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自選<ベスト・レビュー>&<ベスト・コラム>(2024年)

自選ベストレビュー          →<ベスト・コラム>

本誌 2024/1/15 号〜2024/12/15 号掲載のレビューよりレギュラー執筆陣中8名が自選1作を挙げたものである。

◆秋元陽平(Yohei Akimoto)
マーク・パドモア(テノール)&大萩康司(ギター
2024/11/15号 vol.110

類似プログラムのコンサートとの対比、思想史的なパースペクティブなど、演奏会を聴く枠組みをいくつか設定することを試みた。必ずしもそれが上手く行くとは限らないが、演奏はその巧拙以前に、プログラムの意図とアプローチの選択によって条件付けられている。

◆大河内文恵(Fumie Okouchi)
濱田芳通&アントネッロ結成30周年記念公演 第17回定期公演 モンセラートの朱い本 聖母マリアの頌歌集
2024/6/15号 vol.105号

レビューというのは、1本の線で貫かれたスッキリとしたものが理想的だと私は思う。しかしながら、多様な内容を含むコンサートにこれを当てはめるのは難しい。アントネッロのコンサートはいつも聴きどころが多すぎてどこに焦点を絞ったらよいか非常に悩む。この回は開き直って全部盛り込むことにした結果、ある意味、当誌らしいレビューになった。

◆丘山万里子(Mariko Okayama)
Contra Trio 東京公演 第1夜
2024/8/15号 vol.107号

ドイツで結成されたContra Trioの真夏の夜の来日公演。通常チェロをコントラバスで演奏、に惹かれて出かけその斬新な編曲力と小さなキャパでの臨場感、雑多な客層の多様性、まさにリアルと豊穣を心底楽しみ「書を捨てよ町へ出よう!」と快哉した喜悦がそのまま筆に。

◆柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
フランクフルト歌劇場《ルル》
2024/12/15号 Vol. 111

今年書き継いできたなかで、フランクフルト歌劇場で観たアルバン・ベルクの《ルル》の上演の批評を挙げたのは、何よりもこれを今後の《ルル》およびベルクのオペラの研究、そして現代のオペラ上演の批評の再出発の契機にしたいという思いからである。今回新演出で上演された《ルル》のフリードリヒ・ツェルハによる補筆完成版は、現代の音楽をめぐる重要な人物が交差する磁場であるだけでなく、現代社会の問題が凝縮される焦点でもある。演出と演奏が噛み合ったその舞台を、写真とともに関心ある人々と分かち合えたのは幸いだった。来たる年も精進を重ねながらオペラの上演に臨みたい。

◆齋藤俊夫(Toshio Saito)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団みなとみらいシリーズ定期演奏会第397回
2024/8/15号 vol.107

音楽がその根本において「いかに鳴るか」を求めるものであれば、音楽批評もまた「いかに語るか」を志向するものではあるまいか。同時に、音楽が個性的たらんとするように、音楽批評も個性を示さねばならないのではないだろうか。となると音楽批評は畢竟「文体の個性如何」に集約されると言えるだろう。では、私の文体の個性は?となるが、それは子供のころ夢中になった椎名誠と山下洋輔に影響された「アジビラ的文体」となるのではないか? そんな文体の典型・頂点である今年のベストレビューとして2021年と同じくまたしても井上道義・松田華音による伊福部音楽の本レビューを挙げるものである。彼らの伊福部昭を前にして自分の地金が出てしまったのかもしれないとも思いつつ。

◆藤堂清(Kiyoshi Tohdoh)
コンスタンティン・クリンメル&ダニエル・ハイデ
2024/5/15号 vol.104号

レビューを書く際には、そのコンサート、公演がどのようなものであったかということが、時間を経ても分かるようにしておきたい。特に、演奏者に関するその時点での情報は、できる限り明確にしておく。さらに演奏の特徴と考えた点をはっきりと記述することが重要と考える。ベスト・レビューとして挙げたこの評では、演奏者の現在の状況、そして当日の演奏の特徴にふれ、ある程度文章化することができたと考える。何年後かに同じ演奏者のコンサートを聴いたとき、今の彼とどのように違うのか判断する基軸とできるだろうと思っている。

◆西村紗知(Sachi Nishimura)
オーケストラ・プロジェクト2023――リゲティ生誕100年、ラフマニノフ生誕150年、ロマンの断絶を超えて
2024/1/15号 vol. 100

2024年はメルキュール・デザールではコンサート評をこれ以外に書かなかった。コンサート評を書くには反射神経が大事だと思っているのだが、最近少し鈍っている感じがある。ところで、レヴューを書くときに最近よく、書いたら本当にそうだったことになるのではないか、と私は懸念する。私が実際に見聞きしたのだから嘘ではないにせよ、作品経験は様々な誤解や移ろいやすいものが交錯する場なのだと思うと、テクストにすることはそこでのうごめきを停止させてしまうような、そういう気がする。美は現実ではない。

◆藤原聡(Satoshi Fujiwara)
読売日本交響楽団 第635回 定期演奏会
2024/3/15号 vol.102

言うまでもなくコンサートは一回性のものだから想定外のことは常に起こりうる。それにしても、だ。ここに挙げた拙稿、自身の文章の出来云々ではなくあまりに劇的なシチュエーションに不意打ち的に遭遇してうろたえ、たじろいだ記録として今読み返してもどうにも平静でいられない。
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自選<ベスト・コラム>

本誌 2024/1/15 号〜2024/12/15 号掲載のコラムよりレギュラー執筆陣5名が自選1作を挙げたものである。

◆丘山万里子(Mariko Okayama)
カデンツァ最終回|もう一つの旅を終えて〜回れ、観覧車
2024/7/15号 vol.106号

9年務めた編集長退任の最後のカデンツァ。次へと手渡せる安堵感と、共同編集長制という斬新な方式を全員一致で決議したメンバーへの感謝とともに、新たなステージへ向けて自分もまた最初の一歩を踏み出そうと思えた。刺激し合い、鼓舞し合える場であり続けるために、その一員として深く感じ、深く考え、心をいつも動かしつつ、日々研鑽を積んで行きたい。

◆柿木伸之(Nobuyuki Kakigi)
プロムナード|眠れるミューズの口許
2024/7/15号 vol. 106

今年書き継いできたなかで、現在の美学的な問題意識を率直に表わしているものとして、プロムナードに寄せた「眠れるミューズの口許」を挙げておきたい。ブランクーシの「眠れるミューズ」の彫像から触発された「うた」──それはミューズ、ないしムーサの神名とともに語られてきた──の源への問いを綴ったエッセイである。石牟礼道子が体現していたように、うたうとは自分を超越した何ものかに取り憑かれ、一種の霊媒と化す出来事であり、このとき多孔的な自己が生きられている。そのことを水俣をはじめとする場所の歴史的な文脈から浮き彫りにする省察が求められていよう。これに連なるかたちで、久しぶりに訪れたフランクフルトでベルクの《ルル》について考える機会が得られたのは幸いだった。

◆チコーニャ・クリスチアン(Cristian Cicogna)
アンドリュー・ワイエス展 ― ある屋敷に取り憑かれた画家
2024/12/15号 vol.111

今回、アートについてレビューを書いたのは初めてだが、水彩画が与えてくれた感動をそのまま日本語にできたのも初めてで、個人としては新しい領域に入った感じがした。

◆能登原由美(Yumi Notohara)
プロムナード|「何故ピアノなのか?という問いに」
2024/8/15号 vol.107

イスラエルの研究者が私に投げかけた問い、つまり、被爆楽器として注目を集めているのが日本の楽器ではなく、なぜ西洋渡来のピアノなのか、という点に触れたものだが、それへの応答として、丘山氏が3回にわたりコラムを書いてくださった。私の小さな記事が、氏の手により非常に大きな世界へと広がったことに驚くとともに、新たな発想の種を与えてくれたことはこの上ない喜びで、こうしたキャッチボールをもたらしたという点で2024年度の自薦ベスト・コラムとしたい。

◆松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
パリ・東京雑感|恋する鬼の神話を継承した『金色夜叉』
2024/5/15号 vol.104

西欧の小説家が、不倫を通じて愛の超越を描くのに成功したとしたら、日本の作家は、どうやって愛の永遠に達しようとしただろうか? 恋を拒んで逃げた若い僧を追いつめ、男が寺の鐘の中にかくまわれると、蛇に変身した女は鐘をぐるぐる巻きにして、恋の炎で僧を焼き尽くす――『道成寺』物語こそ、日本の愛の原型神話だと勝手に思い込んでいたが、『金色夜叉』を読んで、僕の独断と偏見に少し本当らしさが加わったように思った。日本文学の恋は、裏切りへの恨みの深さ、持続力によって、愛を永遠化する。貫一は、お宮の裏切りを恨み、高利貸しという<鬼>になって、苦悩と禁欲の生涯を送るのである。お宮が命をすり減らして貫一に謝罪しても決して許さない。許しを請う手紙をすべて読まずに焼き捨てる貫一の頑なさに、私たち日本人は愛の真実を読みとって感動してしまう。