劇団不労社『サイキックサイファー』|内野 儀
「s」が声になり、アリスが穴から戻るまで—劇団不労社『サイキック・サイファー』を音楽劇として聴く
Until an “s” Becomes a Voice, and Alice Returns from the Rabbit Hole: Listening to Gekidan Furosha’s Psychic Cypher as Music Theatre 
Reviewed by 内野 儀(Tadashi Uchino)
PHOTOS by 宮澤響 /提供:劇団不労社
劇団不労社『サイキック・サイファー』公演
2026年5月29日 調布市せんがわ劇場
出演:荷車ケンシロウ むらたちあき 永淵大河 西田悠哉 (以上、劇団不労社)
作・演出:西田悠哉、音楽:in the blue shirt、劇中映像:岡本昌也、舞台装置:竹腰かなこ、 照明:中村仁、音響:おにぎり海人、 舞台監督:しますえ茶髪、演出助手:上村陽太郎・田中陽太、ドラマトゥルク:森岡拓磨・三橋亮太、制作:劇団不労社 制作部
劇団不労社『サイキック・サイファー』(作・演出=西田悠哉、音楽=in the blue shirt)は、物語の本編へすぐには入らない。まず四人の俳優が、役名ではなく自分自身の名を含むヴァースを受け渡し、マイクと身体によって上演の環境を整える。荷車、永淵、むらた、西田という固有名は、まだ役柄に回収されないまま、リズムのなかで観客の前に置かれる。ここで観客は、誰が、どの声で、どの身体としてその場にいるのかという、上演の前提そのものを受け取ることになる1)。
この前奏とこの劇の中心を担う有栖真実(むらたちあき)の来歴についての断片的場面を経て、舞台は深夜のローカルなコンビニエンスストア「サンキュウ」へ入る。そこで音は、地声になって〈小さく〉なるのだ。客が来るたび、店長(永淵大河)は「サンキュウで~す」と声を張る。だが新人アルバイトの
有栖の口から出るのは、「……s」という歯擦音だけである。言葉にならない、というより、言葉になる直前の息だけが、レジの定型句のなかに引っかかっている。店長は「歯擦音なんですよね」と困惑し、「腹から」「丹田」などと、いかにも職場研修らしい言葉で矯正しようとする。ここで起きているのは、失語の内面を説明するというより、声を出せない身体が、コンビニの接客音声という制度にさらされるという出来事である2)。
この作品を音楽劇として論じるなら、出発点はここに置かれるべきだろう。ラップ・ナンバーはもちろん重要だが、劇の〈本編〉に突入して以降のラップは、唐突に挿入されるわけではない。上演の核にある音は、入店音、支払い確認、店長の呼び込み、卯佐木(荷車ケンシロウ)の過剰な挨拶語であり、それらが反復されることで生まれる労働のリズムである。卯佐木が「ザスティン・ビーバー」「ザスティン・ティンバーレイク」と、挨拶から駄洒落へ、駄洒落から固有名へと滑っていくとき、言葉は意味を運ぶ前に、まず音として舞台を占拠する。
形式もその聴き方を促している。本作は「トラック」と「スキット」を交互に近いかたちで置き3)、ヒップホップ・アルバムにしばしば見られる曲と小場面の分節を、演劇の時間へ移している。音楽を手がける in the blue shirt こと有村崚は、サンプリング・コラージュや、細かく刻まれたヴォーカル・サンプルを特徴とする電子音楽家である4)。その手つきは、「点と点を繋いで、線を作る」という本作のモチーフとよく響き合う。会話、独白、ネット上の語彙、接客音声、英語の断片、数字、呪文めいたフレーズが切り刻まれ、繋ぎ直される。ここでは、台詞は音楽の外にあるのではなく、すでにサンプリングされた素材として鳴っている。
同じことは舞台装置にも言える。美術はごく簡素な、伸縮する金属のフレームとカンバス地のような布だけだが、コンビニの棚やレジになり、メタバースの空間になり、終盤には取り払われて「どこでもないどこか」になる。しかも、その変形は隠されない。登場人物たちが装置を動かし、建て替え、時には片付ける。装置は省略的な美術にとどまらず、世界は何によって変わるのか、あるいは変わったと信じられてしまうのか、という問いを、もっとも具体的なレベルで引き受けているのである。
そのメタバースを統べる男の名は、根尾という。演じるのは、店長と同じ永淵大河である。むろん『マトリックス』のネオなのだが、その役割は逆向きである。映画のネオが、赤い薬によって仮想から醒め、より過酷な現実へと目をひらくのに対し、根尾は仮想のサイファーへと有栖を引き込み、そこで「覚醒」させるのだ。世界は〈コトヴァ(言葉)〉でできており、〈コトヴァ〉で書き換えられる——それが根尾の教えである5)。そしてその書き換えは、俳優たちが装置を眼前で組み替える行為として実演されると同時に、有栖が「リアルは変えられる」と信じて世
界に陰謀の物語を上書きしていく過程としても進行する。赤い薬は、覚醒の薬であると同時に、妄想=ポスト真実への入口でもある。
有栖は、長く連れ添った相手を失った。それは恋人であると同時に、金と時間と思い出と言葉を奪った詐欺師でもあったらしい。舞台はその被害を心理劇として説明するのではなく、有栖の崩れた「心の臓」が「ビートを打ち始め」るという仕方で、悲嘆を音へ移す。過疎ったメタバースのサイファーでマイクを回され、「ワタシの名前は有栖です/有栖真実です」と口にするだけのことが、煽りとビートによって、身体全体を必要とする発声へ変わっている。「ワタシは有栖!有栖真実!」。ライヴリーなラップが突然生まれることで、名前を発語することがこれほど困難で身体的な出来事だということが、ここでは危うい感動として示される。
だから、その名が「有栖」であることは見過ごせない。終盤、自身が「アリス 穴に 嵌り 失くす 声と 語り」と韻を踏むとき、本作が『不思
議の国のアリス』を、かなり醒めた形で書き換えていることが分かる。卯佐木は白ウサギであり、有栖は穴=メタバースへ落ちるのだ。もっとも、かばん語めいた言葉の滑りが最も激しいのは、メタバースではない。むしろ深夜のコンビニという現実の職場でこそ、卯佐木の「思考垂れ流し」は、挨拶から商品名へ、英語へ、芸能人名へと止めどなく横滑りしていく。
メタバースのサイファーは反対に、その地上の駄洒落の混沌を、韻という秩序へと締め直す場として現れる。穴の底で有栖が手にするのは、いっそうの無意味ではなく、無意味を必然のように繋ぎ直す技術——韻である。アリス的ノンセンスの危うさは、まさにこの再秩序化の側にある。似た音、似た数字、似た記号を意味あるものとして接続する戯れは、固定した意味からの解放で
あるより先に、ポスト真実の妄想を育てる苗床になりうるからだ。
『サイキック・サイファー』のアリスは、不思議の国を旅して自由になりはしない。声と語りを失い、穴に落ち、そこで得た言葉で、3時33分、日本版緊急放送、NESARA/GESARA6)、世界同時クーデターといった語を、ひとつの〈真実〉へと収束する符牒として読み替えていく。ノンセンスは、意味から人を解き放つものではなく、偽りの黙示録を信じさせる接続の技法へと転じているのである。
ここで、韻と陰謀論は同じ運動を共有する。卯佐木は「点と点を繋ぐんです!」と言う。韻を踏むとは、音の似た言葉を結ぶことだが、その結びつきは意味の必然性を保証しない。むしろ、意味のないもの同士を、意味があるかのように結んでしまう聴取の快楽こそが韻の力である。店名「サンキュウ」、33番のタバコ「ホープ」、袋を付ければ999円になる会計、深夜3時33分、日本版緊急放送。それらの符合を「メッセージ」として読み解く有栖と卯佐木のエモさの昂揚は、韻を踏む快楽と寸分違わない。
舞台上でかなり情報過多な、陰謀論のヴァースをMCのように畳みかけるのは、黒子(作・演出の西田自身)である。ただし、本作は陰謀論的ヴィジョンの真偽を問題にしているわけではなく、むしろ、真ではないものがなぜ魅力的な物語として鳴ってしまうのかを、音と身体の問題として扱っている。陰謀論の内容そのものは必ずしも肯定されないが、それを信じる者の欲望だけは、上から目線で笑い捨てるわけにはいかないのである。
そのためにも、社会の手ざわりは抽象化されるべきではない。ここで言う手ざわりとは、貧困や孤独の一般論ではなく、閉店しかけたローカル・コンビニ、盗まれた商品、勤続しても抜け出せないアルバイト、誰も集まらないメタバースといった具体物のことである。金がない。居場所がない。仮想空間ですら過疎っている。陰謀論は、ここでは単なる愚かさではなく、そのみじめさに差し込まれるチープな救済物語として響く。有栖と卯佐木が待つ3時33分の「日本版緊急放送」とは、隠された真実が明かされ、NESARA/GESARA によって借金や経済的不平等が帳消しになるという夢である。二人が待ち望む「黄金時代」もまた、抽象的なユートピアではない。現実の負債と貧しさが一晩でなかったことになる、徳政令の夢にほかならない。
だが、カウントダウンの果てに訪れるのは黄金時代ではなく沈黙であり、スマートフォンにかかってくるのは「酔っ払いの間違い電話」である。外では「外国人に襲いかかったヤツ」がいたと店長が報告する。虚構の黙示録を待つ者たちの足元には、すでに現実の暴力が転がっている。その直後、卯佐木は店長に襲いかかり、「レプティリアンなんでしょ!/ゴムマスク被ってるんでしょ!」と叫ぶ。しかし本作は、陰謀論を安全な笑いへ回収しない。声を得ること、韻を踏むこと、誰かと世界を読み替えることが、いかに容易に暴力へ接続してしまうかを、観客の前に置くだけである。
だから終幕は、単純な断罪では終われない。有栖は卯佐木に「ありがとう」と言い、卯佐木も「ベロ楽しかったす」と返す。二人がハイタッチすると、松脂の粘りによって手は離れなくなる。連帯とは、粘ついて、ぎこちなく、しかし確かに手に触れるものだ。もっとも、その粘りは、二人が妄想を共有したまま貼りついて離れないという呪縛でもある。
幕切れ近く、四人の俳優が再び素の名でマイクを回し、むらた/有栖が音響卓を操作して音楽を止める。そして松脂の缶の粘つきを確かめ、沈黙の果てに「……はじめよう、サイファー」と呟く。この一言は、冒頭のトラックの結びをそのまま反復しており、劇はぐるりと一周して出発点へ戻る。サイファーとは、暗号=意味を解き、また与える作業であると同時に、ラップの輪のことでもある。
けれども幕切れの有栖は、誰かと輪をつくっているわけではない。音響卓のかたわらに一人、音を止めたまま、それをもう一度「はじめよう」と言うのだ。松脂のように、いちど触れたら離れない——声を取り戻させもすれば、妄想を呼び込みもする、その意味づけの反復だけが、偽りの救済の代わりに残されている。
ただ、この回復の物語には、古典的な図式が影を落としてもいる。有栖を失語させたのは男であり、その有栖をサイファーへ導くのも、卯佐木と根尾という二人の男である。男に奪われた女の声が、別の男たちの導きで戻るという構図は、ピグマリオン以来くり返されてきたものであり、不用意には受け入れられない。
だが本作では、導いた男たちの枠組みのほうが先に立ちゆかなくなる。待ち望まれた黙示録は沈黙と間違い電話のうちに崩れ、卯佐木の反乱は空振りに終わる。根尾はといえば、メタバースの住人である以上、この顛末の場に現れようがない。コトヴァで世界を変えられると説く者は、コトヴァの世界の外には出てこないのであり、現実の帰結を身体で引き受けるのは、現実の側にいる者たちだけである。
それでも、韻という技術だけは有栖の手に残る。終盤のヴァースでは「信じられるのは この身体 この声 この時間 この音」と言い切り、幕切れには音響卓——ビートを止め、また始める操作の座——に立つ。マイクを渡される側から、音を司る側へ。だから最後の「はじめよう、サイファー」は、根尾の世界への回帰ではない。教義を剝ぎ取られ、身体と声と音へ繋ぎ直されたサイファーを、有栖がみずから開始し直す宣言である。古典的な救済譚は反復されながら、その所有権だけが、確実に書き換えられている。
畳みかけられる言葉の情報量は相当で、聴き手を消耗させもする。だが本作の成果は、その過剰を欠点としてではなく、主題そのものとして鳴らしたところにある。「s」しか出せなかった有栖が、韻を踏むことで名前を取り戻す。そして、まさに同じ韻——似た音、似た数字、似た記号を結びつける力——が、有栖を「999」や「ホープ」を啓示として読む者へと押し流す。声の回復と妄想への墜落は、別々の場面にではなく、一つの運動のなかに響く。観客はそれを、議論としてではなく、ビート、間、沈黙のなかで聴くことになる。こうして本作は、ラップを素材にした演劇というより、言葉が意味を取り戻す瞬間と、意味があふれて妄想へ転じる瞬間とが、どこで地続きになるのかを聴かせた、尖った電子音楽劇になるのだ。
註
1) 本作は第15回せんがわ劇場演劇コンクール参加作品で初演は2025年5月25日。オーディエンス賞受賞を受けての再演である。上演台本は手元に二種類ある。筆者がたちあったせんがわ劇場再演(2026年5月29日)時の版と、その後のロームシアター京都における野外の上演版である(6月12~14日)。後者に掲載された《上演にあたり》においては、「本作はヒップホップおよび陰謀論のメカニズムを、演劇作品として解き明かそうと試みたものである。従って、上演にあたっては『リアル』についての問題を常に中心に据えて考えなければいけない。この作品をフィクションとして閉じさせないためにも、冒頭のラップのリリックは演じる俳優本人が作詞することが望ましい。それこそがリアルとフェイクを越境し、混線させるための儀式となるだろう」(強調は引用者)と書かれている。
2) 以下、上演の内容説明は、せんがわ劇場上演時における劇団不労社『サイキック・サイファー』上演用台本による。特に頁数は示さない。
3) 戯曲上は「トラック」「スキット」等と表記されており、上演でもトーンの変化でその差異は感知可能である。
4) in the blue shirt(有村崚)のプロフィールは本人公式サイトを参照(https://intheblueshirt.com/biography/)
5) 戯曲は巻頭に二つのエピグラフ——エリック・ヒューズ「サイファーパンク宣言」と、映画『マトリックス』のモーフィアスの台詞(現実とは、つまるところ脳が解釈する電気信号にすぎないのではないか、という問い)——を掲げているが、いずれも上演では直接示されない。根尾の「世界は言葉でできており、言葉で書き換えられる」という教えは、このモーフィアスの命題を「現実は言葉にすぎず、信じれば書き換えられる」へとずらしたもの、と読むこともできる。たとえば以下のような台詞。根尾「チミたちはまだ気づいてない!自分の持っているコトヴァの力に。世界はコトヴァで作られているということ、そしてコトヴァで世界を変えられるということ!」(略)根尾「今、人類は危機に瀕している!私の仕事は言葉の戦士を育てることだ」(略)根尾「いずれ、リアルは消失して、このバーチャル空間こそがリアルになる!肉体はもう意味をなさなくなる。しかしコトヴァだけは残り続ける」(「上演台本」より)
6) NESARA/GESARA 、即ちNESARA (National Economic Security and Recovery Act=国家経済安全保障改革法) 、米国の外ではGESARA (Global Economic Security and Recovery Act=世界経済安全保障改革法)として知られる徳政令的法律のことで、陰謀論的言説でよく登場する。たとえば、Bellingcat, “As QAnon Falters, European Followers Flock to a Financial Conspiracy”(2022年12月21日、https://www.bellingcat.com/news/2022/12/21/as-qanon-falters-european-followers-flock-to-a-financial-conspiracy/)等に詳しい。同記事は GESARA を QAnon と接続しつつも「何十年もたっている財政上の陰謀論(decades-old financial conspiracy)」と説明し、NESARA の起点を1990年代の ハーヴェイ・フランシス・バーナード(Harvey Francis Barnard) の経済改革案に置いているとしている。なお、上演で有栖が口にする英語名称は通常のものとは異なる(おそらくあえての)変異形である。
<Program>
Gekidan Furosha, Psychic Cypher
May 29, 2026 — Sengawa Theatre, Chofu (Tokyo)
Cast: Niguruma Kenshiro, Murata Chiaki, Nagafuchi Taiga, Nishida Yuya (all members of Gekidan Furosha)
Written and directed by Nishida Yuya
Music: in the blue shirt
Video: Okamoto Masaya
Stage design: Takekoshi Kanako
Lighting: Nakamura Jin
Sound: Onigiri Kaito
Stage manager: Shimasue Chapatsu
Assistant directors: Uemura Yotaro, Tanaka Yota
Dramaturgs: Morioka Takuma, Mitsuhashi Ryota
Production: Gekidan Furosha Production Team
(2026/7/15)

