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ツィンマーマン:《白いバラ》~東京交響楽団 第660回定期演奏会|藤原聡

東京交響楽団 第660回定期演奏会
ウド・ツィンマーマン:歌劇『白いバラ』
~2名の独唱者と15の器楽アンサンブルのための

2018年5月26日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:飯森範親

<曲目>
ヘンツェ:交響的侵略~マラトンの墓の上で~(2004年改訂版)
ウド・ツィンマーマン:歌劇『白いバラ』~2名の独唱者と15の器楽アンサンブルのための(1985年第2稿/演奏会形式/日本初演)
 台本:ヴォルフガング・ヴィラシェック
 ソプラノ:角田祐子
 バリトン:クリスティアン・ミードル
 コンサートマスター:水谷晃
 カヴァー/ソプラノ:梅園絵美子
 カヴァー/テノール:升島唯博
 コレペティトゥール:矢田信子

 原訳:南原和子
 字幕:増田恵子
 字幕操作:Zimakuプラス

 

2016年の8月にはポポフの交響曲第1番という極めて貴重な作品を取り上げた飯森範親と東響。飯森は折に触れこのような実演の機会が稀な作品を取り上げてくれるのが頼もしいのだが(同じ意味で2015年4月のカンチェリ『ステュクス』も忘れ難い。尚、昨年9月に飯森は日本センチュリー響とも同曲を演奏している)、今回もまたやってくれた。ヘンツェ、そして何よりもウド・ツィンマーマンの『白いバラ』日本初演である。後者のプログラミングについて現在の日本の政治状況に対するいくばくかの批評的な意味合いが込められているのかどうかは知らないが、それは措くとしてもそういったコンテクストに対する連想を全く働かせずに作品に接することもまた難しかろう。まあこの話題にはこれ以上踏み込むまい。

1曲目はヘンツェ。当日のプログラム掲載の楽器編成を見ると4管編成の大オーケストラに打楽器群の異様な充実、さらにはチェレスタやピアノまで用いられている。沼野雄司氏の解説によれば、本作はヴィスコンティ演出による演劇『ダンスのマラソン』(昼夜問わず踊り続けねばならない過酷なダンス大会の様子を描いたものだという)のための音楽をヘンツェ自身が作り替えたもので、作曲者は楽曲について「山賊の乗馬のようなものだ」と述べている。野蛮なダンス大会に暴力性を見るヘンツェはまた「マラトンの墓の上で」という副題においてダンス大会の最後に出場者たちが息絶える様をも表す。シドニー・ポラックが映画化しているとの記述もあり、ああ『ひとりぼっちの青春』がそれか、と膝を打つ。

楽曲は極めて大編成のオケである割には音圧は意外に低く、無条件に響きを開放せずに知的な抑制が常に働いている。冒頭のティンパニによるリズムが全曲に渡って用いられているが、これが全曲の基本的パルスを提供する。途中にはジャズコンボ風の音楽、ストラヴィンスキー的にバーバリスティックな音楽や誤解を恐れずに書けばヴァレーズすら想起させる音楽が登場するが、それらが全面的に開陳されることはなく、あくまで「くすぐり」としてアイロニカルに活用され、最後には肩透かしを食らわすかの如くあっけなくその音楽は幕となる。

後半のウド・ツィンマーマンと対照的に派手派手しく盛り上がる音楽を最初に持って来てコントラストを付けるのだろうか、などとその音楽を聴く前には想像していたが、実際楽曲はそこまで外向的な派手さがない。そして何よりも楽曲のイデーがツィンマーマン作品とある意味で共通してはいまいか。決して強制参加ではないだろうダンスマラソン大会に参加するうちに、その同調圧力もしくは全体性に絡め取られて抜けるに抜けられず最後には命すら落とす、という状況は悲劇であると同時にこの上なく喜劇的でもある。その全体性への関与と被る被害が主体の自由意志/間接的なものなのか、あるいは国家による強制なのか、という違いはあるにせよ。正直に記せば曲自体はさほど面白いものでもないけれど、後半楽曲との対比効果やら楽曲の成立背景なども含めて思考を広げうるある種のコンセプチュアルな要素まで含めて全く興味深い。飯森&東響の演奏はまずは万全。この手の錯綜した楽曲をまとめ上げる飯森の手腕は大変見事なものだ。

そして後半は件のウド・ツィンマーマン『白いバラ』。ドイツ現代史に多少なりとも興味をお持ちの方ならご存知であろうが、第2次世界大戦中のドイツにおいてナチスへの抵抗運動を行ったグループの名前がそれである。 このグループの中核メンバーであったハンス・ショルとゾフィー・ショルをはじめとしたメンバーは国家反逆罪との名目の元ナチスによって処刑されるが、本作はその事件を主題とする(余談だがマルク・ローテムント監督によってこの事件は『白バラの祈り  ゾフィー・ショル、最後の日々』として映画化もされている)。オペラは1時間ほどの長さを持ち16のパートからなる。ハンス・ショルとその妹ゾフィー・ショルはそれぞれバリトンとソプラノによって歌われ、オケ部は15人の器楽アンサンブル(但し本公演では飯森の希望により元来弦楽五重奏であるところ弦楽合奏によって演奏)。演奏前に飯森が行ったプレトークによれば、作曲者自身がそう明言している訳ではないものの、本作は1943年2月22日の午後にナチスによって死刑判決が出されその日の17時に即日処刑されるまでのハンス・ショルとゾフィー・ショルの兄弟の独房内での思いを歌ったものと捉えられる、とのことだ。

ウド・ツィンマーマンの音楽は極めて表出力が高く、相当に分かりやすい。第1曲目の<私の目に光を! さもないと死の眠りについてしまう>曲頭で提示される不気味で威圧的、非人間的な主題は全曲に渡って繰り返し登場する何とも印象的なものだ。無調的な浮遊性と調性的な響きが巧く混ぜ合わせて用いられ、限られた楽器編成では打楽器の活用法が極めて印象的であり、それぞれの楽器の音色が実に鮮烈に生かされたオーケストレーションが施されて誠に効果的である。全16曲の中ではほぼフルートの伴奏のみによって歌われる第9曲の<もう一度だけ一緒に私たちの森を歩きたい>、そしてヘンデルの有名なアリア『私を泣かせて下さい』が薄気味悪く変容させられて引用され、かつ徐々に高揚して行く狂騒的でファナティックな行進曲(飯森はプレトークで「ドイツ人には潜在的にマーチに対するアレルギーがある」と語る。言うまでもなくマーチは軍隊及び軍国主義の象徴だからだ。より具体的にはナチスの党大会のイメージとしての行進曲と言ってもよい)の終曲第16曲<もう黙っていてはだめだ>が強烈な印象を聴き手に植え付ける(ある意味でトラウマレヴェルだろう。ドイツ人はこれをどう聴くのだろう。殊に年配の)。この16曲では最後に「絞首刑で死ぬの? それともギロチン?」との問いかけの後ホールが暗転して演奏は終わりを告げたが、この効果は絶大だった。2名のソロは迫真力のこもった歌唱で戦慄的であったし、ここでも飯森と東響は大変に明晰な演奏を聴かせて秀逸であった。

このような極めて意義のある内容の濃いコンサートであったにも関わらず客席にはいささか空席が目立った。ある程度予想されたこととは言え残念。

関連評:ツィンマーマン:《白いバラ》~東京交響楽団 第660回定期演奏会|藤堂清

 (2018/6/15)