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小人閑居為不善日記 |二つの顔、二つの死体――《トップガン》、《ドクター・ストレンジ》、《シン・ウルトラマン》|noirse

二つの顔、二つの死体――《トップガン》、《ドクター・ストレンジ》、《シン・ウルトラマン》

Text by noirse

※《トップガン マーヴェリック》、《ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス》、《シン・ウルトラマン》、《スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム》の内容に触れています

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《トップガン マーヴェリック》を見た。トム・クルーズを世界的スターに押し上げた《トップガン》(1986)の続編で、彼の出演作中興行成績一位は間違いないと目されている。それもそのはず、考え得る限り最高の「男のロマン」を謳い上げたほぼ完璧な内容で、《トップガン》のファンで満足しない人はいないのではないか。これもひとえに、7月で還暦を迎えるにもかかわらず驚くべき若さを維持し続けるトムの存在あってこそだろう。

ただしもちろん引っかかる点もある。たとえば酒場のシーン。トム演じるマーヴェリックは若い兵士御用達の酒場にやってくるが、店内で流れているのはデヴィッド・ボウイの〈Let’s Dance〉とT-レックスの〈Bang a Gong (Get It On) 〉。1983年リリースの〈Let’s Dance〉は当時のファン層にはリーチするだろうし、80’sリバイバルの今なら有効かもしれないが、〈Get It On〉は1971年の曲。若者が聞きたがるとは思いにくい。

《トップガン》を80年代を代表する作品に押し上げた理由のひとつに、「MTV時代の映画」だったという点が挙げられる。MTVはプロモーションビデオ(PV)ばかりを一日中流し続けるという当時としては画期的なケーブルテレビ局で、たちまち若い音楽リスナーたちの興味を惹いた。それまで既存曲ばかりを使用していた映画界もその人気を敏感に察知、人気のバンドや大物ミュージシャンたちに新曲を依頼してまるで壮大なPVのような映画を作る方針を採用、《フラッシュダンス》(1983)や《フットルース》(1984)などのヒット作を放っていく。《トップガン》はその最大の成果で、サントラも大ヒットを記録した。《トップガン》は映画の枠に留まらない、流行の最先端だった。

けれど《トップガン マーヴェリック》には、時代の先端を切り拓くような要素はほとんどない(撮影技術は別だが)。音楽面でも新曲はレディ・ガガの主題歌とワンリパブリックくらい。それもあまり印象的とは言い難く、ワンリパブリックの新曲がどういうナンバーで、どのシーンで流れるか覚えている人はあまりいないだろう。

しかしこれらはどれもたいしたことではない。つかの間憂き世を忘れさせてくれる役目を、《トップガン マーヴェリック》は十全に果たしている。時の止まった世界で男のロマンをすべて注ぎ込んだ物語は、長いパンデミックや不景気など閉塞感漂う状況下では、若い観客すら魅了するだろう。世の中の諸問題をすべて置き去りにして、男の夢の具現化のみに集中した作品なのだから、それ以外は些末なことなのだ。

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《トップガン マーヴェリック》と比較できる新作映画が二つある。「マーベル・シネマティック・ユニバース」シリーズの最新作《ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス》(通称《MOM》)と、《シン・ウルトラマン》だ。

《MOM》は〈アベンジャーズ〉の一員、魔術師ドクター・ストレンジが主人公。プライドが高く独善的な性格のストレンジは、そのせいで思いを寄せていたクリスティーンへの恋に破れ、失意の中にあった。そんな折、マルチバース(多元宇宙)から逃げてきた少女アメリカ・チャベスに出会い、彼女を救うことになる。

本作の最大の見所は、チャベスの危機に際して、別宇宙にいるためすぐに駆け付けることのできないストレンジが、チャベスが所属する宇宙で埋められていた自分の死体を操って助けに行くシーンだ。各宇宙に別々のストレンジがいて、ある宇宙での自分(シニスター・ストレンジ)は「闇落ち」していて戦う羽目になるし、別の宇宙での自分(ディフェンダー・ストレンジ)は既に殺されてしまった。ストレンジはその死体を利用するのだが、腐敗が進んでいるため実質ゾンビ化したストレンジが少女を助けに行くという、笑うしかない状況が炸裂する。

一方《シン・ウルトラマン》は「禍威獣」(要は怪獣)の襲撃が続く日本が舞台。政府は「禍威獣特設対策室」を設立し対抗するも、その脅威に押されつつあった。そんな中、禍威獣を撃退しては去っていく謎の巨人「ウルトラマン」が現れる。巨人は何故人類を助けてくれるのか。その正体は何か。

ウルトラマンは「光の星」の住人で、人類よりも高次の存在だ。そのため人間の思考は理解できないし、宇宙全体の利益になるなら人類など滅んでもよいと考えている。ところがウルトラマンは、地球に降り立った際、見ず知らずの子供を助けるために犠牲になった男・神永の行動を不思議に思い、興味を抱いてしまう。神永の姿を借りたウルトラマンは対策室のメンバーと交流していくうち、光の星の意思に反しても地球を守るという決断を下す。賛否両論ある作品だが、他者への理解を促すテーマは「分断」が進むとされる現在にふさわしいもので、好意的に受け取る向きも多い。

さて、この二作のどこが《トップガン マーヴェリック》と関連付けられるのだろうか。両作には共通点がある。どちらも「死んだ男を巡る話」なのだ。

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《MOM》の中心となる主題は男性性の喪失と回復だ。MCUの前作《スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム》(2022)も同じ主題を展開させていたが、そもそもマーベルはアイアンマンやソーにも同じ問題を設定しており、長らくこれにこだわっているのが分かる。

たとえば《アベンジャーズ/エンドゲーム》(2019)でのソーは失意のために引きこもり、暴飲暴食のためすっかり太ってしまっている。その姿に自信を喪失したソーの内面が表現されているという仕組みで、それをさらに強調したのがストレンジのゾンビ姿だと言えよう。自分の弱点を修正できず、そのせいで愛する女性を失った男の、悔恨と自己嫌悪に満ちた心の表出だ。

しかしストレンジのゾンビ化には言い訳がましさも感じられる。チャベスを助けるためには何でもやるし、たとえゾンビになってもいい、要は「死んでもいい」という覚悟が宿っているわけだが、けれどもここには死んで詫びたい、ここまで醜い姿を晒しているのだから許してほしいというニュアンスも感じ取れる(死体となったディフェンダー・ストレンジはドクター・ストレンジとは別人格なのだが、ひとりの人間の別の側面と受け取っていいだろう)。

ヒーローたちの自信回復の一方、女性たちの犠牲や、男にとって都合のいい展開も後を絶たない。《ノー・ウェイ・ホーム》ではピーターに自信を付けさせるためメイおばさんが犠牲になった。ソーは母親の言葉で戦線に復帰するが、彼女も既に殺されている。《MOM》のチャベスも助けを待つだけの役割しか与えられない(最後に力を発揮するが、それもストレンジなしには果たせない)。

マーベル作品は本質的には《トップガン マーヴェリック》と同じように男のファンタジーなのだが、よくも悪くもファンタジーであることを全肯定する《トップガン》と違って、マーベルはそれを誤魔化そうとする。《MOM》はヴィラン(悪役)となった魔女ワンダの扱いについて批判されているが、これも根を辿れば同じ問題に行き着くだろう。

対して《シン・ウルトラマン》にはひねりが感じられる。神永は既に死んでいて、人格(人ではないが便宜上)はウルトラマンのそれとなっていて、男の都合のよさから距離を取っている。けれど男性の内省という観点がないわけでもない。

《シン・ウルトラマン》の印象的なシーンに、山の奥深くで、ウルトラマンの人格を持った神永が、自分の死体を静かに眺めている場面がある(合成で二人の神永が同じ画面に収まっている)。ウルトラマンが人類を理解するため死体を前に黙考しているのだが、絵面だけ見れば神永が自身を客観視し、内省しているというふうに受け取れる。アニメやマンガではテンプレといってもいい構図だ。

結局《シン・ウルトラマン》の主題とは「他者とは何か」という内省で、神永の死体のシーンはその象徴だ。認知心理学に自分を客観視して自己回復などを促すメタ認知という方法があるが、《シン・ウルトラマン》で起きていることはそれに近い。

また「ウルトラマン」という名称や、ある箇所でのセクハラ問題が批判されているという点を考えても、《シン・ウルトラマン》も男性性の問題に触れていると受け取っていいだろう。ウルトラマンは力を行使する者であり、どちらかと言えば男性性への内省を促している。

だからといって《MOM》の問題設定が劣るというわけでもない。「闇落ち」してしまったシニスター・ストレンジは、男性性の問題に直面した結果過激化したインセルやテロリストを連想させる。ストレンジは自らの様々な「別の顔」と対峙した結果、ゾンビとなろうともまっとうに生き延びることを選び取ったのだ。過激化するくらいなら言い訳がましいことくらい許されてもいいだろう。
未だ若々しくあろうとするトム・クルーズの顔と、ストレンジのゾンビ化した顔。二人の顔は、2022年の今を別々の方向から照射している。名うてのパイロットの皮膚を一枚めくればそこには腐敗したデスマスクが隠れている。そして《シン・ウルトラマン》は、二つの顔の対話を求めているのである。

(2022/6/15)

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noirse
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