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音楽劇の現在―現代能の試み|内野 儀 

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース
『未練の幽霊と怪物―「珊瑚」「円山町」―』
Kanagawa Arts Theatre’s Production:
“Unfulfilled Ghost and Monster – THE CORAL / MARUYAMA-CHO-” 
2026年2月13日 3月1日 
神奈川芸術劇場大スタジオ 
2026/2/13, 3/1 
Kanagawa Art Theatre Large Studio 
Reviewed by 内野 儀 (Tadashi Uchino) 
Photos by 引地信彦  

作・演出:岡田利規 
音楽監督:内橋和久 

〈出演〉 
アオイヤマダ、小栗基裕(s**t kingz)、石倉来輝、七瀬恋彩、清島千楓、片桐はいり 
謡手:里アンナ 演奏:内橋和久 

Written and Directed by Toshiki Okada 
Music Director: Kazuhisa Uchihashi 
Cast: Aoi Yamada, Motohiro Oguri (s**t kingz), Riki Ishikura, Kokoa Nanase, Chika Kiyoshima, Hairi Katagiri 
Chanter: Anna Sato, Performer: Kazuhisa Uchihashi 

 

今年に入っても、音楽劇が相次いで上演されている。コンテンポラリー・パンク・オペラを名乗る『鏡の向こう見えない私の顔』(演出・テクスト:川口智子、音楽・出演:鈴木光介、1月、スパイラルホール)、笠木泉脚本・稲葉賀恵演出『果てしない部屋』(2月、神奈川県立青少年センタースタジオHIKARI)、さらには額田大志が音楽・演出を担った山本卓卓作『われらの血がしょうたい』(2月、シアタートラム)など、いずれも既存のミュージカル形式とは異なる音楽劇の語法を追究している点が興味深い。老舗の劇団による音楽劇とは別に、比較的若い演出家や作家がこの形式に親近感を覚える背景には何があるのか。「なぜ今(さら)音楽劇なのか」という問いはいずれ総括的に論じられるべきテーマである。 

今回取り上げる演出家・小説家・劇作家の岡田利規については、ごく最近、世阿弥の『花伝書』と『三道』を現代語訳して出版(河出書房新社、2026年)するかなり前から、「能的なもの」としか呼べない上演の形式に取り組んできたことで知られる。音楽劇としては、震災直後の『現在地』(2012)もあった(音楽はサンガツが担当)が、ドイツに進出する大きなきっかけとなった作品は、夢幻能の形式を借りた、文字通りのタイトル『NŌ THEATER』(2017)だった。ミュンヘンのカンマーシュピーレからの委嘱により、日本語で書いた戯曲を独語訳し、岡田自身の演出で同劇場所属アンサンブルの俳優がドイツ語で演じた(初演の翌18年には京都で来日公演もあった)ものである。 

能の形式を借りた日本語での『未練の幽霊と怪物は、2021年に『挫波/敦賀』が神奈川芸術劇場の委嘱により上演され、今回はその続編となる『珊瑚/円山町』が発表された。前作に続き、内橋和久が音楽監督として関わり、今回は舞台上でのギターやダクソフォン等によるライヴ演奏に加え、奄美出身の里アンナが謡手として参加した。内橋が囃子方、里が地謡に相当する配置となり、能の構造への参照が明確である。 

本作は、夢幻能の枠組を土台にしつつ、沖縄・辺野古の海から別の海域に移植されて死んでしまった珊瑚(アオイヤマダ)と、1990年代にメディア報道で過剰に注目された「東京電力女性社員殺人事件」の被害者(小栗基裕)をシテとして扱う二本立てである。問うべきは「なぜ能か」ではなく、「なぜ今、能なのか」である。夢幻能において重要なのは、霊の告白が過去の再現ではなく、劇場の現在における再演=現前だという点だ。幽霊は劇場の時間の中にしか存在しない。そして岡田は、古典の形式を翻案するのではなく、その構造的な論理を現代の問題系に接続しようとする。 

「珊瑚」では、米軍基地移設のため、辺野古の生息地を追われた珊瑚(ヒメサンゴ)の霊がシテとして現れる。前場で「懐かしむ女」としてワキ(「物書きの端くれ」)(石倉来輝)と案内人の「比嘉さん」(ワキツレ、清島千楓)と対話しつつ、後場ではヒメサンゴの霊として、アオイヤマダの身体が言語に還元されない動きを提示する。コンテンポラリーダンス的身ぶりで構成されるその動きは、珊瑚という生物の「未練」を、感傷に寄らずに舞台に立ち上がらせる。作品が扱うのは、辺野古問題そのものへの直接的主張というより、争点化されて社会的な議論の俎上に載せられ、やがて忘却されてゆくプロセスにおいて、声なき存在がどこへ帰るのか、という問いである。 

岡田は能の人物を「鏡」として語ることがあるi。観客は舞台を観るのではなく、舞台を通じて自分の内側に生まれるものと向き合う、というのだ。固有の地名が挙げられつつも、珊瑚の未練は特定の地域問題に閉じず、「忘却」というより普遍的な形式へ接続される。ただし普遍化しすぎる危険もあるが、テクストに具体的な地名や実情を丁寧に残すことで、その傾斜を抑えている。 

「円山町」は、より複雑な倫理の層を持つ。ワキである「新社会人になる女」(七瀬恋彩)が、かつてこの街(=東京・渋谷の円山町)で生き、そして殺された女性の霊と出会う構図は、世代の差をこえて「おなじ戦場」に立つ感覚を呼び起こす。1997年の事件をめぐる当時の報道は、彼女の生を「昼はエリート会社員、夜は円山町で〈春をひさぐ〉女性」という「落差」をあえて強調する単純化されたスキャンダラスな物語へと回収したからである。

「花を手向けに来た女」が語るモノローグでは、「真相はわからない」と言われるが、「ボーダーラインの、ヒョイって、向こう側にいってみせた。その凄み」こそを「わたしは清々しいとおもって、それに励まされもして、生きてきた」と語られる(上演台本による)。メディアが構築した像そのものに揺さぶりをかけるのだ。そして、小栗基裕を配役したために、被害女性を特定の身体へと固定しない批評的効果だけでなく、被害者の生の複数性——職場での闘い、夜の街での闘い、そしてそのどちらにも回収されない裂け目——を宙吊りのまま可視化することが可能になった。 

 岡田は「円山町」において、被害者を英雄化も悲劇化もしない。夢幻能の形式においてシテは自らの未練を語り舞うが、それは告白ではなく、現前化である。なぜその人物がそのような生を生きたのかという因果論的な説明は多くは与えられない。与えられるのは、未練という存在論的な状態である。これは単なる「声の回復」ではない。声は与えられるのではなく、問い返しとして現れる。観客はそれらの未練の前に立たされることで、その未練を生み出した社会の側に自分が属していることを静かに認識させられるのであるii

片桐はいりが演じるアイ(間狂言)の扱いも特徴的である。能におけるアイの機能は曲種や流派によって異なるため一般化はできないが、しばしば場面転換や文脈補填を担う。岡田版の「珊瑚」のアイ(「近所のひと」)と「円山町」のアイ(「花を手向けに来た女」)は、社会的情報の補填・記憶の継承という、通常より重い機能を負う。説明量が多いと感じる観客もあり得るが、能形式に不慣れな観客への道標としても働く。

 内橋のダクソフォンとギターが生み出す音(響)は、囃子方的役割を担いつつ、多様な情感を呼び込む。なかでもダクソフォン特有の電気的だけでない「染みる」音(響)は、観客側の感情移入の促進だけでなく、上演進行のテンポ設定や身体と言語の間に生じる亀裂を維持する役割まで果たすのである。里アンナの謡もまた、異なる声の論理を持ち込むことで、能の謡の様式を別の倍音系に置き換える。言葉と音楽の境界はしばしば溶解し、意味の確定が先送りされ続ける。 

 岡田はこのシリーズについて「忘却への抵抗」という文脈で語ることがあるiii。ザハ・ハディド(「挫波」)、もんじゅ(「敦賀」)、辺野古の珊瑚、「東京電力女性社員殺人事件」の被害者。これらに共通するのは、かつて社会的な文脈の中で激しく議論の対象となり、やがて議題から消えていった存在たちである。夢幻能が「幽霊が現れる」形式であるとするなら、岡田作品は「忘却された者(物)が帰ってくる」という構造を持つ。重要なのは、それらが正義の側として帰還ではなく、未練を持った存在として、すなわちなお終わっていない問いとして帰還するという点である。だから、能を現代に蘇らせた云々ではなく、この「終わっていない問いとして」の帰還を現前させるという上演の哲学こそ、他に類を見ない岡田の同時代的な批評性の源泉だと、指摘すべきなのである。 

(註)

i. https://magazine.recri.jp/entry/2026/02/22/210000

ii. この二作品は、ソワレ(夜)の公演では「珊瑚」「円山町」の順で、マチネ(昼)の公演では「円山町」「珊瑚」の順で上演された。私はその両方を見る機会があったが、見終わった後の感じは、ずいぶんとちがっていた。このことについて岡田は、筆者の質問に対し、世阿弥の陰陽の考えを援用した結果だ、と語ってくれた。あくまでも相対的ではあるが、「珊瑚」が陽(的)で、「円山町」は陰(的)である。

iii. 例えば、以下のようなHPにおける岡田自身の解題的発言。「社会とその歴史は、犠牲者としての未練の幽霊と怪物を、ひっきりなしに生み出して来て、今だって生み出し続けています。わたしたちはそれら幽霊や怪物のことを見ないこと忘れてしまうことを、その気になればできちゃうし、そのほうが快適な向きは確かにある。でもそれらに、つまり直視しないこと忘却することに、抗うために、能という演劇形式が持つ構造を借りて、音楽劇を上演します」(https://chelfitsch.net/activity/2025/10/kaat.html)。

(2026/3/15)