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五線紙のパンセ|誰のために作曲するか?Revisited|田中吉史

誰のために作曲するか?Revisited

田中吉史(Yoshifumi Tanaka)

改めて「五線紙のパンセ」のバックナンバーを見返してみると、自身の作品や音楽そのものに関するものだけではなく、音楽と文化や社会との関係について取り上げられているものも少なくないことに気がつく。
そこで、今回は私もそれについて書いてみようと思う。

現代音楽の作曲家が社会について考えるきっかけというのは、やはり世の中に満ち溢れる音楽の中で自分たちの音楽の聴衆が圧倒的に少ないように感じられること、なかなか自分たちの音楽が受け入れられているように感じられないことが多いのだろうと思う。そういえば昔読んだ近藤譲さんのエッセイにも書いてあったな。本棚を漁ったら出てきた。『音楽の種子』(1983年刊、朝日出版社)所収の「誰のために作曲するか?」(同書p.29-39)。入手した当時、繰り返し読んだこのエッセイを、久しぶりに読んでみる。

「現代の作曲家達は、自らのその「文化」を容易には見出し得ないような状況に立たされてしまっている」(p.34上)と近藤さんはいう。「作曲家は、自分が属する「文化」の内に居る聴衆のために音楽を提供し、その「文化」が音楽に対して求めているもののために作曲する」(p.33下)。ここでいう「文化」とは、「生活、意識、信念、思想、信仰、結局はそのすべて」(p.39上)であり、文化を共有する人たちというのは、「或る程度まで共通の教養、嗜好、意識をもつ」(p.33上)。そして、「音楽に対するひとつの要請と、音楽のひとつの理解が人々の間で共通に行われていれば、それは音楽活動を支える「文化」だと考えることができ」(p.34上)、「作曲家は、自分が属する「文化」の内に居る聴衆のために音楽を提供し、その「文化」が音楽に対して求めているもののために作曲する」(p.33下)。例えば、「バッハにしろ、ベートーヴェンにしろ、その音楽がそれぞれに、ひとつの「文化」を共有する人々の比較的小規模な集団のためのものであった」(p.33上)。
ところが、現代においては「「文化」というものの存在自体が、マス・メディアという巨大な産業怪物の力によってほとんど崩潰してしまい、本来芸術音楽の基盤に成り得るものが失われてしまった」(p.36上)。マス・メディアが作り出す「音楽文化」は「企業の利潤追求のための手段として役立つように作られた「嗜好傾向」―「偽文化」」(p.37上)であり、その「偽文化」は「既存の諸「文化」を破壊するばかりか、新たな「文化」の可能性を潰してしまう」(p.39上)のである。
そして、近藤さんはこのエッセイの最後を次のように締めくくっている。(誰のために作曲するのか、という問いに対する)「私の答えは悲観的である。今私にできることは、私の根となるべき「文化」を想定して音楽を書くことだけだが、と云ってもその「文化」がいつか定着する保証はまったくない。私の住む町に三人、百キロ西の町に一人、一万五千キロ東の町に四人……多分私はこの「文化」を生きようとする人々を見出すかもしれない。それは恒砂の中の数個の砂粒である」(p.39下) 。

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このエッセイが書かれてはや40年。今、近藤さん自身がどう考えられているかはわからない。ただ、現在の私は楽観的とはいえないにしても、それほど悲観的ではないような気もしているのだ。
「私の住む町に三人、百キロ西の町に一人、一万五千キロ東の町に四人……」と近藤さんが形容した、自分と「文化」を共有する数少ない人たちとは、40年前と比べれば、SNSをとおして比較的容易に「つながる」ことができるようになった。かつては、現代音楽史上の名作と言われるような作品もなかなか音源が手に入りづらくて、友人がエアチェックしたとか誰かから借りたレコードからカセットに録音したという音源を持っていたら、それを盛んに貸し借りして聴いていたものだった。しかしいまやYouTubeを検索すれば大抵のものは見つかりそうだし、その再生数を見ても決して少なくはなく(もちろん数万回はないにしても)、世界中には自分と同じ関心を持つ人が結構たくさんいそうだと思ったりもする。

近藤さんのエッセイでも強調されているように、現代の作曲家の経済的基盤が「彼等の作品の聴衆によって支えられているわけではない」(p.35上)という問題は確かに大きい。ただ(もちろん私もこれが無視できない問題だということはわかっているが)、それ自体だけでは経済的に成り立たせるのは至難の業だという点をとりあえず「括弧に入れる」なら、自分と「文化」を共有する人たち(このエッセイではこの言葉は使われていないものの「コミュニティ」と呼ぶこともできるだろう)の数は、決してその価値(経済的価値ではないにせよ)と同じではないだろうとも思える(ちなみに、日本において、現代音楽の作曲家と、創造性を専門領域とする認知科学者の数を比べれば、前者の方が圧倒的に多いはずだ、多分)。

ただもちろん、地理的要因の影響は、かつてほどではないにせよ、今でも全くなくなったわけではない。作曲家、演奏家、批評家や熱心な聴衆(「現代音楽コミュニティ」と呼んでもいいだろう)は東京に集中しているし、私のように地方都市に住んでいると、やはりその面でのギャップを感じずにはいられない。

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私が石川県金沢市に移住したのは、音楽活動に関わる理由ではなかったし、出身地がここだというわけでもなかったので、当初は音楽関係の知り合いが全くいなかった。その頃は(今でも東京と比べればそうではあるが)現代音楽のコンサートもほとんどなかったが、むしろ美術館には足を運ぶようになった。ある日美術館でフリー・インプロヴィゼーションのライヴのチラシを見つけて、金沢在住の即興音楽家・電子音楽家の島田英明さん(https://sites.google.com/site/hsppico/)と知り合った。それがきっかけで、同じく金沢を拠点に活動している実験音楽のミュージシャンASUNA(https://sites.google.com/site/aaaaasunaaaaa/)さんや、様々なジャンルの音楽家、芸術家、芸術関係者、コアなリスナーとも知り合って、それ以来この10年ほどは、彼らと交流しながら少しずつ活動をできるようになってきた。そのうち、金沢大学に若手作曲家の浅井暁子さんが赴任されたり、ヴィオラ奏者の般若佳子さんが移住されたり、最近は足立智美さんや福永綾子さんが来られ、また隣県の福井にも素晴らしい音楽家が何人もいることに気がついて、今は北陸地方でもだいぶ仲間が増えた。
こちらにきて大きく変わったのは、実験音楽やフリー・インプロヴィゼーションを積極的に聴くことが増えた、ということだろう。東京に住んでいたときは、とにかく現代音楽の活動がとても盛んなので、(私が怠惰なのもあって)自分とスタイルが近い人たちの活動をフォローするので精一杯だったが、金沢に来てから、私の普段のスタイルとは違った新しい音楽にも触れることが多くなった。東京と比べれば遥かに小さな街だし芸術活動の規模も小さいのだが、逆に接する音楽の幅は増えたのだった。

リスニングルーム・カポのフライヤー。毎回ASUNAさんデザインのフライヤーを配って地道に告知している。

接する音楽の幅が増えた、ということで書いておかなければならないのは、ASUNAさんたちが中心に企画・運営されている「リスニングルーム・カポ」(https://twitter.com/kapolr)というイベントである。これは、主として金沢在住の音楽家、音楽愛好家が、数ヶ月に一度集まって、何人かの選者が、そのとき興味を持っている音源を紹介しあう、というもので、ASUNAさんと選者でトークをしながら、持ってきた音源に参加者たちが耳を傾ける。選者は非常に様々で、自分でも音楽活動や創作活動をする人もいれば、芸術関係の団体職員、レコード店主といった「関係者」だけでなく、マニアックなレコードコレクターまで、その筋の専門職の人もいれば、別の仕事で生計を立てている人もいる。
別の仕事をしているからといって軽く見てはいけない。金沢はやはり大都市と比べれば市場は小さいので、オリジナリティの高い音楽活動をしていても、別の仕事で生計を立てている人は珍しくないが、彼らの姿勢もクオリティもアマチュア的なものとは完全に一線を画している。収入源が何かということだけでプロなのかアマチュアなのかを区別するのは、全く適切ではない。また、様々な理由(家族の事情や都会にどうしても合わないなど、自分ではどうにもできない理由など)で金沢に住んでいる人も多いので、東京に住まずに芸術活動をする人たちをなんとなく下に見る風潮も全く間違っている。

さてその「リスニングルーム・カポ」でかけられる音楽は実に様々で、クラシック音楽がかかることはほぼないし、現在流行っているメジャーなヒット曲もなく、ほとんど毎回、私が今までに聞いたことのないジャンル、ミュージシャンの音楽を聴くことになる。紹介される音源も、それぞれの選者のこだわりが凄くて、それがなんというジャンルなのかということも私にはわからない(世の中には本当に細かいジャンルがあるものだ)。そして、その選曲のマニアックさには常に圧倒される。例えば、そのジャンル(サブジャンル)では有名なミュージシャンのアルバムが再販されるたびに少しずつ変化している楽曲の編集の違いを聴き比べたり、エチオピアにジャズが入ってきて独特なスタイルで展開していく様を年代順に聴いたり、南米の小国の中では有名だが日本で全く知られていない大スター(おそらく地元ではマス・メディアの産物でもあるのだろう)の歌声を味わったり、ごくたまに日本の往年のアイドルが取り上げられることもあるが、そういう視点で見るのかと驚かされたりすることもある。またそれぞれの選者の解説がとてもうまく、しかも楽しそうで(選者からそういう言葉を引き出すASUNAさんの力も素晴らしい)、毎回驚きと興奮を持って聴いている。「リスニングルーム・カポ」で知ってCDを買ったものも少なくない。また、私のよく知らなかったジャンルの当事者の話を聞くと、改めて自分の浅学さを痛感させられる。金沢を拠点に活動するラッパーが「かつてラップが日本に入ってきたときは、ただカッコいい!と思って自分たちもやり始めたが、そのうち文化的・社会的背景も言語も違う日本人がラップをやる意味とは何か、ということでみんな悩みはじめた」と語っていたのを聞いて思わず唸った。
私も時々、選者として参加するが、そのときは他の選者が持ってこないような、なるべくコアな現代音楽(と言っていいものか悩ましいが)を、そしてウケるかどうかはともかく自分が面白いと思っているものを持っていくようにしている。ところが、不安に思いつつも音源をかけて紹介すると、ASUNAさんをはじめ、皆さんとても興味を持って熱心に聴いてくれるのである。「名前しか知らなかったけど面白いですね!」とか「そういえば〇〇っていう作曲家を聴いたことがあるんですけど、それと関係してるんですか?」と声をかけられることもある。断片的でも現代音楽について知っている人も少なくないようだ。「あのCD、あとで自分も買いました」と言われたこともある。現代音楽をやっていると「すみません、こういうのよくわからないです」という反応に何度も直面するが、ここではそのような反応はほとんどない。これは本当に驚いたことだった。決してたくさんの参加者がいるわけではないけれど、近藤さんのいう「私の住む町に三人、百キロ西の町に一人、一万五千キロ東の町に四人……」の人たちがこの街にこんなにいるのかといつも感銘を受けるのだった。

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「リスニングルーム・カポ」に集う人たちは、決していつも現代音楽を専門的に聴いているわけではない。普段はそれぞれが一番興味を持っているジャンルの音楽を中心に聴いているのだと思うが、こうした場で今まで知らなかった新しい音楽に接触することをとても楽しんでいる。それは私も同じで、ここで知ったエクスペリメンタル・ロックやブラック・ミュージック、テクノや遠く離れた異国の大スターの音楽については、私は全くの初心者なのだ。では、私たちはどういう音楽のコミュニティに属しているのだろう? 広い意味では「音楽を愛してやまない人たちのコミュニティ」なのだろうが、それではあまりに広い。私は(いわゆる)現代音楽に関してはそれなりに長く活動しているので「現代音楽コミュニティ」みたいなものには属していると言えるかもしれない。しかし、「リスニングルーム・カポ」で新しく現代音楽に接して強い興味を持ってくれた人や、普段それほどは聴かないけれど現代音楽を時々聴いて楽しんでいる人は「現代音楽コミュニティ」とは全く無関係なのだろうか?

東京にいると「現代音楽コミュニティ」に属するかどうかは、かなりはっきり分かれそうにも見える。なにしろ作曲家や現代音楽を得意とする演奏家もたくさんいるし、批評家も大勢いて、ハイレベルな知識や価値観が共有されており、そうした「文化」を共有していない人たちとは全く異なる世界が形成されているようにも見える。
だけど、一つの文化のコミュニティの境界というのは、実は明確ではないのではないだろうか? もちろん、「現代音楽コミュニティ」には作曲家、演奏家、批評家などのコアな活動をする人たちがいる。しかし、それほどたくさんの知識があるわけではないけれども、現代音楽のいくつかは知っていて、普段それほどは聴いていないけれども機会があったらそれなりに興味をもって楽しむ、いわばコミュニティの周辺的なメンバーというのが、潜在的にはそれなりにいるのではないだろうか。
文化的コミュニティは、明確にメンバーシップが分けられるものではなく、関わりの濃淡が様々なメンバーから成り立っていて、そういうグラデーションの豊かさが、そのコミュニティの厚みや基盤になりうるのではないだろうか。コミュニティのコアな部分に近ければ近いほど、周辺は見えなくなる。そして、周辺にいて興味を持ってはいるけれども、コアな我々とはそれほど知識を共有していない人たちとは、あまり関わりが持てない感じがしている。でもそうではないのだ。コミュニティの周辺にいる人たちは確かに存在し(その人たちも確かに多くはないのだろうけれど)、私たちはそうした人たちに気がついていなかっただけではないのか? 現代音楽は「聴衆が少ない」ために存在意義が問われているかのようにも感じられることがあるのだが、コアなメンバーと同等の関わり方をする聴衆が少ないだけであって、関わり方に濃淡があることを考えれば、潜在的には少なくない(というと言い過ぎか、想像しているよりも少しは多い)のではないだろうか。そう考えると、「現代音楽コミュニティ」の潜在的な(周辺的な)メンバーにいかにアプローチしていけるかということが、「現代音楽コミュニティ」をより豊かなものにしていく鍵になるのではないだろうか。

念のために書いておくと、私は、現代音楽を普段聴かない人にも「わかりやすい」もの(例えば調性的なもの、とか)を作らなければいけない、と言っているわけではない。観光客に親切にするために誇張した見せ方をするとか、大人と同じように食べられない子供のためにランチを用意するのとはわけが違うのだ。結局、私たちは自分が一番面白いと思うものを妥協なしに作る以外のことはできない(もちろんその表現の社会性とか倫理性の問題に関する議論はあるが、差し当たってここではおいておく)。それを前提にした上で、自分と全く同じ聴き方をする人だけを想定してそこに向かって投げかけるのではなく、自分のフィールドに対する関わりに様々な濃淡がある人たちがいることを想像しておくことが、むしろ作り手にとってもいいことなのではないかということだ。

かつての村落共同体のように、生活が特定の地域や人間関係の中だけで成り立っていた時代とは異なり、現代の私たちは一つだけの文化的コミュニティに属しているわけではない。最も深く関与しているジャンルの音楽だけではなく、たまに別の種類の音楽を楽しむこともある(私がたまにジャズを聴いているように)だろうし、音楽に限らず美術や映画にも興味を持つこともあるし、お笑いだって嫌いではない。スポーツを嗜んでいれば(私はしていないが)そのスポーツのコミュニティの周辺的なメンバーでもあるだろう。私たちは好むと好まざるにかかわらず、常に複数の文化的コミュニティに様々な濃淡で関わっていて、常に何かの周辺的なメンバーでもあるのだ。そして、興味が強まったり薄れたりすることで、そうした関わりの濃淡は常に変動し続けているとも言える。私たちの文化への関わりは常に多元的で、常に揺らぎを持っているのだろう。

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ここまで「現代音楽コミュニティ」という言葉を使って書いてきた。でも考えてみれば、私は「現代音楽コミュニティ」を存続させるために、自分の創作活動をしているつもりはなかった。たまたま私が興味を持ったのがいわゆる「現代音楽」だったのであって、そこから影響を受け、またそこで共通の興味を持つ仲間と活動してきた、ただそれだけのことだろう。私の作るものは「現代音楽」にしか聴こえないかもしれないが、だからと言ってそれを目指して作ってきたのかと尋ねられると、どう答えたらいいかよくわからない。将来、自分の作るものが「現代音楽」らしくなくなったとしても、それはそれで仕方ないだろうし、かと言って既存の他のコミュニティの「音楽」っぽいものを作るようになるとも思えない(私は調性的な音楽は書けないし、楽器を演奏することも、ましてや即興演奏も苦手だ)。だから正直にいえば、結局のところ私はどのコミュニティにもただ周辺にいるだけのような気もしている。私が感じているのは「自由」ではなくある種の「戸惑い」に近い。

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記事の内容とは直接関係ありませんが、金沢郊外のある公園からの、遠くに日本海を望む眺め。

3回にわたって、気ままに文章を書かせていただきました。ここまで読んでいただいてありがとうございました。この機会を下さったメルキュール・デザールの皆様に感謝しています。
またどこかで私の書いたものを読んでいただける機会があればと思いますし、それにも増して私の作品を聴いていただければうれしいです。ちなみに金沢は観光地で有名ですが、名所旧跡や料理だけでなく、新しい音楽も聴きにきていただけると幸いです。
それではまた。
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田中吉史
独学で作曲を始め、1994-5年にChaya Czernowinに師事。1988年と89年に現音作曲新人賞入選。1990年より作曲家グループ”TEMPUS NOVUM”のメンバーとして活動。1996年に秋吉台国際作曲賞を受賞。2001年ISCM World Music Days、2003年ACLアジア音楽祭 に入選。2006-18年現代音楽セミナー「秋吉台の夏」講師を務める。これまで器楽や声楽作品を中心に手がけてきた。近作に、楽器演奏する際の身体的制約に注目した独奏曲、既存の音楽作品から素材を抽出した作品、人間の話し声の録音に基づく「発話移植計画」シリーズなどがある。楽譜とCDがArs Publica (http://www.arspublica.it/)、マザーアース(http://www.mother-earth-publishing.com/)、ALMレコード、フォンテックから出版されている。

・プロフィール、ディスコグラフィ
https://japanesecomposers.info/jc/composers-basic-information/tanaka-yoshifumi/
・作品リスト
https://japanesecomposers.info/jc/composers-basic-information/tanaka-yoshifumi/yoshifumi-tanaka-list/
・YouTubeプレイリスト
https://www.youtube.com/playlist?list=PLj061UQDeaPkirD7iJWx4ezs18QeFezGA

【公演情報】
芸術講座 トイピアノの森Ⅱ 「大人のためのトイピアノ講座」
2023年2月20日(月)18:30開演 愛知県立芸術大学 室内楽ホール
トイピアノのための”ascending”(2021) 再演
演奏:中村和枝
https://www.aichi-fam-u.ac.jp/news/topics_0002026.html

橋本晋哉チューバリサイタル4
2023年2月27日(月)19時開演 杉並公会堂小ホール
“Aura di Bruno”(2008) 再演
https://tiget.net/events/201700?fbclid=IwAR0StSf1bImWkZw8RS9Vjf-_h7fIwn-HEgtR3or5mUlPOnDhNa_Iy_Id1nM