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葵トリオ|丘山万里子

ランチタイム コンサート Vol.100
ARD ミュンヘン国際音楽コンクール優勝記念
葵トリオ

2019年5月1日 トッパンホール
Reviewed by 丘山万里子
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
葵トリオ :小川響子vn、伊東 裕vc、秋元孝介pf

<曲目>
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調 Op.70-1《幽霊》
マルティヌー:ピアノ三重奏曲第3番
〜〜〜〜
メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第2番 ハ短調 Op.66
(アンコール)
ハイドン:ピアノ三重奏曲第27番 ハ長調 Hob.XV-27より 第3楽章

 

2018年ミュンヘン国際音楽コンクール、トリオ部門優勝の葵トリオ。トッパンホールの新人若手シリーズ<ランチタイム コンサート>第100回にフル・コンサートでの登場である。ミュンヘン・コンでの室内楽部門は東京クヮルテットの優勝以来48年ぶりだから快挙と言ってよい(カルテット・アマービレは2016年第3位)。
葵の3人はサントリーホール室内楽アカデミー(2010年開設)の第3期フェローだが、そこで指導するのはかつての東京クヮルテットのメンバー。思うところあって昨秋以来、このアカデミーを瞥見している筆者の頭にあったのは、以前聞いた原田幸一郎の「東京クヮルテットはソニーのように緻密精緻なアジア人アンサンブルが物珍しく評価されただけで、独自な音楽性じゃない」という言葉と、これを裏書するかに、常に邦人演奏家に向けられる「技術はあっても個性がない」「合わせばかりに神経を使い個々の音楽的主張とそれが生み出す会話がない、それこそが室内楽の醍醐味なのに」という批判。
この問題が日本の早期音楽教育ばかりでなく「教育」それ自体、あるいは国民性に根をもち、畢竟「文化」のテーマであることは、これまた言い古されてきたことだ。

葵トリオがどうであったか。
筆者は昨年12月サントリーでの凱旋公演に接しているが、左サイド席でバランスも響きもまともに把握できず(残席がなく)、ただ、秋元の音がクリアで美しいこと、伊東の歌心(これは常々感じている)、対して小川の力みとボウイングの不要な所作が気になったこと、くらいしか受け取れなかったので、大いに期待した。

2曲目のマルティヌーが抜群だった。
休憩後のメンデルスゾーンに客席は一番盛り上がり、あちこちからブラボーがかかったが、筆者は留保だ。
『第3番』(1951)は亡命先のアメリカで書かれた作品。2年後にはヨーロッパに戻るが、故郷へ帰ることなくスイスで没している。
冒頭で脳裏に浮かんだのはチャップリン『モダン・タイムス』(1936)。ベルトコンベアー作業シーンに流れる音楽の音型・リズムを想起したからだろう。
滑稽、では無論ない。地底から這い上がってくるような不穏さをたたえたピアノの鬱屈した響き、小刻みな律動が次第に克明に繰り返される上に弦が絡むと切迫感が増す。のだがマルティヌーの書法はそういう中にも空を流れる雲のように豊かな旋律を切れ切れに浮かべ、と思うとまた軋むような音質と斬れ(切れでない)が割入ってくるので、やはり昔のフィルムを見るような感じではあるのだ。それを彼らは実に見事にさばいてゆく。ピアノのパキパキした打奏や粒立ちの的確さ、チェロの低音の腹にズンとくる重さ、ヴァイオリンの時折ふっと笑みを浮かべるような語りと、楽節各所に散りばめられた魅力をあますところなくすくい取って表出、つないでゆく。素敵だ。亡命都市の灰色機械振動にゆすられながら故郷の空を想う作曲家の心情につい思いを馳せてしまうわけで、それが『モダン・タイムス』と当たらずとも遠からず、とはいささか強弁であろうか。
第2楽章はゆったりした語調の弦の対話の周りを縁取り合いの手入れるピアノの動きがチャーミング。ピアノトリオは下手をするとパーカッシヴなピアノが突出、特にソリスト志向で育った邦人若手はバランスを崩すことが多いのだが、秋元の凹凸心得た制御ぶりに感心する。凱旋公演では力みが気になった小川だが、こちらも非常にソリッドかつしなやかな響きでチェロの歌心にうまく載り、あるいは支え、良い仕事ぶり。
第1楽章での刻みパターン再燃の第3楽章、こちらはピアノのタカタカ急き立て上行下降和音連打とともに弦の大口開口の歌が快感だ。開け放ち、解き放つ満腔エネルギーが大空にぼんぼんはなたれる。そこをチェロの懐郷メロディアス旋律がよぎるわけで、筆者はワクワクしっぱなしであった。
マルティヌーの前衛性と古典性、西欧・辺境・新世界の三重層、三縦走を洒脱に示すこの作品の魅力を彼らは彼ら自身の呼吸と筆で描き切ったと思う。

前後の2作品については、マルティヌーにあった「彼ら自身」を見出すのは難しい。
もちろん、コンクール優勝のアンサンブル力は間違いないが、作品とどう対峙するかに腰が定まらぬ感がある。トリオとしての視点の提示力か。ベートーヴェンではそれが弱く、メンデルスゾーンは逆に引き寄せすぎて前のめりに思えた。メンデルスゾーン終章のパッショネイトな驀進に喝采止まず、は理解できても。

さて、考える。
アマービレに「なんてワイルドベートーヴェン!」と筆者は興奮の拳を突き上げたが(最初のうちはなんだかなあ、だったのに)、
カルテット・アマービレ|丘山万里子
なぜ、葵に「なんて沸騰メンデルスゾーン!」と思わなかったのか。

筆者は、演奏には2つの不可欠があると考える。
一つは固有の響き。
これは「個体」の有するもので、誰にも、決して代わりがきかない。
もう一つは、固有の視点。
解釈、と呼ばれる道を自らが探り生み出すに、いったい何が必要だろうか。

冒頭の問題に戻るなら、筆者はアマービレのワイルドベートーヴェンと葵の清新マルティヌーにその答えを望見したい。
そこからどんな地平が拓けるか。
伝統・革新・現代の私たち。具体的な像はまだ結べないのだけれど。
根っこ問題については改めて触れたい。

ことのついでに『モダン・タイムス』を久しぶりに観て、きたるべき雇用喪失AI社会、逃げ場なき情報管理・監視社会、文明と人間の狭間でどんな音楽が可能かと、葵のマルティヌーをふたたび頭に蘇らせたのであった。

(2019/6/15)