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評論|西村朗 考・覚書(29)『大悲心陀羅尼』〜『両界真言』まで(Ⅲ)『両界真言』そして音霊言霊|丘山万里子

西村朗 考・覚書(29)『大悲心陀羅尼』〜『両界真言』まで(Ⅲ)『両界真言』そして音霊言霊
Notes on Akira Nishimura (29)” DAI-HI- SHIN-DHARANI~ RYOUKAI-SHINGON”&OTODAMA,KOTODAMA

Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)

『大悲心陀羅尼』と『両界真言』はいずれもサンスクリットの陀羅尼、真言をそのままテクストとした作品である。
『大悲心陀羅尼』は無伴奏女声合唱だが、その12年後の『両界真言』(2002)は無伴奏混声合唱。こちらはおよそ7世紀に作られた2つの経典『大日経』(胎蔵界)と『金剛頂経』(金剛界)に基づく。簡単にいうと、『大日経』は大日如来の説く真理、悟りの世界を記したもの。『金剛頂経』はその真理を体得、悟りを得るための方法を説いたもの。両界とはその両者の導きによって真理に近づくイメージと思えば良かろう。
いわゆる「両界曼荼羅」は「胎蔵曼荼羅」と「金剛曼荼羅」を一対のものと考え描くもので、日本の曼荼羅はそれがほぼ定型となっている。密教の中心仏たる大日如来を真ん中に数多の「仏」を秩序立てて配置したものがそれで、「胎蔵」「金剛」2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。

東寺両界曼荼羅

「胎蔵」は「理・客体」で大悲胎蔵生ともいい、胎児が母胎の中で成育してゆく不思議な力にたとえ、大日如来の菩提心があらゆる生成の可能性を蔵していることを示したもの(あらゆる生成とは何やら西村の母胎音響を思い起こさせるが)。「金剛」は「智・主体」でこちらは金剛石、つまりダイヤモンドのように強固な力(金剛力)ですべての煩悩 (ぼんのう) を打ち砕く大日如来の智徳を表すとされる。とりあえずここでは母胎に宿る大いなる慈悲と、ダイヤモンドの輝きをもつ強靭な智徳を一対とするイメージを思い浮かべておけば良かろう。
ちなみにマンダラとは観る世界観とでも言おうか。とりあえずここでは『星曼荼羅』(1992)をのみ関連作品としてあげておくが、マントラが「言葉」(唱える/耳・口)であるのに対し、マンダラは図像・絵画といった「色・形」(見る/目)に働くものであることだけ念頭に置いておきたい。これは西村の「光」フェチに大きく関わる領域として『光のマントラ』とともに取り上げたいと思う。

さて作品だが。
スコアには「栗山文昭氏に捧ぐ祝賀曲。金剛界宇宙と胎蔵界宇宙が真言によって響き合い照応する」とのコメントがある。栗山文昭については既述したが、問題作『式子内親王の七つの歌』(1990)のおりの指揮者である。合唱処女作『汨羅の淵より』から6年後の大手拓次詩『まぼろしの薔薇』(1984)『そよぐ幻影』『秘密の花』(1985)の3作も栗山が振っており、それから5年後に『式子内親王の七つの歌』が来る。次いで『祇園双紙』(1995/吉井勇)、『浮舟』(1998/『源氏物語』より)、その4年後がこの『両界真言』。栗山とはその後、『敦盛』(2009/能『敦盛』より)、『うめきうたみっつ』(2013/佐々木幹郎)、『クリシュナの変容』(2015)、室内オペラ『中也』(2016/佐々木幹郎)とコンビが続く。
オペラ『紫苑物語』で台本担当の詩人佐々木幹郎は2009年『夏の庭』から始まり『大空の粒子』『鳥の国』(2010)、『旅―悲歌が生まれるまで』『鎮魂歌―明日―風のなかの挨拶』(2012)とほぼ毎年のタッグを組み、室内オペラ『清姫〜水の鱗』(2012)が『絵師』(1999/芥川龍之介)のあとに姿を現す。
つまり、1984年からの栗山、2009年からの佐々木の2人は西村の合唱創作における両輪というに近かろう。したがって西村の栗山へのスコア・コメントはその後、長い同伴者となる指揮者へのこの時点での祝意と思う。栗山、佐々木の2人との出会いがなかったら、『紫苑物語』も生まれなかったのではないか。

作品に戻る。スコアの表書きには両界の真言が列挙されている。
まず、「金剛界五仏真言」。すなわち金剛界に位置する五仏、大日如来、阿閦(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、観自在王如来、不空成就如来のそれぞれの真言ということだ。

「金剛界五仏真言」
1) 大日如来
Oṃ vajra-dhātu vaṃ
オーン ヴァジュラダートゥ ヴァン
2) 阿閦如来
Oṃ akṣobhya hūṃ
オーン アクショーッビャ フーン
3) 宝生如来
Oṃ ratna-sambhava trāḥ
オーン ラトナサンバヴァ トラーハ
4) 観自在王如来
Oṃ lokeśvara-rāja hrīḥ
オーン ローケーッシュヴァララージャ フリーヒ
5) 不空成就如来
Oṃ amogha-siddhe aḥ
オーン アモーガスィッデー アハ

「胎蔵界五仏真言」の五仏は大日如来、宝幢(ほうとう)如来、開敷華王(かいふけおう)如来、無量寿如来、天鼓雷音(てんくらいおん)如来。
真言は以下。
「胎蔵界五仏真言」
1) 大日如来
Namaḥ samanta-buddhānām a vi ra hūṃ khaṃ
ナマハ サマンタブッダーナーン ア ヴィ ラ フーン カーン
2) 宝幢如来
Namaḥ samanta-buddhānām raṃ raḥ svāhā
ナマハ サマンタブッダーナーン ラン ラハ スヴァハー
3) 開敷華王如来
Namaḥ samanta-buddhānāṃ vaṃ vaḥ svāhā
ナマハ サマンタブッダーナーン ヴァン ヴァハ スヴァーハー
4) 無量寿如来
Namaḥ samanta-buddhānāṃ saṃ saḥ svāhā
ナマハ サマンタブッダーナーン サン サハ スヴァーハー
5) 天鼓雷音如来
Namaḥ samanta-buddhānāṃ haṃ haḥ svāhā
ナマハ サマンタブッダーナーン ハン ハハ スヴァーハー

真言はサンスクリットの音写で、考えず無心に唱えよ(解読不能、不要ということ)が真髄であるので、意味はない。ここでもマントラに魅せられる西村の言霊・音霊感覚を再認識すれば良かろう。
冒頭にsop.でまず現れるのは阿閦如来Oṃ akṣobhya hūṃ(スコアでは若干スペルが異なるが、これは発声上hをfにといった変更だろう)だ。続いてalt.でNamaḥ samanta-buddhānām raṃ raḥ svāhāと宝幢如来が入る。次いでten.不空成就如来Oṃ amogha-siddhe aḥ、追ってbass. 天鼓雷音如来Namaḥ samanta-buddhānāṃ haṃ haḥ svāhā。
と、これで両界四仏が出揃う。Omから開始は金剛界仏、Namから開始は胎蔵界仏で交互になっている。ここまでほぼ20小節ほど。こうした組み合わせを音価音高音形などさまざまに動かしながら唱えてゆくのである。
スコアのいちいちはここでは追わない。要するに語感に沿って4声(sop.alt,ten.bass)がそれぞれの如来真言を唱え交わし、両界五仏全十仏のそれが響きあいこだましつつ、一気に進むわけだ。

全体に、冒頭句金剛界 Om、胎蔵界Namは(ff)で入り引き延ばされる。金剛界Omはすぐと短句がくっついているので一息で歌われることも、母音で引き延ばされることもある。胎蔵界はどの如来も持つNamaḥ samanta-buddhānāmに続く短句がそれぞれの仏の真言の相違であるので、3連符など細かい動きとともに、(ff)などで強調されることが多い。むろんめまいの如きグリッサンドもあるが、要所のみで効果的に使用される。いずれにせよ真言の入りは各如来が名乗りをあげるようなものだから、それに相応しく設定されており、両界曼荼羅を眺めながら聴くとなかなかに楽しい。

全体に、高音fやgのsop.が相当やかましく響き、比べるとbass.は今ひとつパッとしないのだが、中盤37小節あたりで声が揃い、うっとり優しい西欧ハーモニーを響かせる部分などではさすがに存在感を示す。こういういわば歌唱者、聴衆への配慮を必ずどこかに入れ込むのが、やはり西村なのだ。各声部での波の押し引きを経て47小節(ff)でのアクセントを伴う5連符形から昂まりを見せ、73小節からespr.(f)でcodaに入る。「ka~n,va~n,fu~n,a~」の句が緩やかに収縮しつつ(pp)でいったん終止。一息入れたあと、Meno mosso (f)でsop.,alt.,bass.,が「su-hava-ha」とfのユニゾンを響かせ、ten.は同句だが上にcを乗せた和音でこれを包む。一呼吸のち Lento moltoで(p)で再度繰り返されて沈んでゆく。
メリスマティックな流れの重畳にふと入るハーモニーはかげろうのように美しく、言霊音霊の浮遊する不可思議世界と言えば良いか。
いずれにしてもただ語感、語音によってのみ音を編む西村の感覚は、胎児が母胎に聴く響く母、その周りを取り巻くあれこれの「声」の記憶をたぐるかに思われる。

*   *   *

マントラ系の最後に、女声合唱とオーケストラのための『光のマントラ』(1993)に触れたいが、これは次回とする。というのもこの作品は前年1992年の2作『星曼荼羅』(オーケストラのための)、『アストラル協奏曲「光の鏡」』(オンドマルトノとオーケストラのための)とともにオーケストラ3部作(姉妹関係)とされており、ここでの「光」のイメージが、やがて「影」を含む「生と死のゾーン」へと移ってゆくその前景と思われるから。

ということで、一応、マントラの締めくくりに、西村氏に確認ずみのマントラ系作品を列挙しておく。
『大悲心陀羅尼』(1990/無伴奏女声合唱のための)
『光のマントラ』(1993/女声合唱とオーケストラのための)
『水の祈祷』(1994/混声合唱とピアノのための)
『両界真言』(2002/無伴奏混声合唱)
『6人の打楽器奏者のための「ヤントラ」』(2002)
『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番「呪文」』(2005)
『幻影とマントラ』(2007/オーケストラ)
『無伴奏ヴィオラ・ソナタ第2番”C線のマントラ”』(2007)
『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「炎の文字」』(2007)
『打楽器ソロのための「プンダリーカ」』(2009)
『ピアノのための「炎の書」』(2010)
『深紅の呪文』(2022/トランペットとピアノのための)
器楽作品は楽器による音響マントラであり、あるいはタイトルに「炎」が入る作品は、「護摩祈祷などでの舞い踊るような火炎のごとき響のマントラ」のイメージとのことだ。

*    *   *

以下、私事を記す。
この4月は夫の一周忌である。
定年前に大学職を辞し、京都の某宗派付属の総合研究所勤務となった彼の死(就寝中の心不全という)は1本の電話で知らされた。
翌日、息子と京都へ向かう。
その夕方には宗派会館の一室に荘厳され、一夜を過ごした。
翌朝、東京に発つ前に、研究所の方々がお見送りをしてくださった。
読まれたのは『仏説阿弥陀経』であったと、のちに知る。
僧侶3人が仏前で唱えはじめ、参集くださった方々が唱和する。
唱和の声が立ちのぼったその時、コロナゆえ少しばかり開いた窓から風が入り、折り畳まれたブラインドが小さく揺れてカラカラと鳴った。窓外の薄い光が差し込むのを私はぼんやり眺め、部屋いっぱいに巻き起こる人々の声の渦に身を浸す。
風はまるで読経に合わせるように、時折、吹き通ってゆく。
そばでお唱えくださる方々には、僅かにつま先や踵で読経とともに拍子をとる方もおり、そのリズムと音調は、何か特別なもの、通常に接する読経とは異なる何かがあるように感じる。
風、皆さんの声。
そのとき、私は思った。
これが「念力」、というものではないか。
皆さんが、浄土へ旅立った彼(宗派では、こときれた時すでに浄土に在るという)をさらに彼方へと念じ、その背を押してくださる。その想いがひと塊となって響く声の圧倒的な力。
風はまた、そうした人々の間を清々と吹き通り、彼をさらに彼方へとつれ行ってくださる。
「あ、また風...」とカラカラに、読経に、この場この時の全てが、夫の死を荘厳くださっている、そんな感じにとらわれた。
「とむらい」ということの意味に、そのとき、少しだけ触れた気がした。

私に信心はない。
宗教ははっきり、嫌いだ。
宗教の背後には、常に権威権力が付きまとう。
ポール・マッカートニーがいったように、人が人を殺し合う争いは宗教(だけではないが)から起きると思っている。
読経・読誦は葬式仏教といわれる仏教の一つの形でしかない。
だが、ほんらいの読経とは、こういう生死の境界にあって、この世とあの世とを繋ぐ人間の思惟と営為の、魂の、極北に立つものだったのではないか。
音霊言霊そして人魂。
芸術、と呼ばれるものもまた、そうだろう。
書き続けよう、と私は思った。

参考資料)
◆楽譜
『両界真言』自筆譜
『光のマントラ』 全音楽譜出版社 1993

◆CD
『合唱団 響 演奏会2003』
『西村朗 作品集』カメラータ・トウキョウ CMCD-99052

◆書籍
『密教とはなにか』 松長有慶著 人文書院 1984
『大日経・金剛頂経』 大角修訳・解説 角川ソフィア文庫 2019
『マンダラの理論と実践』 ジュゼッぺ・トゥッチ著 ロルフ・ギーブル訳 平河出版社 1984

(2023/4/15)

『西村朗 覚書』(1)〜(28)