シューベルトの時代のピアノで聴く『冬の旅』夜の部|平岡拓也

シューベルトの時代のピアノで聴く『冬の旅』夜の部

2018年12月2日  ソフィアザール・アネックス「バロック」
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)

<演奏>
フォルテピアノ:川口成彦
バリトン:井上雅人
(フォルテピアノは、1820年インスブルック製のオリジナル楽器『ヨハン・ゲオルク・グレーバー』を使用)

<曲目>
シューベルト:歌曲集『冬の旅』 Op. 89 D911

 

慣習的にロマン派的アプローチが採られてきた作曲家の作品を古典派から見つめ直し、アーティキュレーションその他を再検討する―20世紀の後半頃から盛んになったこの試みは、現代のクラシック音楽において不可避のものとなりつつある。モダン楽器を使うオーケストラも必要とあらばピリオド奏法に向き合い、バロック楽器の導入すら辞さない団体もある。

上述した再検討の筆頭に、シューベルトも含まれる。今やヴィブラートをたっぷりと効かせて歌うシューベルトは少数派となり、筋肉質に造形を浮き彫りにする演奏が主流となっている。今月、別項で記したドイツ・カンマーフィルの『グレイト』もまさに後者の典型であった。歌曲におけるシューベルトも、バロック楽器を用いた新たな方向性が近年模索されている。今宵の井上雅人と川口成彦による『冬の旅』もまた、新たな作品像を我々に提示した。

筆者はモダンピアノとの共演による井上雅人の『冬の旅』を以前聴く機会があった。そこで彼は持ち味であるバス寄りの凝縮された低音を存分に聴かせ、強音による表現も躊躇せずに行っていた。

だが今回の川口との共演では一転、フォルテピアノに極力寄り添った弱音方向の表現―それは歌というより語りに近い―が全曲に一貫していた。シューベルトと同時代のフォルテピアノの音量的制約に配慮しての抑制、とは敢えて呼びたくない。フォルテピアノ特有の鄙びた音色や5本のペダルが織り成す幅広い表現を尊重し、器楽と声楽がより相対することにより生まれた新鮮な表現であったと思う。声楽の生理を考えれば、ある一定以上の声量で歌い続けることよりも、語りぎりぎりの限られた声量で歌い続ける方が苦しい。つまりは歌い手にとっては挑戦であろうが、井上は見事に明暗のコントラストを付けて最後まで歌った。節と節のあいだの時間経過を想起させるような表現や、単純な怒りや嘆きを超えた自嘲気味の語りなど、詩の深い読み込みも随所で聴かれた。

川口成彦のフォルテピアノもまた、精妙に声楽と対話する。目覚しい音量変化をもたらす2つのモデレーターペダル、異音の挿入のような効果すら与えるファゴットペダルを含む5つのペダルを用いた重層的な音世界は聴き手の『冬の旅』のイメージを一新する。特に第2部開始を告げる第13曲『郵便馬車』の冒頭音型で用いられたファゴットペダルの効果は著しい。外面は底抜けに明るい曲が内包する哀しみは、ふざけたようなピアノの響きにより抉り出される。また第21曲『宿』や第23曲『幻日』における、声楽の背景・残響としてのピアノの役割も、フォルテピアノだとより際立つ。

時に「詩以上に音楽が雄弁に語る」シューベルトの筆致の冴えはいまさら強調するまでもないが、今回ほどに写実的で、かついくぶん戯画的な描写が織り込まれた作品だと感じたことはなかった。音楽の描写と詩世界は統合と乖離を繰り返しつつ、謎めいたまま終曲を迎える。その逍遥に答えはないが、井上雅人と川口成彦が歩んだ道程は、この作品に対する新たな視座の数々を筆者に授けてくれた。高円寺の小さなサロンで生まれた小さくも大きな世界の余韻と共に、寒々とした夜の道を歩み帰途へついた。

関連評:ユリアン・プレガルディエン&鈴木優人|藤堂清(同じフォルテ・ピアノを用いたコンサート)

(2019/1/15)