評論|西村朗 考・覚書(38) 『清姫―水の鱗』〜殉愛と滅びの美・光・祈り|丘山万里子
西村朗 考・覚書(38) 『清姫―水の鱗』〜殉愛と滅びの美・光・祈り
Text by 丘山万里子( Mariko Okayama)
『清姫―水の鱗』は合唱指揮者田中信昭が1994年に創設した「新しいうたを創る会」による委嘱作品である。この会の趣旨は「外来のものだけでなく、私たちの精神生活の中から生まれたよい<うた>が、この社会にあふれるようになった時、その時こそ音楽文化が豊かに熟したといえるのだと思います。(中略)《いま、なぜ、どのように生きるのか》ということを求めつづけている、優れた「創作家」の方々と協力して活動を」1)というもの。筆者は初回1994年三善晃への委嘱初演『五柳五酒』を聴き、その存在を知った。
西村への委嘱は、少人数(20人程度)の合唱を主体とした舞台作品、編成は最小限のソリストと楽器、合唱の新たなレパートリーとして再演可能な形をとの要請であった。佐々木幹郎のテキストは西村の希望。『絵師』での西村の経験、『OROCHI』での佐々木の経験、そして両者で深めてきた合唱領域での「舞台作品」委嘱であれば、道成寺をテーマにした室内オペラの構想がすぐと練られ始めたのも自然な成り行きであったろう。
初演は2012年2月26日四谷区民ホールで室内オペラ『清姫―水の鱗』(ソプラノ、テノールの二人の独唱者、混声合唱とピアノのための)とスコアにはある。指揮:田中信昭、ピアノ:中嶋香、清姫:津山恵、安珍:高橋淳、合唱:新しいうたを創る会
前回触れた通り、『清姫―水の鱗』は清姫をヒロインとしたオペラだ。
清姫は安珍恋慕のあまり病死、その恋慕を託した雛人形が川を流れるうち、道成寺火災を告げる鐘音に安珍の所在と危機を知り、愛する人を救おうと蛇身に変化、岸辺にあがり寺へ馳せ、焼ける大鐘に水を吹きつけ、その冷えた身で鐘に巻きつき安珍ともに我が身も焼け死ぬ。
女の殉愛物語である。
『絵師』で、牛車の火炎に焼かれる愛娘、それを描く絵師良秀父娘の味わう火炎地獄を西村は描いたが、愛娘もまた父への殉愛に他ならない。さらに火焔にのまれての死。もっとも、良秀はその後自室で自死ゆえ、これを画道に殉じたとするのが芸術至上主義だが、果たしてどうなのか。
西村はこの火炎地獄を仕掛けた将軍に向け、最後の捨て台詞「あなたの地獄 その地獄の名は“虚無”!」を良秀に言わせている。この「虚無」とは何か、は筆者の一つの問いとして残っている。
それから13年後の『清姫―水の鱗』は、炎と水の物語。
『絵師』から本作までに、西村はどのような世界を歩んだか。
佐々木との出会いによって開かれた道。それを筆者は佐々木の「受苦」と西村の「大悲」と言ったが、本作に投影されているものは。その声は。
さらに『紫苑物語』への道は。
* * *
西村の解説2)、初演時の映像3)とスコアに沿って見てゆく。
Ⅰ)清姫渕〜恋
冒頭、pf.の2オクターブ近く飛ぶ単音の強い打音6ケのち最低音fから這い上がるざわわ上行形、ついでppからの胸突く単音トレモロ下降(f~e~d~cis)。のち、最低音f~f2oct.にわたる「※この間のすべてのkey(半音階の)を音を出さずに押し下げる」との指示。残響と倍音が生成するなんとも不穏な幕開けだ(この残響倍音書法は本作の響きの背景として常に要所に登場)。強烈なクラスター7打と単音cis1打のち一呼吸おき、con ped.a piacereで優しい和音と単音トレモロが続くが、accel.し左手低音下降oct.が水底に引き摺り込むように鳴らされcisに至る。このpf.序奏部は、清姫の烈しい心情が音響に氷結しているかに思われ、印象深い。
合唱はキッパリと始まる。
「紀伊の国 室(むろ)の郡(こおり) 真砂(まなこ)の里 風が秘密をうちあける 水が秘密をうちあける」
この合唱は、作品終尾でも繰り返される。日本音階風の抒情的pf.が淡くこれを包む。
富田川の清姫渕に立つ西村・佐々木はわたる風、輝く水面に清姫の恋の秘密を聴き取った。「水の鱗」の始点である。
「秘密をうちあける」に続くとりわけ女声のヴォカリーズ(aーー)のなだらかで柔らかな下降フレーズ(a~g~f~es~d)はどこか聖性を帯び心打つもので、「祈りのように」との指示。
この「祈りのように」に、筆者は立ち止まった。ふと合唱第1作『汨羅の淵より』(1978)の最終部分を思い出したのだ。が、これについては本作全景を見てのちとしよう。
この一瞬の祈りののち、清姫(sop.)ソロが来る。
「わたしはあの人が好き あの人もきっとわたしが好き
幼いときから川で泳ぎ 水は鱗のように 黄金(きん)の光を放ち
そのなかをくぐる 黒髪は長く しぶきをあげて わたしは裸身(はだか)
恋するときも わたしは裸身」
pf.がアルペッジョ、トレモロで輝く水面、泡立ちに、しなやかなソロの旋律を載せる。合唱がこれに相槌を打ち、その上に清姫のヴォカリー ズ(aーー)が情熱的にかぶってゆく。ついで、pf.の低音fisの震えるトレモロに誘われ安珍が入る。「暗い声でおそれ震えるように」との指示に「おおーー」と清姫「aーー」が重なりffでいったん休止。のち、「独白のように」安珍のセリフ(語りに近い)がくる。
「おそろしい 嵐のようだ わたしは僧侶 熊野参詣の旅の僧
流れ星がいっぱいの夜 あなたはわたしを見つめた そんな声で歌わないでーーー(後略)」
「歌わないで」の下での男声合唱「真砂の里の旅籠の娘」には「地謡のように」4)とある。これによって言葉は埋もれず、ソロの旋律と声を支える。
続く「風は秘密をうちあけないで」のあと、「重い鐘の響きのように」の指示でpf低音の一打がずしんと鳴らされ、すでに後半での道成寺大鐘を予感させる。
以降、合唱が物語進行や心情の内面を担う形で、重層的な構造を巧みに按配してゆく。『絵師』は初期より扱った和歌の朗詠の「詠み」を生かしたが、ここでは能楽、浄瑠璃(文楽)に近い語り物とし、いかに「語らせる」かを重視。その「語り・謡い」の手法は伝統邦楽の学びとともに、やはり佐々木の現代詩との協業によって獲得されたものと言えよう。pf.は背景、心情を描くが、初演ステージでは背景に照明とプロジェクターが使用され、それがpf.と同期することで一層効果をあげていた。したがって、2人のソリスト、合唱、pf.、照明、映像が組み合わさってのドラマは、濃密かつわかりやすく展開してゆく。この「わかりやすさ」は、題材そのもののポピュラリティとともに、西村・佐々木が最も心を砕いたものと思われ、それは十分に成功したと言えよう。
「けれど けれど けれど」と激しく清姫に抗い、仏道を極めんとする安珍ソロのここでのキーワードは終句、力強く宣言される「生きているすべてはーー まぼろし」だ。
これに清姫が、
「まぼろしだから 愛しましょう 歌も激しく歌いましょう 夢見ることは いけないことなの? あなたを待つのは いけないことなの?――(後略)」
と声を被せ、「生きているすべては まぼろし」との安珍の逡巡と、「待つわ 待つわ 待つわ」の清姫の決意が互いを退けるように重唱で歌われる。
ついで合唱が、安珍が迷う心を振り切って真砂に戻らぬ情景を伝え、安珍のアリア《降りつもれ》がくる。静寂なpf単音の柔らかな流れとともに、
「降りつもれ 降りつもれ わが身に夏の雪が降るなら 降りつもれ ここで凍りつく 恋の苦しみの一歩―――(中略)あの人を忘れよう 恋する人よ」
この「忘れよう 恋する人よ 恋する人よ」は繰り返され、ヴォカリーズ(a)で想いの丈の頂点へと登りつめ、pf.の低音一撃がそれを締めくくる。
これを受け、合唱がケチャ風急速リズムで「左に到れば真砂の里 右に到れば道成寺 ままよ」と安珍の足取りを刻む一方、安珍は「煩悩のきづなを切らずば またいつの世にか出離生死の縁ともなりなん」と歌い上げる。合唱の終句(f)「まなこの里には寄らなかった」が生む、冷え冷えとした音と声の断面! 第Ⅰ景、了。
ちなみに出離生死の縁とは生死流転の境遇から出離(解脱)する因縁のことで、今、この煩悩を断ち切らねば、この輪廻から抜け出せない、との意。この部分、西村のどこか皮肉っぽい音作りが興味深い。
Ⅱ)流し雛
日本音階風のノスタルジックなpf.の序奏と合唱のヴォカリーズ(o――)は第Ⅰ景「祈りのように」の音調の拡大形ともいえ、これにゆられ、「思いつめて」の指示で清姫が哀切に歌う。
「いつ いつ あの人が戻ってくるのはいつ? わたしは待ち焦がれて 狂いながら 病になりそうーー(中略) 風に揺れて 声もかすれて(a――) 夢も乱れて どこに どこにいるの 安珍さま」。
悲痛な叫びを追って、「遠のく安珍の心を知らずーー(後略)」と合唱が急速に畳み掛け、pf.が山道を転げつつ減速、単独後奏が疲れた歩幅を刻む。この辺りの緩急自在設計は見事だ。
そうして清姫のアリア《美しい花さえ》が優しいpf.に縁取られ歌われる。
「あなたはついに 戻らなかったーー(中略)
夢のなかのあの人は いまは いまは 顔もおぼろ
いえ いえ 追いかけることはしません 哀しみがわたしを (a)――追いかけて 病の底に追い立てて(a)――いまは、いまは、いまは 美しい花さえ憎い(a)―――ー」
pf.の重音連打が間に入る悲痛な絶唱である。最後のヴォカリーズ(a)は高音cis~d~a~g~fisと長い上下行のち消える。
慰めるようにpf.がそっと音を撒き散らし、合唱が「清姫や 清姫や お雛さまを川に流しましょう あなたの恋の病を治すためにーー」と呼びかけ、清姫は雛人形に恋慕を託す(CD解説には「祈りを込めて」とあるがスコアにはない)。
「雛(ひいな)よ わたしの身代わりになっておくれーー(中略)喜びも悲しみも、恋の苦しみも わたしとそっくりな顔で 何も言わずに聞いてくれた雛よーー(中略)――鱗模様の水しぶきのなかで わたしの身代わりになって わたしを救っておくれ(a)―――」。
語り、絶叫する清姫。そうして長いフェルマータののち、pf.のクラスターと残響(「ペダルを踏んだままで」の指示)。しばしの静寂から、「息絶えてゆく清姫 rit.e.morendo—-」の指示のもと「生きる水が欲しい 水が欲しい 水が欲しい」、繰り返し3回の小さな叫びは呟きとなって沈み、pppの中に消えてゆく。
「ゆらゆらと ゆらゆらと ゆらゆらと」雛の流れる清姫渕を描く合唱。「病は重く 立ち上がることはかなわず 天の黄泉路を上って行った」で一呼吸、pf.の鋭いクラスターと4 oct.gisが烈しく打ち鳴らされ(「するどい鐘の音が鳴る」と解説にはあるが、スコアにはない)、ペダルで保たれた残響に「忘れるくらいなら 生命を断ちましょう 苦しみを逃れられるのなら それが清姫の恋 清姫や 清姫や」。この第Ⅱ景終結部では、gisの鐘音が何度も楽句を受けて鳴り響く。
こう見てくると、合唱がそのまま真砂の土地の人々の清姫への愛憐に他ならないことが知れよう。土地を育む伝承の民の声だ。筆者はそこに、佐々木の共苦と西村の大悲を感じてしまう。清姫の想いに寄り添い、共に苦しみ、痛みを分つ心情がその声に、響きに映じている。さらに言えば、前景での安珍「煩悩のきづなを切らずば またいつの世にか出離生死の縁ともなりなん」のセリフに重なる合唱に筆者はちらと皮肉の影を感取したが、村の民たちが参詣僧侶らのうちに垣間見たであろうある種の権威臭への斜め目線、とも思えてくるのだった。
Ⅲ)水の鱗
第Ⅱ景からアタッカ、早鐘のごとき鋭いpf.のgis3oct.連打で入り合唱が「川を流れるお雛さま 鐘の音を聞いて むっくりと顔を起こした 海に向かう川の波は激しく 笹舟はくるりくるり」。
pf.アルペッジョの急流に巻かれる笹舟の「くるりくるり」の切迫が5小節続き、最後のff「くるりくるり」に、fffでpf.鐘音、低音クラスターのゴォ〜ン(ペダルで残響保続を指示)に高音カカカーン!が3回打ち鳴らされる。
佐々木がこの物語に雛流しを挿入したのは、清姫の恋慕を雛人形に形象化、川に流す必要があったからで、道成寺近く、雛流しの伝統のある淡嶋神社の示唆を受けてのことでもあろうが、その伝統の意味を掴んでの実に適切な手技であり、そこに佐々木の鋭い嗅覚を筆者は見る。清姫〜雛人形〜大蛇と流すことで、真砂の地霊を汲んだのである。西村もそれに音で応える。
むっくり顔を起こした雛すなわち「清姫の化身」の化身ソロ「あの音は 不吉 道成寺の方向 あの音は不吉 もしや安珍さまの身に何かが 山を越えて 知らせてくる 恐ろしき心のふるえ」が不安の極み、コロラトゥーラ的歌唱も交え無伴奏で歌われる。そこから一気に合唱 presto「山を越えて あかあかと 雛の頬に照らされる炎」では「山を越えて」5回、「あかあかと」6回、「ほのお」12回と畳み掛け(ケチャ風)、「道成寺炎上!」が3回pf.の烈しい刻みにのって叫ばれる。
まさに佐々木・西村の真骨頂、言霊が燃え上がり「たちまちのうちに水の鱗を巻き上げて 雛は変身 大蛇になった 大蛇になった」。「大蛇になった」も繰り返しで強調のち重い沈黙。文楽では口がパカッとあき、口裂け女に変化するシーンだ。
合唱pp「重く、不気味なまでに異様な雰囲気で」の指示で(o)ヴォカリーズ、清姫化身が「凄みを増して」徐々に声をずり上げてゆく。「(a)――助けなければ 安珍さまを 空を飛ぶ 水の鱗をまとってーー(中略)すべてを捨てて 南無観世音 満ちるものへーー(中略)わたしは変身 はや 大蛇の身となり 水の鱗をまとって 助けなければ 安珍さまを」と「南無観世音」を3回繰り返し、合唱(a――o――)ヴォカリーズ、pf.の恐ろしげなトレモロ、クラスターの烈しい音渦波濤が大蛇を揺すり上げうち砕き、アタッカで最終景へ雪崩れ込む。ここでの合唱のおどろおどろしいトレモロの蛇行ぶり、まさに迫力全開である。
Ⅳ) 道成寺炎上―昇天
合唱(ouou)、pf.as-gトレモロの凄まじいff>p<ff のうねり荒ぶる大波10小節ののち、両手oct.の連打がザザザザと撃ちこまれaccel.moltoで合唱「道成寺は燃え上がる 本堂が崩れ落ち 鐘楼が倒れ」の切迫に、安珍「炎に包まれて逃げまどう恐怖の叫びのように」の指示のもとソロ(a―――)fis~gis「絶叫!!」ff、グリッサンドの大波小波15小節、途中で合唱が加わり「安珍は必死に逃げまどい 落ちてくる大鐘のただなかに おお おお 閉じ込められた」と大錯乱の極み。仏典での火炎地獄そのままを思わせる。
pf.クラスターで息呑む一瞬ののちの静寂にpf. hから日本音階風に単音トレモロが下降、大蛇ソロ(無伴奏)が「どこにいるの 安珍さま わたしの二つの眼は血の涙 どこにいるの 安珍さま」と「狂おしく」叫ぶ。佐々木が疑念を持った「血の涙」をここで語らせ、合唱「大蛇は道成寺の階段を駆け上がり 口から水を吹き出しながらーー(中略)大蛇は大鐘の上に巻きついた 口から水を吹き出しながら」と大蛇の姿を描く。スタッカートのpf.単音刻みがその動きを活写ののちffクラスターを連打し沈黙。
その静寂の深い水底からpf.最低音cis 3oct.がゆったりと立ち昇り、薄霧のごとき水面に男声「南無観世音菩薩」女声「南無観世音菩薩」が静謐な音調で忍び入る。道成寺本尊千手観音菩薩の真言(マントラ)「オンバ ザラタラマキリク」とともに大蛇のソロ「一(ひと)巻き 二(ふた)巻き 蛇の身体で冷やし 三(み)巻き 四(よ)巻き 蛇の尾は火に巻きついて 炎よ鎮まれ たとえわが身が溶け落ちても 安珍さま あなたを抱きしめる 大鐘とともに抱きしめる」。この一巻き二巻きのくだり、里神楽「大蛇」などで巻きつく有り様を思わせ、民間伝承型をそのまま。冒頭には「※超自然的な凄みをもって ※強弱は自由に変化させて、つねに表情(苦痛と歓喜)豊かに ※しゃく熱の鐘にゆっくり巻きついて、身を焼かれながら、献身的な愛で安珍を救おうとする大蛇….その苦痛と官能的な歓喜!(クライマックス)」の筆跡がまさしく西村の尋常でない生理(苦痛と歓喜のエクスタシー)を生々しく伝えてくる。この種の生理は炎に悶える娘を凝視する『絵師』にもあった。
このソロ、解説では「大蛇のアリア」と書かれているが、スコアにはない。佐々木台本にこの真言もない。だが、西村が、佐々木が最も聴かせたかったところ、まさに両者抱き合って昇天した部分であろう。
保続低音のように響き続ける真言。渾身のアリアが「抱きしめる」(ここまで49小節もある)で閉じられると、「ここから力強くクライマックスを築きあげる」の指示でpf.の連打に合唱がg~as~a~bと半音上行で真言を唱えつつずり上がってゆき、8小節目で本作最大のクライマックスを迎える。
fff「スヴァハー」(成就あれ、の聖句)で「クライマックス!(祈願成就の喜びに輝いて!)」がスコアに躍る(この聖句については第29回『両界真言』参照)。合唱「オーーン」の下でpf.がアルペッジョを透明に撒き散らす。
大蛇のアリアからオーンに至る全72小節、ズーンと深く打ち込まれるoct.低音の半音階上下進行にのって昇り行く真言の大合唱、最後の「スヴァハー」の歓喜2回に至る音声(おんじょう)造形は、まさに西村の渾身・魂心のクライマックスで、その場に居合わせた全ての人々をその大坩堝に巻き込む西村最大の「あやしき」声と響きの聖・美の凝縮、結晶と思われる。「真言」というものの不可思議な力をここぞと使っての力技。西村が底の底に抱える原水世界、そこに呼び込む西村幻惑力全開放・全放出のエネルギー。その渾身、たとえば『紫苑物語』第2幕第6場「行 行 行」の連呼など及ぶものではない、と筆者は思った。
畢竟、音楽の神殿・聖堂とは「エロス」と「タナトス」、その陶酔と官能であり、ここに西村は音楽の王道をためらうことなく突き進み、壮大な神殿を築いてみせた。まさに現代の曼荼羅の完成形だ。それはたとえば18世紀西欧バッハ『マタイ受難曲』の殉教、19世紀ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の殉愛と何ら変わらない。人類普遍の「愛の型」なのだ。
そうして、pf. 合唱の優しいさざなみから「『終結部』—<霊的存在となってよみがえった清姫と安珍>」の二重唱がくる。
「超自然的で幻想的、かつ愛の成就の甘美な喜びをもって」とあり、
「この空の下で この世の光りのただなかで たとえ 二人が結ばれなくても
別れ歌などわたしたちにはない 嘆き歌などわたしたちにはない
心の糸は愛する人へ 全てを捨てて 満ちるものへ
わたしたち 死んでも愛する人のそばにいる
それが私たちの運命(さだめ)なら
抱きしめたい この空を
抱きしめたい この大地を」
が情緒纏綿と歌われ、pf.がこれをきららに彩る。合唱ともども、壮大な愛の讃歌だ。
最後は本作冒頭の合唱が回帰、だがその終尾は「重く暗めの声で、次第に遠のいてゆくように」となっており、「水が秘密をうちあける 風が秘密をうちあける」とppppへ沈むと、殴りかかるようにpf.がクラスターを13打、残響ののち一呼吸おいて 高音カカーンとpf.e,dis 3 oct.が宙を裂くように鳴らされ溶暗。
歓喜の成就・昇天をもやもや包む合唱の不穏、抱擁を突き放すかのpf.の甲高い衝撃音の意味するものは。カカーンは第Ⅰ景安珍「歌わないで 打ちあけないで」のソロの下で鳴る重い鐘音への応答ででもあろうか...。それとも昇天の瞬光?
が、なぜか筆者はここで『絵師』の終句「虚無!」を想起してしまったのである。
清姫の殉愛あっての安珍との愛の成就、相愛とは言い難い愛の形とやはり思える。
救いは千手観音でもあろうが、いや、とどのつまりは清姫の恋慕そのものの力にこそある、と、そのことを西村・佐々木は改めて伝えたかったのだろうか。
* * *
さて、第Ⅰ景で触れた「祈りのように」についてだが。
この指示で想起した『汨羅の淵より』は、中国古代の詩人屈原が憂国と悲憤のうち、中国湖南省北東部を流れる湘江支流の汨羅に投身死、その入水後を描く作品だ。4人の独唱者を伴う混声合唱という編成は本作と類似する。スコアを開き、その終部、男女ソロ4の「クンムジョーーー」の呟きののち、第190~結尾215小節に至る合唱開始部の頭に「静かに祈りをこめて」とあるのを見つける。当初、スコアなしでの筆者の聴取によれば、
「sopのaともoともつかぬヴォカリーズが浮遊する下で男声合唱が河底で何やらつぶやくというか唸るというか、蠢き、高揚の後、男声がソロで朗々と何か唱える(スコアがなく漢詩テキストもないので聴き取れず)。この朗唱は読経に近い。ポルタメント、グリッサンド、トレモロ、ヘテロフォニー、ドローンと、各声部で多様な絡み具合を見せ、大波小波細波と、そのうねり、ゆすり具合、上昇落下、滔々濁流の感覚はまさに入水の屈原の叫びと確かに聴こえる。河面、もしくは河岸での人声(人々が彼を助けようと船を出した)がわやわや騒ぎ、総勢でのケチャ。底知れぬ低音男声読経、風にのる口笛、河面に女声が長く尾を曳き沈んでゆく。『式子内親王の七つの歌』(1990/無伴奏混声合唱のための)の《しるべせよ》の情死、あるいは壇ノ浦平家の滅亡と全く同じ組成、音調である。ついでに言うと、『先帝御入水』(2007/混声合唱と独奏二十絃箏のための)もまたこの種の路線で、よほどこのテーマに引き寄せられるのであろう。」5)
このテーマとは「入水」だが、さらにこれらの中に西村の表現者としての原質を感取、以下二項をあげている。
一つは「言葉」というものへの特殊感覚。「言葉の底に潜むエトスがテキストの意味の解体ではなく、意味の底を潜りあてる感性の所在」、つまり言霊、あるいは歌霊への生理的反応。
もう一つは、テーマたる「滅びの美」。
「屈原に彼が見る<滅びの美>は、例えば三島の憂国や赤軍の革命といった自己の信条信念への血なまぐさい帰依、自滅へのシンパシーとは重ならない。時代はその時々のイデオロギーや体制の衣をまとうが、それはある意味うつろう景色。そこで一人の人間が「どうあがき死んだか」。「何に(何のために)」など「知らんわい」で「どう」の振りまく一種の狂気にこの人は目が行く。いわば、生きざま死にざまで、そこに<滅びの美>を見るのだ。」
滅びの美。その背後にある狂気。響きの狂騒の大渦の最後に置かれた鎮静の「祈り」の姿。
清姫渕で聴こえるこの女声ヴォカリーズはわずか4小節だが、その一瞬の祈りこそ、かつて遠くはるかに、西村が汨羅の淵に聴いた声でもあったのではないか。すなわち、滅びゆくもの、それが宿す「美」への眼差し。
筆者の見る限り、西村が「祈り」という言葉をスコアに書き入れることはほとんど無い(解説その他では割に多い)。「悲しみをもって」といった類の情緒を伝えることはあっても、だ。それは「祈り」が、情緒とは異なる感情領域のものだと、はっきり峻別していたから、と思う。
滅びの美とは、消えゆく命、存在がまとう最後の光芒でもあろうか。
おそらく西村にとっての「祈り」はそこに発する。
ゆえ、恋慕に殉死した清姫へ、合唱はまず祈りを捧げた、それがあのフレーズ。
では、最後のpf.カカーンもまた?
「滅びゆくものの最後の光芒」、そこには何が見えるのか。
西村の光フェチについては散々述べてきた。
シューベルト『軍隊行進曲』と小学校校庭にきらめく光、その彼の最初の「神秘体験」から「光、来たれり〜『オーケストラのための耿』(1970-)」を初発に『光のマントラ』まで、筆者は「光とは」と問い続けてきた。
そうして再び、「光とは」を振り返るところに来たようだ。
ひょっとすると、「光とは」は「祈りとは」でもあるのではあるまいか。
筆者に今、言えるのはそこまで。
もう一つ、真言言霊クライマックスについて。
その観音真言の声唱の生み出す言霊の霊力を以て、西村が打ち樹てた曼荼羅の完成形とまで言い、その壮大伽藍を筆者、称讃したが、ここでの霊力の「借用」は彼の生理、すなわち原水の放出であり、それにとどまる、ということだ。いや、それはエクスタシー到達への方便(仏教では人を真実の教えに導くための便宜的手段のことを方便と言う、「嘘も方便」のように)としての借用と自覚してのこと、と思える。
佐々木も西村もむろんそこで抱擁昇天したが、彼らのそれはある種、音響生理上のものであって、このオペラには、そうしたわかりやすい興奮、高揚作劇とはまた別種の働きが仕込まれているのではないか。このオペラをただの殉愛物語で終わらせない、それが、オペラの前後に置かれた合唱の不穏、締めのpf.衝撃音ではないか。
筆者はふと、道成寺のじゃんじゃが祭りを思い出す。大蛇が去ったところでみな拍手(クライマックス)、舞台に残った大鐘を半被姿の村人がおもむろにひっくり返すと跪いた白骨体の安珍が現れ、それに一礼、再びお囃子が賑やかに始まるのだが、そのどこか間抜けな終わり方。鐘供養の会式でありつつ、メインは大蛇。いや、鐘供養であって、安珍供養ではない。人々が喜ぶのは何と言っても大蛇踊りなのだ。川から上がって道成寺への階段をうねうね登り、舞台を鐘を巻き巻きぐにゃぐにゃ踊り回るその大蛇に喝采する。
本作において合唱は民の声、と筆者は述べた。
道成寺地元の人々、熊野古道の民にとって、安珍は行きがかりの若僧で、仏道探究であろうとなかろうと、大事なのは誰かを愛して死んだ地元女人の姿であったろう。
多くの歌舞演劇が「娘道成寺」である所以だ。民間芸能は必ず、巷間の民の声を伝える。
佐々木が津軽三味線と詩のコラボレーションで震災後の東北を巡り、聴き取ったのもまた民の声、語りであった。それを西村は大悲心としたが、受苦共苦の心とは観音菩薩に象徴される、民そのものの「心根」とは言えまいか。
宗教は、始祖だのなんだの誰かを祀り模る。だがどんな時代も、気づき、語りだしたその人は皆、偶像化を厳しく禁じた。イスラームのアッラーへの呼びかけ、礼拝は全てメッカを向く。メッカには誰も聳えず礼拝対象者はいない。そのように戒めを守り続けている宗教もある。
本来、聖なるものとは人智をこえ、その力を具体の何かに集約させることを拒む。犯してはならない領域があること、人間と同格に人格化してはならない何かを、古来人々は知っており、それが聖なるもの、いと高きものであると同時に、あやしく、いかがわしいものでもあり、そのあちらとこちら、聖俗両性具有、夢現(ゆめうつつ)世界をそのままに、生きていたに違いない。
古代神話の生まれる前、宗教誕生以前の世界の混沌とその豊穣を今なお映し出すのが民間芸能ではあるまいか。ましてや「芸術」など、ごく近代の位相に過ぎない。
そうして、筆者が思うのは、だが「美」は全てに宿り普遍であろうという世界観だ。
「滅びの美」の「美」とは何か。
そのことと光、あるいは受苦共苦同苦とはどのように関わるのか。
そして「祈り」は。
『絵師』の地獄火炎と虚無暗穴を経て、炎と水の殉愛オペラ『清姫―水の鱗』に宿るのは、そんな根源的な問いでもあるように思う。
* * *
最後に、借用された『観音経』に触れておく。
まず西村も佐々木も仏教の既存宗派の信徒ではなかろう。ここで千手観音を用いたのは道成寺の所以から(それが「千手観音」であったことの意味は大きいが)であり、あくまで「借用」であるのは、例えば『紫苑物語』が『大日経』を用いていることからも明らかだ。ここに至るまでの西村の経典真言あれこれ渉猟についてはすでに作品をいくつか見ている。信徒はそのように飛び歩かない。
だが大切なのは、彼らが方便(真理に至る便宜上の手段)として用いるにあたり、それぞれの経典と真言の本来的意味、その真髄をこそ、言葉と音声・音響に顕現させていることだ。
ここで『観音経』に触れる意味はそこにある。
中世、経典を語る寺での説法は説経節(節談説教など)を生み、巷間の信仰を広めてゆき、種々の民間芸能へと流れ込む。例えば落語もそれで、その説教語りの「初めしんみり(静かな語り)、中おかしく、しまい尊く(仏の教え)言い習わし」の「中おかしく」の部分から発展したもの。人々を飽きさせず、「おち」をつけるわけで、この語りの原型は、西村作品の中にもあるように思う。上方落語や種々の語り物が関西圏に開花、そうした関西文化の土壌を彼も佐々木も(奈良生まれ)継いでいると言えよう。
西村は佐々木との対談で大阪の演芸、落語、漫才、新喜劇を自身の音と言葉の原光景と述べている。
『観音経』は日本仏教の根幹ともなった『法華経』の第25章にあり、独立しても扱われる経典である。ちなみに『法華経』は紀元1~2世紀に北西インドでその原型が成立、新興商人層が編纂したもので、大乗の大衆路線を余すところなく伝える。日本伝来後、聖徳太子がこの『法華経』を講じ『法華義疏』を注釈している。天台宗の祖、最澄もこの経典を基とし、日本の諸宗派はほぼここから派生、日蓮は熱烈な信仰者だった。
日本で最も広く親しまれるこの『観音経』のキモはその慈悲ゆえに、あらゆる方向に顔を向け、その願いを叶えてくださる、というところ。その第1句、なぜあなたは観世音と名付けられたのか、という問いに「この世で幾百千万億の生けるものたちがそれぞれ苦しみを受けているが、もし彼らがこの観世音菩薩の名を聞くなら(「聞是観世音菩薩」)、彼ら全てがその幾多の苦しみから解き放たれるであろう。また、その名を唱えているならば(「一心稱名」)、その音声(おんじょう)を観じ、たとえ燃えさかる火の塊の中に落ちても、その威力によって大きな火の塊から救い出されるであろう。」6)と答える。
ここで注目したいのは、「観世音」という言葉。
歌人、作家、仏教研究者であった岡本かの子著『観音経』には、この「聞是観世音菩薩」の一句が情熱的に語られている。
すなわち和訳で「是の観世音菩薩を聞きて」となっている意を、「菩薩を全然人格化したなら、矢張り一個の人間として扱い、観世音菩薩の“名”を聞いて、とか、観世音菩薩の“存在”を聞いてとか言わなくてはならないのであります。それをうちつけに“観世音菩薩を聞きて”とあります。」
さらに、「を聴きて」の「を」の字の妙味に熱弁を振るう。「丁度、音の働きのように応作が速やかで間違いの無い根本仏身より出でたる慈悲救済に向かう自由身。それを仰ぎ迎えるのでありますから、“を聞きて”であります。」「苦悩を癒すのではなく、苦悩の意義を把握(つか)むのであります。苦悩の意義を有意義化するのであります。故に、“を聞きて”であります。」7)この慧眼たるや、筆者は手を打ってしまう。
さらに、「一心稱名」につき、「祈願する人と心理との間に、不熟の膜が挟まっているので、そこで“一心にみ名を稱せば”という宗教的手段が與えられ」「一心稱名は、わが内なる観世音と、外なる観世音とが、共同作業する合言葉」となり「万有を観音化する働きを持つのであります。」
真言や言霊を持ち出すまでもあるまい。岡本かの子はたった「を」一文字にこれだけのことを読み取る、それだけで十分ではないか。
そうして「音」というものの意義をこう説く。
「一つの音の発動には、諸法実相、十回互具、一念三千、假(け)空中三諦、などによって説明されたる大生命の全機構、全能力、全功徳が秘められておるのです。物質が物質であるうちは兎に角、既に物質内に伏勢力(ポテンシアリティ)が音となって発露した以上、これはもう生命の用(ゆう)であります。全宇宙の功力を攝在して、空気を伝って対象に向け働きかけたのであります。」
これを「聞聲一如」「聞聲悟道」であると彼女は力説している。8)
もう一つ、観世音を語るにぴったりの一文を。一心唱名の音声が現れるや速攻、「観世音菩薩は、逸早く駆けつけて“皆得解脱”の合理に是正克服戦と待ち構えて居る。常に、スタートを切らんとし身構えて居る走者の如きものである。」9)
佐々木も西村も「南無観世音菩薩」「オンバザラタマラキリク」を用いるにあたり、まさに万有の「観音化、合言葉」と、これを掴み取ったのである。
なお、岡本はこの経典が男女の煩悩にまで立ち入っていることに、世の多くの煩悩がそれで、直ちに彼らのもとにすっ飛んでゆく観音菩薩を熱く礼賛している。
彼女もまた夫、一平との奇妙な夫婦生活(かの子の愛人との3人同居)のち一家でパリに学び、息子太郎を置いて日本に戻るなど、ドロドロの愛欲愛執を引きずり自由奔放に生きた作家。パリを発つ日、太郎の画室の衣装戸棚の扉の裏へ観世音菩薩の像を描いて貼り付けた。それを恥ずかしいから人に見せるな、と言いつつ「いや、見せても良い。あれはその刹那の切実な私から閃いた、平常の私以上のものが描いたのだから。」10)
これが創作というものの真実であろう。佐々木も西村もまた。
(2024/2/15)
本稿執筆にあたり、新しいうたを創る会のピアニスト中嶋香さんに多くの資料とデータをいただいた。ここに感謝を記したい。
脚注
- 新しいうたを創る会HP : https://www.shigekinishioka.com/uta/index.htm
- CD『佐々木幹郎と西村朗の世界』合唱音楽の夕べvol.6 藤井宏樹|樹の会より
- 新しいうたを創る会提供
- 能楽での地の文を謡うスタイル
- 西村朗 考・覚書 (8)『汨羅の淵より』無伴奏混声合唱のための
- 『法華経』 中村元 p.225~227
- 『観音経』 岡本かの子著 p291~292
- 同上 p.322,324
- 同上 P.294
- 同上 p.371
参考資料)
◆楽譜
『室内オペラ《清姫―水の鱗》』 二人の独唱者、混声合唱とピアノのための
台本:佐々木幹郎 作曲:西村朗
『汨羅の淵より』 自筆譜 西村氏より拝受
◆書籍
『道成寺絵とき本』 宗教法人道成寺発行
『法華経』 現代語訳大乗仏典2 中村元著 東京書籍 2003 p.225~227
『観音経』附『法華経』 仏教聖典を語る叢書7 岡本かの子著 大東出版社 1978
この叢書には武者小路実篤『維摩経』などもあり、実に面白い。つまらぬ解説本よりよほど勘所をついており、お勧めする。
『洪水』6号 洪水企画 編集・発行人:池田康 2007 年12月
◆DVD 『清姫―水の鱗』
新しいうたを創る会 第15回 演奏会<合わせる声の新しい世界> 2012年2月26日@四谷区民ホール 指揮:田中信昭、ピアノ:中嶋香、清姫:津山恵sop.、安珍:高橋淳ten.、合唱:新しいうたを創る会 舞台監督:幸泉浩司、近藤元 照明:中山安孝 プロジェクション:三浦景士
新しいうたを創る会 第8回 名古屋初演演奏会 2013年3月5日@ウィルあいち4Fウィルホール 独唱:飯田みち代sop.、清水徹太郎ten.、ピアノ:森恵美子、指揮:羽根功二、合唱:名古屋混声合唱団&「清姫―水の鱗」を歌う会 演出・舞台監督:杜川リンタロウ、美術・衣装:磯田衣里、大道具:クライム、照明:西出裕貴
◆CD
『佐々木幹郎と西村朗の世界』
『大空の粒子』『鳥の国』『清姫』
藤井宏樹/樹の会 合唱音楽の夕べvol.6 日本アコースティックレコーズNARC-2147
◆Youtube:
『佐々木幹郎と西村朗の世界』
藤井宏樹/樹の会 • アルバム
『大空の粒子』『鳥の国』『清姫』
https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_mhUXJLVhNdhlOzEJXwsnW-phBNc4AtnTQ
『日高川入相花王 渡し場の段(全編)』文楽
https://www.youtube.com/watch?v=KOr4bqCXP6I
『京鹿子娘道成寺』長唄 花柳利琴之(花柳流)
https://www.youtube.com/watch?v=uiPOWyORqrs
『能楽公演ダイジェスト「能を知る会-能 道成寺 / 狂言 樋の酒」』
https://www.youtube.com/watch?v=0DpPrPguCT0
『御坊市 道成寺 会式2022 じゃんじゃが祭り』
https://www.youtube.com/watch?v=2CbETHGvn5U