東京都交響楽団第1045回定期演奏会Aシリーズ|齋藤俊夫
東京都交響楽団第1045回定期演奏会Aシリーズ
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra Subscription Concert No.1045 A Series
2026年6月13日 東京芸術劇場
2026/6/13 Tokyo Metropolitan Theatre
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by (C)Rikimaru Hotta/写真提供:東京都交響楽団
<演奏>
指揮・ヴァイオリン(*):ペッカ・クーシスト
コンサートマスター:水谷晃
<曲目>
オウティ・タルキアイネン:『生命の激流』(2023)(日本初演)
ハイドン:交響曲第45番 嬰ヘ短調 『告別』
エイノユハニ・ラウタヴァーラ:交響曲第7番『光の天使』(1995)
母国によって作曲家とその作品をアイデンティファイすることにはある種の危険なナショナリズムとオリエンタリズムの陥穽がある。例えばここ日本でも武満徹と伊福部昭と松平頼暁を同類項に入れることの愚かさは言うに及ばないであろう。だが、武満なくして細川俊夫や藤倉大は作品とその受容層(特に欧米でのそれ)はなかったであろうことも確かであろう。今回の指揮者ペッカ・クーシストと作曲家オウティ・タルキアイネン、そしてエイノユハニ・ラウタヴァーラというフィンランドの3人の音楽家をフィーチャーしての演奏会で、筆者はどうしてもフィンランドのかの巨匠、シベリウスの音楽を感じ続けながら音楽に浸っていた。それが自分のフィンランドに対するオクシデンタリズムに由来するのかもしれないとは思いつつも。
タルキアイネン『生命の激流』は作曲者自身の出産の経験から、その出産の様子を標題音楽化したという異色の作品。確かに赤ん坊を産むというのは生命の一大神秘であるし、人生の一大イベントではあるが、それがオーケストラ音楽になるとは……時代は変わった……のであろうか?
冒頭、銅鑼、バスドラム、ティンパニー、コントラバス、チューバといった最低音の楽器群のどよどよとした不穏な響きが現れる。そこにチェロが「誰か」の苦しげな歌を歌い始める。不穏などよどよがオーケストラ全体に広がっていき、なるほど、お産の苦しみなのだな、と妙に客観的に観察してしまう筆者。トランペットもまた「誰か」の歌をうたい、サイレンのような音がどこからか聴こえる(あるいは本当にサイレンを使っていたのかもしれない)。全楽器がうねり、吠えたける。苦しい。どよどよとうねりと吠える声が混ざり合っていき、さらにトゥッティで上昇して、奏者が声も挙げて頂点をなしたところで、響きが打って変わり、これまでのどよどよとうねりと吠える声が浄化されたかのような透明な音世界(ここで筆者はシベリウスの空を見た)が広がる。金管楽器が荘厳に歌い、全員で上昇していって彼方へと消え去る。
なるほど、出産か、と筆者は納得できたようで、自分が男だからだと思うが、どこか理解し感得し難い思いも抱いたことを正直に述べておきたい。
ハイドン『告別』、第1楽章、刻まれるリズム、ビートが明快でスピード感もあるのに音楽の流れが滑らか。実に快い。
第2楽章、牧歌調の調べが実にユーモラスでチャーミング、オーボエやホルンが可愛らしい。不協和音や短調といった均整に対しての「異物」が、均整が完璧だからこそ「味わい」を持って現れる。
第3楽章、ピアノとフォルテの対比の妙。また明と暗の絶妙な混じり合い。あるいは喜びと憂いの渾然一体。音楽の始源的な喜びがここにある。
第4楽章、プレストでの高速パッセージがつややかに、しかし凄みすら帯びて奏でられる。そこからアダージョでの「告別」、演奏者が一人、また一人と告別していくにつれて会場の照明が落とされていき、最後にはクーシストと1stヴァイオリン1人だけになって曲を締めくくり、照明が落ちて、了。最後まで残ったクーシストのストラディヴァリウスのとても細くて真っ直ぐな音色に驚きまた魅了されたことも付記しておきたい。
ラウタヴァーラ交響曲第7番『光の天使』第1楽章、静かに、厳かな面持ちで始まる。分散和音の上でヴァイオリンが透明な旋律を奏でる序盤の時点で筆者は光のイメージに捕らわれてしまった。細かな所を突けば管楽器の挿入句と旋律に、大きく捉えればオーケストラ全体の雰囲気にシベリウスを感じてしまう。管弦楽による協奏曲風に主役パートが受け渡され、最後は光が遠くに去っていく。
第2楽章、軽快! エキセントリックですらある。オーケストラの其処此処で竜巻のような上昇音型が奏でられたり、金管楽器や打楽器の強音が奏でられたりと忙しい。ラウタヴァーラによるオーケストラの多層構造が実に天才の為せる技。またクーシストの采配によりそれが再現される解像度が非常に高い。天使の怒りか、雷鳴のようなオーケストラの打撃音が3回現れて次楽章へ。
第3楽章、弦楽器がまたしても透明で清澄な大気を作り出す。そこに木管楽器がやはりシベリウスのような旋律を交互に受け渡しつつ奏でる。聴かせるべきパートを的確に浮かび上がらせ、かつ弦楽器の響きを殺さないクーシスト、流石だ。ヴァイオリンソロ、まさに「光の天使」。クレーの涙する天使をも想起させる。そして哀しげなオーケストラの響きが静まって、了。
第4楽章、金管楽器のファンファーレから弦楽器の雄大な和音と旋律。重々しい楽想がしっかりと大地に根を下ろし、つむじ風のように軽やかに吹きすさぶ楽想が空に舞う。この大地と空の楽想がどんどん広がっていき、広大無辺な自然に光が降り注ぐ情景が眼前に現れる。なんという大きな音楽だ! なんという美しい音楽だ! 光溢れる中、天使は彼方へと消え去って(ここはタルキアイネンと同じ感覚だと思った)全曲が了。

この評でもシベリウスと何回も言ってしまったが、どうしてもシベリウスを想起してしまった。澄んだ空気、雲間から降り注ぐ陽光、広がる緑の大地と河、青い海、筆者の中にあるこれら「フィンランドの情景」が「本物」なのかどうかはわからないが、少なくとも今回のフィンランドの作品に見た「フィンランドの情景」は「本物」のイメージだったと思いたい。シベリウス的でないフィンランドの現代音楽にも会ってみたいと思いつつ、今回は美しいフィンランドの情景に出会えたことを喜びたい。
(2026/7/15)
