」という最小単位の社会においての庇護への渇望にあるとも言える(いささか牽強付会だが)。それにこの作曲家だって、晩年だとは言え第二次世界大戦で大いに苦汁を飲まされたではないか。そんなこんなで、一見なぜ後半に『家庭交響曲』? と思ってもちょっと考えるとその繋がりは大いに、ある。演奏についても相当に良質で、何よりホルンの好調が演奏を聴き映えあるものにしており、かつ飯森による錯綜する声部抽出と整理の卓越でこの「やかましい」(失礼)曲が大いに見通しのよいものとして響いていたのがよい(そこそこの回数接している同曲の実演でここまで整理されていた演奏は初めてである)。美しく透明な音を響かせる東響も場合によっては線の細さを感じさせていたが、この日は誠に図太い音で気を吐く。

最後に。今後も飯森&東響にはこのように「攻めた」プログラミングによるコンサートをどんどん開催して頂きたい。

関連評:ラッヘンマンの肖像|齋藤俊夫

(2020/2/15)


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<players>
Conductor: Norichika Iimori
Soprano: Yuko Kakuta
Concert master: Gleb Nikitin
Tokyo Symphony Orchestra

<pieces>
H.Lachenmann : Marche fatale
G.v.Einem : “Dantons Tod” Orchestersuite op.6a
W.Rihm : “Eine Strasse, Lucile” for Soprano and Orchestra
R.Strauss : Sinfonia domestica, op.53