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小人閑居為不善日記|孤独な少女と放浪する老人たち――《スーパーカブ》と《ノマドランド》|noirse

孤独な少女と放浪する老人たち――《スーパーカブ》と《ノマドランド》
Super Cub and Nomadland

Text by noirse

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突然だが生きるのはつらい。誰しもそうだろうが、みな何かしら支えがあって、何とか毎日をやり過ごしているのだろう。わたしはせいぜい毎晩アニメを見るくらいしか生きがいがないが、そういう人間もいるのだくらいに考えてほしい。この春もおもしろいTVアニメがいくつもあって、これらのおかげで今夜も生き永らえている。

さて。数あるアニメの中でも、わたしは日常系と呼ばれるジャンルを特に好んでいる。平凡な生活を淡々と描くものだが、大抵は女子高生などを主人公としたほのぼのとした内容で、小津安二郎の映画やつげ義春のマンガのような現実味の強い、苦みのある作風とは少し違う。そこにあるのは社会の荒波とは距離を置いた、いわば「理想化された日常」だ。

今回取り上げる《スーパーカブ》も日常系アニメのひとつと言っていいだろう。もともとはライトノベル小説だったが2017年にマンガ化され、さらに今回アニメ化される運びとなった。

舞台は山梨県北杜市。ひとり暮らしの女子高生・小熊には打ち込んでいる部活も趣味もなく、学校と家を往復するだけの毎日だ。自転車での通学に不便を感じた小熊はある日スーパーカブを購入。たちまちカブに魅了された彼女の行動範囲は一挙に増し、人間関係も広がっていく。

若くして生活に倦んだ少女が未知の世界に踏み込んでいく姿を丁寧に描く《スーパーカブ》、とてもいい作品だと思う。けれど一方で心穏やかに見ることのできない点がある。小熊には両親がいない。父親は死去、母親は失踪していて、学校へも奨学金で通っており、金銭的な余裕がない。食事はレトルトばかりで、部屋にも最低限の家具などしかないようだ。

《スーパーカブ》は、作品がそう仕向けているわけでないのは承知の上で、小熊の生活の向こうに貧困や格差、DVなどの現実が重なって、物語への没入を妨げてしまう。日常系アニメは生活を丹念に描くことで感情移入させるものだが、あまりに細かく現実を写し取っていくと今回のように身も蓋もなくなり、かえって逆効果となるのだろう。

他の日常系アニメと比べてみたい。ジャンル初期の代名詞的作品《けいおん!》(2009)では主人公たち軽音部の部員がギターを買おうとするエピソードがあるが、資金集めの為に選んだバイト先はメイド喫茶でいかにも「萌えアニメ」という設定だし、結局額が足りなかったところ部員のひとりが社長令嬢だったため解決するという、気楽に見るにはふさわしい内容だが現実味は薄い。

それが最近の《ゆるキャン△》(2018)になると、主人公たちがキャンプ資金のために選ぶバイト先もスーパーやコンビニ、酒屋などで、違和感はない。日常系が流行し始めた当初と比べると「リアリティ」は増し、その代償としてアニメらしい荒唐無稽さは後退している。

《スーパーカブ》はそのひとつの極なのだろう。作り手は日常系のセオリーなど気にしていないかもしれないし、現実味の強い日常系アニメもなかったわけではない。けれども、日常を克明に描くというジャンルの特性が先鋭化した結果、かえって日常のネガティブな側面が浮き彫りになり、ジャンルの根幹が揺らぎつつあるように思えてしまう。

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《スーパーカブ》を見ていると、いま世界を席巻しているある映画を思い出す。ヴェネツィア映画祭で金獅子賞を受賞、先日行われた第93回アカデミー賞受賞式でも作品賞、監督賞、主演女優賞の三冠に輝いた《ノマドランド》(2021)だ。ひとつところに定住せず、ヴァンを住み家として各地を点々としながら生きる人々、通称ワーキャンパーに焦点を当てた映画だ。

ワーキャンパーは昔からいるし、めずらしくもない。だが《ノマドランド》に登場するワーキャンパーのほとんどは高齢で、多くがリーマンショックで家を失った人々だ。彼らはやむなくヴァンに乗り込み、アマゾンの物流センターやレストランのコック、清掃業などで働いて糊口をしのぐ、一種の季節労働者である。

というと悲観的に聞こえるかもしれないが、彼らは一様にポジティブだ。口にするのも生活や労働の不満ではなく、家に縛られていた人生がどれだけ不自由だったか、アメリカ中を旅して回るヴァンライフが如何に充実しているかだ。住処を追いやられた哀れな老人ではなく、積極的に人生を謳歌するnomad(遊牧民)なのだ。

映画に登場するノマドはほとんどが実際のワーキャンパーで、素人俳優として実名で演技に挑んでいる。いわゆるハリウッド映画とは違い明確なストーリーラインもなく、それがドキュメンタリーめいた迫真性を与えている。

これはロードムービーの作法通りだ。現在までに至るロードムービーの方向を決定付けたのは《イージー・ライダー》(1969)だろう。事前にシナリオを用意せず即興的に演出、ロケ先の住人をキャスティングし、多くのシーンを自然光で撮影するなど、当時としては画期的な手法は《断絶》(1970)や《さすらい》(1976)など、その後のロードムービーでも踏襲されていった。

しかし《ノマドランド》と伝統的なロードムービーには大きな違いがある。社会への距離感だ。ノマドたちは政府のセーフティネットから見放されているが、彼らの言動には社会への恨みや批判的な目線はあまり感じられない。

かつてのロードムービーはニューシネマのトーンが色濃く、社会から抑圧された弱者やアウトサイダーが主人公であることが多かった。《イージー・ライダー》のバイカー。《地獄の逃避行》(1973)の殺人犯カップル。《ペーパー・ムーン》(1973)の詐欺師コンビ。彼らは行く先々で差別や偏見に遭遇し、観客に社会の歪みを突き付ける。

しかし《ノマドランド》は社会批判的な要素を極力排除している。原作の《ノマド:漂流する高齢労働者たち》(ジェシカ・ブルーダーによるノンフィクション)は、老人たちを追い詰めた社会構造をきちんと論じ、アマゾンの非道な労働環境を告発しているが、映画ではそこはバッサリとカットしている。

象徴的なのはアマゾンで働く同僚がスミスの〈Rubber Ring〉を諳んじるシーンだ。家に束縛された生活を疑問視する歌詞で、ノマドのライフスタイルにしっくりくる。しかし彼らはスミスが苛烈なまでに国家や政府を批判してきたことには言及しない。都合のいい部分だけ切り取っているわけで、これは政府や企業への批判は抑制しその犠牲となっている老人たちを肯定的に描く《ノマドランド》という作品そのものだ。

こうした映画版のスタンスには海外プレスも疑問の声を挙げているが、監督のクロエ・ジャオによれば普遍的な作品を作るため、あえて排除したらしい。それでもやはりそのスタンスは気にかかる。ノマドはみなポジティブに構えているが、映画が醸し出すトーンはもの悲しく、本音では安住の地を求めているのではと勘繰ってしまう。

そうした両義性が《ノマドランド》に奥行きを与えているのだろうし、声高に政治批判などしなくとも十分に現代アメリカの歪みは伝わってくる。ノマドが社会性から身を離せば離すほどかえって社会の空白が強調され、政治や政府から見放された老人たちの苦境が浮かび上がってくるとも言えるかもしれない。

それでも政府や社会に期待することをやめ、唯々諾々と大企業に従い、振り回される老人たちを見続けるのは、やはり得心し難い。だがその是非はともかくとして、これはアメリカ映画の新しい傾向ではないかとも感じるのだ。

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現在のアメリカ映画の主流は「政治的に正しい」映画だ。白人男性が多くを占めていたアカデミー賞も体質改善に努め、BLM運動やLGBT、フェミニズムなどに配慮した作品を重視するようになってきた。

しかしこうした流れは白人偏重主義と表裏一体の危うさを秘めている。作品の質よりも政治的正しさを優先させるのであれば、白人中心の映画を優先させるのと本質的に変わりない。

《ノマドランド》はその逆だ。政治性から撤退することが、かえって風通しのよさに貢献している。穿っていえばこの高評価は、「ポリコレ疲れ」している映画人を無意識に魅了したとも言えるかもしれない。

《スーパーカブ》に戻ろう。小熊の生活はスーパーカブで一変し、行動範囲も広がっていく。しかしそれにばかり注力すると、彼女を取り巻く社会の問題点は隠蔽されてしまう。少女と老人、カブとヴァンという違いはあれど、《ノマドランド》と似ている。

しかしクロエ・ジャオが意識的に社会性を排除させたような戦略性は、おそらく《スーパーカブ》にはない。もともと日本のアニメは政治性を避ける傾向がある。《ノマドランド》の意識的な撤退とは違い、なしくずし的に社会から遠ざかろうとしていく《スーパーカブ》は、その点を放棄しているように感じてしまう。

スーパーカブで小熊の世界が広がっていけば、仕事の幅や彼女自身の可能性も広がるかもしれない。だがそれで彼女は貧困や格差から解放されるのだろうか。ノマドの老人たちのように住む家を失い、何の保証もなく、年を取っても肉体労働に従事するしかない、そんな人生が待っていないと誰が言えるのだろうか。わたしには《ノマドランド》の老人たちが、小熊の将来の姿に思えてしまう。

「理想化された日常を楽しむ」ものだった日常系アニメとは、言い換えれば「どうやって身も蓋もない現実を楽しみ、社会を直視しないようにするか」というジャンルなのかもしれない。楽しむために見ているのだから別にそれでも構わない。しかし《スーパーカブ》はもはやそれすら許してくれない。「理想化された日常」ですら現実の侵入を阻止することができない、それが今の状況なのだ。

(2021/5/15)

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noirse
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