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世界に開く窓 エレクトロニクスの新展開 作曲家シュテファン・プリンス初来日|齋藤俊夫

現音・秋の音楽展2018 
世界に開く窓 エレクトロニクスの新展開 作曲家シュテファン・プリンス初来日

2018年11月5日 牛込箪笥区民ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:日本現代音楽協会

〈曲目、演奏〉
蒲池愛:『Dent-de-lion for Accordion and Electronics Live』(2017年)
  アコーディオン:大田智美
  エレクトロニクス:蒲池愛・永見竜生
シュテファン・プリンス:『Piano Hero#1』(2011-12、日本初演)
  電子ピアノ:中村麗
  エレクトロニクス:有馬純寿
小島有利子:『漣の化石:海の記憶』(2018年、初演)
  ピアノ:朝川万里
  エレクトロニクス:小島有利子
シュテファン・プリンス:『Piano Hero#4』(2016年、日本初演)
  電子ピアノ:中村麗
  エレクトロニクス:有馬純寿
萊孝之:『Discrete Transfer for piano and computer』(2012年)
  ピアノ:安井悠香子
  エレクトロニクス:萊孝之
シュテファン・プリンス:『Fremdköper #1』(2008年、日本初演)
  エレクトロニクス:有馬純寿
  フルート:木ノ脇道元
  打楽器:悪原至
  エレクトロニックギター:山田岳
  チェロ:北島愛季

初来日のシュテファン・プリンス(1979年ベルギー生まれ)は筆者と同じく、今日のいわゆる「デジタル技術」が世界を覆う以前に生まれ、それが生活の中で一般化していく中で育った世代、「今のデジタル技術」と共に生まれ育ち、またそれを育ててきた世代と言えよう。
そのプリンスがいかにして「現代」音楽を切り拓いているのかを目の当たりにし、驚きと共にそれを記述したい。キーワードは「今、ここ」である。

『Piano Hero #1』は、電子ピアノの鍵盤が、ピアノの内部奏法の録音を(おそらく)さらに電子的に加工した音と、ピアノを内部奏法で弾いている映像(ステージ後方に映し出される)のスイッチとなって、録音と映像を「演奏」する、という作品である。
非デジタル技術装置である伝統的な楽器の演奏とは、「今、ここ」にある物体を振動させて作り出す音を、「今、ここ」にいる人間が作り出すものであった。しかし、この作品においては、「今、ここ」にない録音と映像を、「今、ここ」にいる人間が演奏するのである。「今、ここ」はステージ上で撹乱、あるいは拡張される。

「電子ピアノを演奏しているのを、どこかに設置されたカメラでリアルタイムに撮影して、その映像をスクリーンに映している」と『Piano Hero #4』の「演奏と映像」を見て、筆者は「始めのうちは」そう思った。
演奏者の頭あたりにもカメラが取りつけられていて、それで演奏中の手を撮影・反映しており、映像が切り替わるのはどこかで野球中継のようにリアルタイムでカメラを切り替えていると考えたのだ。
しかし、映像内の手の動きに「コマ落ち」のような奇妙な現象が生じたり、映像と実演が全く一致しない部分(演奏していないのに音と映像が続く)などが挟まれ、「今、ここ」で見聴きしているものへの疑問が生まれる。
終曲近く、演奏者が横を向き、彼女が見ているであろう風景と映像が同期している、つまり演奏者に取りつけられているカメラで撮影している映像だと思ったものが彼女の視点から滑って行き、何故かカメラが取り付けれられいると(筆者が)思っていた彼女の顔が映し出される。さらに、演奏者がこちらを向いたと思った瞬間、「ステージから見た今の客席」が映し出された。
そしてさらに、演奏者が舞台脇に去っていく、その時に「彼女」が見ているであろう景色が映し出されている、と思えば、「彼女」が舞台脇から楽屋に行ったはずが、どこかのグラウンドらしき場所が映し出され、遠くでの爆発のような轟音が鳴り響き、「彼女」が自分の手を見て、またグラウンドを眺めて、終曲。

プリンスが演奏後打ち明け話をしたことには、これらの音と映像は全てドイツで録音・録画したもので、演奏者は演奏をしている「フリ」をしていたのだ。ただし、「ステージから見た今の客席」については言及がなかったのだが、客の顔と位置から判断して、少なくとも「今回の演奏会の客席」であったことは間違いない。
つまり、この作品では聴衆は「今、ここ」の音を聴いていたのではなく、さらに、「今、ここ」の光景を見ていたのではないのである。反対に聴衆こそが、「今、ここ」でどこかの誰かに「見られていた」のを、さらに「見た」のである。
「今、ここ」とは何か。我々は「今、ここ」の感覚(表象)から出ることはできない。だが、その感覚(表象)が「今、ここ」から与えられるのではなく、そこから離れた「どこか」で「製作・編集」されることによって、我々の(もしくは少なくとも筆者の)「今、ここ」は操作可能なのである、という恐るべき事実をこの作品によって突きつけられた。

プリンス作品最後の『Fremdköper #1』(辞書的には体内の異物を表す医学用語だが、「環境に馴染めず疎外感を持つ人」(プログラムより)という意味でも使われる)は、4人の演奏者と1人のエレクトロニクス担当によって、クセナキスの電子音楽作品「ペルセポリス」や、その流れを組むノイズ、即興音楽(特別寄稿:クセナキス『形式化された音楽』監訳者に聞く/メールインタビュー第2回参照)の音響を「記譜通りに演奏する」という作品。
そもそも、音楽の歴史をたどれば、まず人間がその場限りで発する音が組織化されて「音楽」となり、それが「口伝」されてきたのが、「楽譜」によって情報・データの誤差・劣化が低減されて空間的・時間的に拡散・伝播されるようになり(すなわち、「再現」という概念の誕生である)、さらに「録音」によって一度限りの演奏すら誤差・劣化せずに「再現」されるようになり、その極北として、「演奏」すらないままに「再現」される電子音楽作品が誕生したのである。
その電子音楽作品が「再現」されることなく、「演奏」だけされうる(ただし「録音」は可能である)、という逆説を実現したのがノイズや即興であったのだが、さらにそこから歴史を一周して、それを「記譜」し「再現」する、という荒業をやってみせたのである。
この作品の音響は、「とにかくすごいノイズであった」と記述することしかまだ筆者にはできない。だが、これは「今、ここ」の、「現代」の音楽であることは断言できる。筆者は11月3日に有馬純寿主催の即興ライヴにおいてもプリンスの即興演奏を聴いたのだが(演奏者はこの2人のエレクトロニクスの他、池田拓実(エレクトロニクス)、石川広行(トランペット)、山田岳(ギター))その即興演奏の音響と同類の音楽を「記譜し再現する」ことがまさかできるとは思わなかった。

プリンスの衝撃があまりに大きく、他の3人に割くべき字数が足りないが、蒲池作品、小島作品は、通常の演奏を飾る「効果」としてエレクトロニクスが使われていただけであり、エレクトロニクスの意味は薄かったと言わざるを得ない。萊作品は彼のライブ・コンピュータ・システムによってピアノの演奏がリアルタイムで変調していく様は素直に美しく、独創的であったが、「今、ここ」のステージ上にある音楽であることにおいて伝統的な作品概念から出ることはなかった。

シュテファン・プリンスの音楽は「彼の(そして筆者の)世代」のみが可能にしえる、あるいは、「彼の世代」がなさねばならなかった音楽である。彼によって、彼と、音楽の「今、ここ」に出会えたことを心から喜びたい。

(2018/12/15)