オペラ夏の祭典2019-2020 プッチーニ:《トゥーランドット》|能登原由美

オペラ夏の祭典2019-2020 プッチーニ:《トゥーランドット》

2019年7月27日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
2019/7/27 Main Theatre, Biwako Hall, Center for the Performing Arts, Shiga
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
写真提供:びわ湖ホール

〈プレーヤ〉        →foreign language
総合プロデュース・指揮|大野和士
演出|アレックス・オリエ
合唱|びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
児童合唱|大津児童合唱団
管弦楽|バルセロナ交響楽団

〈キャスト〉
トゥーランドット|イレーネ・テオリン
カラフ|テオドール・イリンカイ
リュー|中村恵理
ティムール|リッカルド・ザネッラート
アルトゥム皇帝|持木弘
ピン|桝貴志
パン|与儀巧
ポン|村上敏明
官吏|豊嶋祐壹
ペルシャの王子|真野郁夫
侍女1|黒澤明子
侍女2|岩本麻里

 

いま、オペラを上演するということはどういうことか。
その意義を改めて考えさせられた。一つには、その内容において。もう一つには、私が鑑賞した公演で起こったアクシデントを通じて。内容にも影響を与えた可能性があることから、まずはそのアクシデントについて説明したい。

それは、びわ湖ホール公演の初日、第2幕半ばで起きた停電である。この日は、折しも台風が近畿地方から東海地方へと通過しており、ホール周辺も朝から雨だった。その雨の影響かどうかはわからない。トゥーランドットが登場して間もなく、ホール内の電源が突然落ちたのである。同時に、客席側の非常用電気が点灯したため、パニックになることはなかったが、あえなく中断。ロビーで1時間ほど待たされただろうか。トゥーランドットが登場する場面からの再開となった。

再開を告げるアナウンスは同時に、停電の影響で演出の一部が変更になる旨を伝えたが、それはすぐに明らかとなる。というのも、停電前は舞台セットの上部に設置されたバルコニーから登場したトゥーランドットが、再開後は舞台上に置かれた台座の上に登場したのである。そのまま、舞台上部は使用されることなく終演となった。

2日目。開演前にホール館長が舞台に現れ、昨日の停電事故の影響で演出の一部が変更になることを告げる。その具体的な箇所についての説明はなかったが、こちらも幕開けと同時にすぐに気づいた。つまり、昨日の停電前は照明の当たっていた舞台中央上部のセットが暗く闇に閉ざされ、第1幕で僅かに姿を現していたトゥーランドットは影さえ見せないのだ。そして、次の幕で彼女が登場したのは、停電後と同じ台座の上。この日、彼女の居場所はその台座の上だけとなってしまったのである。

私は先に上演のあった東京公演を知らないが、この変更が大きな意味を持つことは容易に想像できた。舞台上を埋め尽くした群衆と対比させるためにも、権力者であるトゥーランドットは上から登場しなければならないはずだ。それが最終的には民衆とほぼ同じ位置に降りるとしても、降りてくるタイミングにも意味があっただろう。また休憩中には、新国立劇場での公演を観た知人から、セットが上下に動くはずであったことや、それによって得られていた舞台上のダイナミズムが失われていることなども聞かされた。いずれにしても、停電によって舞台装置を稼働させるシステムが不備となったらしい。これが「アクシデント」の中身である。

つまり、私が観た公演は演出家が意図したものとは少し違っていたらしいのだ。とはいえ、主催者は演出の変更を踏まえて上演に踏み切った。そのステージを与えられた側としては、主催者や製作者の事情云々に配慮することなく、観たものだけを受け取り、それについて何かしら言うことは当然許されるだろう。

では、私がその「演出家の意図とは異なる」公演から受け取ったものは何か。ここからは、歌手陣をはじめ、上演の出来がより優れていた初日の公演をもとに述べよう。

それは、巨大な力とそれに翻弄される小さき者たちの対比である。いや、それ自体は何の変哲もないに違いない。これが本作の重要な主題の一つでもあるのだから。けれども私は、よく言われるように権力者たるトゥーランドットと下層の人々といった対比ではなく、むしろ群衆も含めた計り知れない「力」と、それに対して抗うことのできない個々―そこにはあのトゥーランドットも含まれる―の姿を見た。というのも、今回の上演で鍵を握っていたのは、圧倒的なパワーを持った大合唱団演じる「群衆」だ。さらに言えば、空間全体をフルに使ったセットや、ダイナミクスに富んだオーケストラ、いずれも、小さな人間を取り巻く目に見えない「力」の存在だったのでないだろうか。

その群衆にまみれて登場するリューやティムール、カラフさえ、その存在は実に小さい。もちろん声量のある彼らの歌声は、3階席最後尾にいた私の所にまで突き抜けて来たが、姿自体は肉眼では容易には見つけられない。とりわけリューによる命を賭した哀願は、大きな力を前に為す術がなくただ崩れ落ちていく人間の、脆くはかない存在を示す。その点で、中村恵理の演技と歌唱は圧巻であった。

一方、抑圧する側であるはずのトゥーランドットもここでは同じだ。ただし、唯一人上部にいる彼女は、下にいる大勢と対置させられることにより、その孤独を露わにする。さらに、通常の演出とは異なり最後に自死してしまうことで、その孤独は解消されないままとなる。

確かに、冷徹な彼女の心はリューの自己犠牲の愛を前に一見氷解していったかに見える。だが、カラフを受け入れたわけではない。カラフに言い寄られるトゥーランドットの反応については、イレーネ・テオリン(初日)とジェニファー・ウィルソン(2日目)の間で対照的であったが、テオリンの演技が明示したように、カラフの口づけには最後の瞬間まで抵抗する。というのも、彼女の生を支えてきたもの、それは、異人に惨殺された先祖の王女の記憶であり、そこから生まれる憎しみと報復への執着心。その悪夢の記憶と憎悪の連鎖を、自らの死をもって断ち切ったように思えるのである。

目に見えない巨大な力を前に無力で孤独な人間たち。あるいは侵略の記憶と報復の連鎖。これはまさに、現代社会の暗部を照らすものではないだろうか。

ただし、先にも書いたが、私が見た演出は事故のために当初の意図とは異なるものであったらしい。よって、本来の演出であればもう少し違った受けとめ方になったのかもしれない。

もちろん、停電によって当初の演出とは異なるものが提示されたこと、それ自体についてここで非難することもできよう。だが私はこう考える。舞台作品とは、観客の目の前に出されたものが全てなのだと。だからこそ、上演する側には一つ一つの公演を受け手に見せることに対して大きな責任がある。一方で、それを受けとめる側にも自覚が必要だ。それは、その舞台がいま、なぜ目の前に投げかけられているのかを問うことでもある。今回の場合、その内容に加えて偶然発生した出来事によりその問いが改めて突きつけられた。変更はあったにせよ、やはり上演の意義は十分にあっただろう。

関連評:オペラ夏の祭典2019-20 プッチーニ:《トゥーランドット》|藤堂清

(2019/8/15)

7月27日

7月28日

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〈players〉
Kazushi ONO (General Producder/Conductor)
Alex OLLE (Production)
BIWKO HALL Vocal Ensemble
New National Theatre Chorus
Fujiwara Opera Chorus Group
OTSU Children’s Choir
Barcelona Symphony Orchestra

〈cast〉
Turandot: Irene THEORIN
Calaf: Teodor ILINCAI
Liu: NAKAMURA Eri
Timur: Riccardo ZANELLATO
L’imperatore Altoum: MOCHIKI Hiroshi
Ping: MASU Takashi
Pang: YOGI Takumi
Pong: MURAKAMI Toshiaki
Un mandarino: TOYOSHIMA Yuichi
Il Principe di Persia: MANO Ikuo
Prima Ancella: KUROSAWA Akiko
Seconda Ancella: IWAMOTO Mari