日本フィルハーモニー交響楽団創立70周年記念特別演奏会|柿木伸之
日本フィルハーモニー交響楽団創立70周年記念特別演奏会
Japan Philharmonic 70th Anniversary Special Concert
2026年6月21日(日)17:00開演/サントリーホール
June 21, 2026/Suntory Hall, Tokyo
Reviewed by 柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
写真提供:公益財団法人日本フィルハーモニー交響楽団
〈出演〉
指揮:カーチュン・ウォン
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
合唱:日本フィルハーモニー協会合唱団、武蔵野合唱団、東京音楽大学合唱団、杉並児童合唱団
ソプラノⅠ(罪深き女):船越亜弥
ソプラノⅡ(悔悟する女):吉田珠代
ソプラノⅢ(栄光の聖母):三宅理恵
アルトⅠ(サマリアの女):花房英里子
アルトⅡ(エジプトのマリア):中島郁子
テノール(マリアを崇める博士):宮里直樹
バリトン(恍惚の教父):青山貴
バス(瞑想する教父):加藤宏隆
合唱指揮:浅井隆仁
音楽アシスタント:小林雄太
音楽アシスタント:湯川紘惠
〈曲目〉
グスタフ・マーラー:交響曲第8番《千人の交響曲》変ホ長調
グスタフ・マーラーの交響曲第8番の第2部において歌われるのは、ゲーテが文字通り生涯を懸けて書いた戯曲にして長大な詩篇『ファウスト』第2部の最終場のテクストである。作曲家は、ゲーテが上演の手引きとして書いた情景を説明するト書きも総譜に書き込んだ。それによると、荒涼とした山あいの岩陰に聖なる隠者たちが潜んでいる。やがて「神父 Pater」として音楽に呼び出されることになる彼らは、声を立てることなく祈っているのだろう。その祈りの息遣いが、第2部のオーケストラによる前奏の初めに、低音から空間に染み渡るように響いてきた。それとともに音響に深い奥行きが生まれ、祈りの空間に引き込まれた。
交響曲の第2部の冒頭では、全曲を貫く動機が大地の脈動のように響くのに乗って、憧憬に満ちた旋律が木管楽器によって奏でられる。懇願するようでも、打ち震えるようでもあるその響きが静まっていくと、今度はヴィオラ以下の弦楽器、そしてクラリネットとファゴットが同じ旋律を奏でる。それがホルンに渡されると、一つのコラールが柔らかく鳴り渡った。その響きは隠者たちの祈りの息遣いを伝えるとともに、同じ谷間に息を潜めている生きとし生けるものを包むようでもあった。その温かさには、マーラーの第8交響曲によって創立70周年を記念しようとする日本フィルハーモニー交響楽団のアンサンブルの特徴が表われていた。
ここから展開する第2部に、カーチュン・ウォンの指揮による演奏の真価が示されていた。オーケストラの響きが第1部以上に厚みと力強さを増し、魂の救済の場を見事に織りなしていた。その場の光景は時にうねるように求心力を増しながら無数の祈る魂の熱を伝え、また時に、作曲家が歌曲集《少年の不思議な角笛》以来親しんできたメールヒェンの世界に含まれる、生物の境界を軽やかに乗り越えていく幻想を伝えるというように目まぐるしく移り変わっていくが、その移行を自然な運びで伝えるウォンの指揮は、数えきれないほど多彩な声を響かせ、急峻な谷間に象徴される、辛苦に満ちた地上の生の救済を予感させるにふさわしいものだった。
一体感に満ち、しばしば炎の塊のようにも迫ってきた合奏もさることながら、それが静かに背景を形成するなか、声楽の美しいオブリガートとしてヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの独奏が響いた一節も印象的だった。さらに、交響曲第7番以来の楽器の多彩さが見事に生きていたのも感銘深い。第8交響曲におけるマンドリンなどの導入は、より広い空間を開きながら、魂の震動と万象の鳴動との共鳴を予感させるために必要だったのかもしれないとも思わされた。第1部のコーダも含め、客席に配された金管楽器が非常に効果的に用いられていたことも忘れがたい。オルガンとも共鳴しながら、会場全体に巨大な空間を造り上げていた。
第2部においては、合唱を含む声楽の緊密なアンサンブルのなか、それぞれの独唱が際立っていたことも特筆される。なかでも「恍惚の神父(バリトン)」を歌った青山貴の声は、冒頭のコラールとも呼応する温かさと豊潤さを合わせ持つことによって、谷間の風景を描くかたちで響き始めた命あるものたちの祈りを集約していたと思われる。変容したグレートヒェンの魂と言うべき「悔悟する女(ソプラノII)」を歌った吉田珠代の声も切々と響いてきた。そして、その祈りに呼応するかのように、「栄光の聖母(ソプラノIII)」を歌う三宅理恵の声が客席から「来なさい!」と響いたとき、天上から柔らかな光が射してきたように感じられた。
今回の演奏における独唱者のなかでとくに重要な役割を果たしていたのが、「マリアを崇める博士(テノール)」を歌った宮里直樹だろう。輝かしい声で合唱を含めた声楽を天へ導いていた。「仰ぎ見るがよい」という呼びかけが温かく響きわたったのが印象に残る。それに応えて至福を祈る合唱は、そこに至るまで緊密なアンサンブルを示していた。舞台横と後方の三つのブロックを占めるかたちで配された四つのグループから成る合唱は、第1部から一貫してそれぞれの役割を果たしながら呼応し合っていた。杉並児童合唱団の確然としたアンサンブルが、響きに光を添えるかたちで変容した魂の姿を伝えていたことはとくに印象的だった。
「すべて移ろい行くものは/あくまで比喩(たとえ)のようなものにすぎない」。こう始まる終結の合唱を、作曲家はピアニッシシモで始めている。この一節の響きは会場のすみずみに、そして救済を希う者たちのいる谷底まで染み透った。ここまで深い最弱音がありうるのかと思った。「永遠に女性的なるものが、/私たちを高みへと引き上げるのだ」と結ばれる歌は、聴く者の心を満たすように響いた。空間全体の鳴動を感じながら、ここに至るまでに積み重ねられた努力にも思いを致さざるをえなかった。今回の演奏に関しては、四つの合唱団体の響きを見事にまとめ上げた、浅井隆仁をはじめとする指導者の仕事も特筆されるべきだろう。
合唱のアンサンブルは、「来たれ、創造主たる聖霊よ」と始まる「聖霊降誕祭の賛歌」にもとづく第1部から強い求心力を示していた。冒頭から勢いに満ちた響きが会場を満たし、とくに第1部半ばの二重フーガの部分は、速いテンポで繰り広げられたが、合唱とオーケストラの各声部の輪郭が見失われることはなかった。以前にウォンの指揮で武満徹の《弧 Arc》の演奏を聴いたときにも感じたが、複雑な構造を見通しよく、かつ推進力を保ちながら展開させる統率力には、際立ったものがある。交響曲第8番の第1部では、音楽の若々しい躍動が、祈りの一途さに結びついていた。そのなかで「平和を授けてください」という願いは切実に響いた。
今回のマーラーの交響曲第8番の演奏では、先に述べたように第2部の濃密な展開が特徴的だった。それは苦難に巻き込まれながら、幾重にも罪を負った地上に生きる者たちの魂が、天に救い上げられ、至福に満たされることを予祝するに至る。その響きが会場に染み渡り、聴く者を温かく満たすのに耳を澄ましながら、ゲーテの『ファウスト』の最終場を音楽化したこの第2部が、性、民族、宗教、生物種などのあらゆる境界を越えた救済へのオラトリオとして浮かび上がるのを感じていた。第1部は、このオラトリオを貫く祈りへ魂を導く壮大な序奏と言えようか。作品全体の構造とその意義もあらためて見直させる第8交響曲の演奏だった。
今回の演奏が行なわれた翌日、6月22日に日本フィルハーモニー交響楽団は創立70周年を迎える。このオーケストラは、1956年6月22日に日比谷公会堂で、渡邉暁雄の指揮で最初の演奏会を開催した。創立記念日の前夜に行なわれたマーラーの交響曲第8番の演奏では、カーチュン・ウォンの統率の下、オーケストラ、合唱、独唱者が瞠目すべき集中力で一体となって、生命力に富んだ響きで会場を満たした。このことは、東京に拠点を持ちながら、毎年ツアーが組まれる九州をはじめ、列島各地に音楽を温かく伝え続けているこのオーケストラのアンサンブルが、ウォンの指揮の下でさらに深化することを予感させる。
※歌詞の日本語訳と人物名の日本語訳は、プログラム所載の歌詞対訳による。(2026/7/15)
[Performers]
Conductor: Kahchun Wong
Orchestra: Japan Philharmonic
Choir: Japan Philharmonic Association Choir, Musashino Choir, Tokyo College of Music Choir, Suginami Children’s Choir
Soprano I (Sinful Woman): Aya Funakoshi
Soprano II (Confessor): Tamayo Yoshida
Soprano III (Our Lady of Glory): Rie Miyake
Alto I (The Samaritan Woman): Eriko Hanafusa
Alto II (Mary of Egypt): Ikuko Nakajima
Tenor (Doctor of the Venerable Mary): Naoki Miyasato
Baritone (Godfather of Ecstasy): Takashi Aoyama
Bass (Meditating Father): Hirotaka Kato
Chorusmaster: Takahito Asai
Music Assistant: Yuta Kobayashi
Music Assistant: Hiroe Yukawa
[Program]
Gustav Mahler: Symphony No. 8 “Symphony of a Thousand” in E-flat major




