ラッヘンマンの肖像|藤原聡

ラッヘンマンの肖像(監修:ヘルムート・ラッヘンマン)

2017年6月17日 水戸芸術館
Reviewed by 藤原聡( Satoshi Fujiwara)
Photos by 田澤 純/写真提供:水戸芸術館

【プレ・トーク】
「これまでの創作を振り返って」
 ヘルムート・ラッヘンマン(トーク)
 蔵原順子(通訳)

<演奏>
角田祐子(ソプラノ)
菅原幸子(ピアノ)
アルディッティ弦楽四重奏団
  アーヴィン・アルディッティ(第1ヴァイオリン)
  アショット・サルキシャン(第2ヴァイオリン)
  ラルフ・エーラース(ヴィオラ)
  ルーカス・フェルス(チェロ)

<曲目>
ヘルムート・ラッヘンマン:
 弦楽四重奏のための『グラン・トルソ』
  高音域のソプラノとピアノのための音楽『ゴット・ロスト』
  『マーチ・ファタール』(世界初演)
  弦楽四重奏曲第3番『グリド』

 

水戸芸術館で不定期ながら行なわれている第2次大戦後に活動を行なう作曲家の特集、今回はヘルムート・ラッヘンマンが取り上げられた。アルディッティSQの来日公演において他日は『グリド』の演奏も行なわれたのだが『グラン・トルソ』は水戸のみであり、さらに『ゴット・ロスト』と『マーチ・ファタール』(世界初演)が演奏される上にラッヘンマン自身も登場してのトーク、とあればこれは水戸まで駆けつけざるを得まい。早めの水戸入りで常磐線の事故には巻き込まれずに茨城でコーヒーと言えばサザコーヒー、の「徳川将軍珈琲」を美味しく頂いてからの余裕のホール入り。

個人的なことを若干。元々筆者がラッヘンマンの音楽に興味を持ったのは、昔「レコード芸術」誌において片山杜秀氏(昔は「素秀」と名乗られていた)が現代音楽のWERGOレーベルを面白おかしく紹介されていた文章だったと記憶する。そこでラッヘンマンについて、「楽器から楽器らしい音が全く出て来ない」「サド的に楽器をいたぶる」等の記述があり俄然興味が湧いたのだった。そしてWERGOやMONTAIGNE、COL LEGNO、KAIROSといったレーベルから発売されているラッヘンマン作品をかなりの量聴いてみた。実際、それは普通に聴いてみた分にはまともではない。鳴っているのかいないのかほとんど分からないような音、一体どうやって発せられているのか想像が付かない音、雑音に近いと言っても言い過ぎではない音…。では、何の目的があってラッヘンマンはこのような音楽を書いているのか。そういう興味が当然の如く浮かんで来た訳で、その辺り、ものの本やら解説には「異化効果」だなどと記載されているのだが、いかんせん実演でラッヘンマンの音楽に触れる機会がなく(当然ありはしたのだろうがこちらの怠慢で追わずにいた)、頭で「そういうものか」と思うレヴェルに留まっていた。以上、前置き。

さてコンサート。1曲目の『グラン・トルソ』から衝撃である。弓で楽器胴体の裏を素早くこする。弓の背で弦を力を入れて押さえつけることによるほとんどノコギリのような神経に障る(!)音、ネックの部分を叩く、などのオンパレードでおよそ普通の奏法と呼べるものは登場しない。西洋音楽のコンテクストに則った作品の1つの極北だろう。これらは音のみによる録音では単なる異音としか認識しにくいもので、聴き手も知的レヴェルで面白いと思うに留まってしまう気がするが、いざ実演に接してみるとそれはほとんど体感的にスッと理解されてくる(というのもおこがましいが)。作品中に導入される静寂の部分もまた強烈で、ホールの微細なノイズ成分(椅子の軋み、天井付近で発生する建物の歪み?音、聴衆の咳…)ですらラッヘンマン作品の一部として機能しているような錯覚に陥る瞬間も訪れる。

当日のラッヘンマンのトークでも語られていたことが随分助けになっていたが、「作曲をすることは新しい楽器を造ることで、新しい音響を作ること自体が目的なのではなく、同じ音響でも異なるコンテクストを創出すること」。ラッヘンマンは通常の楽器に通常ではないことをやらせて文脈をずらした。「新しい楽器」を造ったのだ。「妙な奏法で妙な音を出すのが面白い」から、では断じてない。それはあくまで手段であって目的ではない。そういう事が、前から2列目の中央に座り、ほとんど目の前にいるアルディッティSQの面々が奇天烈なアクションから放つ音たちを全身で浴びた筆者にもようやく腑に落ちて来た、と感じる。後は、そのずらされた文脈に何をどう聴くか=考えるかであるが、それはすぐれて聴き手を能動的にさせる。

2曲目ではソプラノ独唱とピアノによる『ゴット・ロスト』。タイトルは、ラッヘンマンが滞在していたベルリンの高等研究院に付属する宿泊施設のエレベーター内の貼り紙(「なくなった洗濯カゴを返して欲しい」云々)の引用だという。これを用いたことに大して意味はない、というよりもこのアクション自体にラッヘンマンの諧謔が表れていると思うのだが、このひたすら散文的で実用的な意味合いしか持たない貼り紙の文章は、本作で何とフェルナンド・ペソアとニーチェのテクストと並列的に扱われる(つまり、ここでもテクストそれ自体の文脈がずらされている)。そしてその音楽は、ソプラノ歌手に様々な技巧的挑戦を求めている。ほとんどベル・カント唱法かと言うほどの朗々とした発声による、しかし出て来る言葉が単語の音素分解による非=意味化への接近、歌手が口腔内の形を変化させることによる奇妙なバリエーションに富んだ声色の創出。ピアノの蓋の中へ頭を突っ込んで(!)歌うことによるピアノの弦との共鳴音。『グラン・トルソ』より幾らかは通常に近い方法で書かれている当作品だが、それでもやはり「ぶっ飛んでいる」ことに間違いはなかろう。作曲者夫人の菅原幸子による超絶的なピアノと相まって、これはとてつもない聴き物であった。

休憩を挟んでの1曲目は「世界初演」との記述のある『マーチ・ファタール』。ある意味で当夜1番の問題作はこれかも知れない。正面きってのロマン派的な調性による書法、過剰なまでの超絶技巧のオンパレード。この仕組まれた陳腐さと俗悪さ(何せ作曲者自身が大真面目に「この曲のキーワードは〈陳腐〉です」と言っている位だ)。『グラン・トルソ』のような音楽を書く作曲者が、かような作品を、個人的な楽しみなどではなくこの日のようなコンセプチュアルに仕組まれたコンサートに敢えて持って来る意味。
当日はかなり突っ込んだ話をしてくれているラッヘンマンだが、この曲について訊かれた際には「特に話すことはありません」とした上で、「若気の至り、という言葉がありますが、これはさしずめ〈老いの至り〉とでも言いますか」と韜晦気味に述べるにとどめていたのだが、その様子からは、この曲を確信犯的に整然と書いて小爆弾を投げてみました、というよりも、作曲者自身も何だかよく分からない衝動に駆られてこのような作品を仕上げてしまい、自分で半ば呆れながらも「まあいいか」というノリで作品としてオフィシャルなものにしてしまった、とでもいうような雰囲気が感じられて仕方ない。
ここにも当然「異化」のコンテクストから読み取れるものは多々ある。何よりも、それまでの曲からは想像も付かないこんな曲を書いたラッヘンマン自身に対する「異化」だろうし、それは聴き手にせよ同様だ。なるほど、これは取るに足らない曲ではあるかも知れないが、その「取るに足らなさ」が逆説的に看過できない問題作へと転化している。まさに「ミスター異化」、ヘルムート・ラッヘンマン。これはもはや彼の生理的体質だろうね。だから、その意味においてラッヘンマンの作品は真摯で、全く嘘がない。それゆえに聴く方も真摯に向き合わねばならない。

最後に『グリド』。本作は1曲目の『グラン・トルソ』ほどには過激な特殊奏法は出て来ないが、ここではグリッサンドやテヌート、そしてフラウタンドも用いつつより「伝統的な」奏法へと歩み寄っている。本作の時間感覚は全く特異で、特にその終結部はそこに永遠が封じ込められたかのような錯覚を抱くほど。そういう意味では、突飛な比較かも知れないがマーラーの『交響曲第8番』の第2部終結部と似ているとすら言えるのではないか。
『マーチ・ファタール』もそうなのだが、『グリド』と併せて考えてみるに、そして先述のラッヘンマンの「新しい楽器を造ること」発言を鑑みるに、ラッヘンマンは確かに前衛ではあるけれども決して過去を切り捨てるのではなく、それらの遺産のエッセンスを巧みに取捨選択あるいは換骨奪胎して自作に取り入れているという印象をも持つ。
そういう意味では一般に用いられる前衛というよりは「保守」と形容してもよい存在ではないか。「保守的前衛」、か。
ラッヘンマンと言うと、筆者もそうだったがまずは「特殊奏法による異常な音響」という点に意識と興味が向いてしまいがちだけれども、この日のコンサートで4作品の実演に接してみると、短絡的に目が向かいがちなそれらの事象にのみ囚われない歴史的なパースペクティヴへの意識が幾らか広がったような気がする。あくまで「気がする」だけだが(苦笑)。それにしても水戸にまで来た甲斐がありました。水戸芸術館さま、また良い企画をお願い致します。