シューベルト「冬の旅」|藤原聡   

シューベルト『冬の旅』Op.89、D911

2017 年2月14 横浜みなとみらいホール 小ホール
Reviewed by 藤原聡( Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
マーク・パドモア(テノール)
ティル・フェルナー(ピアノ)

<曲目>
シューベルト:「冬の旅」

 

資料によれば、パドモアは過去日本において『冬の旅』を3度取り上げているという(共演は2008年/イモージェン・クーパー、2011年/ティル・フェルナー、2014年/ポール・ルイス)。筆者はいずれも未聴だが、2014年の王子ホールにおける歌唱が特に鬼気迫るものであったとの話は度々耳にする。今回はどうか。ピアノは2011年と同じティル・フェルナー。

最初に大まかな印象を述べれば、パドモアの歌唱は演劇的で雄弁、それぞれの言葉の意味を徹底的に掘り下げている。語るような歌。声は細身で鋭利、ヴィブラートは限定的に用い、その意味ではイギリスの古楽を得意とするテノール歌手ら(エインズリー、ロルフ・ジョンソン、ボストリッジなど)の系譜に通じるものがある。そして、パドモアはミュラーの詩の文学性を信じ切っている。完全に没入している。シューベルトの旋律線を美しく完璧に歌おう、ということはパドモアの主眼ではない(事実、この日は音程の上ずりや意欲余っての先走りがあったし、歌詞の間違いもあった)。その意味ではかのフィッシャー=ディースカウにも相通じる面があるのだが、しかしパドモアはフィッシャー=ディースカウのような「直接的な身体性の表出よりも、理の勝った計算的・知性的側面が先に立つ」という気配がない。どの歌も心の深淵を直接覗き込むようなゾッとする趣があり、冷たい焔が燃えさかっているかのような恐ろしさがあるのだ。

当夜の歌、前半は比較的抑制された表現で声もまだ温まっていない印象があったのだが、特に13曲目以降の後半からどんどん凄みが増して行き、<鴉>での自虐的なおぞましい叫び、<嵐の朝>、<勇気>でのやけっぱちな自暴自棄さの表現はかつてのどの歌唱よりも強烈なものだったし、<宿屋>における死への接近・虚無を通しての慰め、といった分裂的様相を本当にセンシティヴに歌い演じていたのが鳥肌ものの凄みを感じさせる。名手に掛かればこれほど多層的なエモーションを聴き手に与えられるものなのだ。しかも、それらは外から付加されたかのような通俗的な意味での演劇性では全くなく、本当に演奏者が作品世界をそのまま引き受けて主人公に共振しているような自然さで歌われており、冷静さがある。パドモアはこの陰鬱な傑作を今まで何回歌って来たのだろうか。一体化、と言う表現すらまだ甘いと感じるような徹底振りだ。フェルナーのピアノは、パドモアとは対照的に大らかな自然さを感じさせ、ことさら描写的な表現を持ち込んだりしない(<最後の希望>前奏を聴けばそれは容易に分かる)。これが実に良いコントラストを形成している。

最後の<辻音楽師>。他のどの歌手よりもより呟き、より淡々と進められる歌。ここに至って、主人公は同行者を見つけ、そして新たな歩みを開始するだろう。この絶望的な歌曲集の最後には一筋の希望の光が淡く差し込んでいる。それをここまで直感的に確信させられた歌もない。適切な言葉かどうかは分からぬが、あまりに有名な世阿弥の「秘すれば花」という言葉を思い出す。この意外な「淡々」が、「花」を逆説的に照射する。本当に良い歌を聴かせて頂いた。感謝。

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