山澤慧無伴奏チェロリサイタル マインドツリーVol.6 バッハツィクルス1|齋藤俊夫
山澤慧無伴奏チェロリサイタル マインドツリーVol.6 バッハツィクルス1
2020年10月21日 トーキョーコンサーツ・ラボ
2020/10/21 Tokyo Concerts Labo
Reviwed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by /写真提供:東京コンサーツ
<演奏>
チェロ:山澤慧
<作品>
梅本佑利(2002-):『バロッコ・マシーン』(2019)
J.S.バッハ(1685-1750):無伴奏チェロ組曲第1番ト長調
サーリアホ(1952-):『7羽の蝶々』(2000)
北爪裕道(1987-):『GRADATIONS』(2012)
北爪裕道:『兆し』(2020/初演/委嘱作品)
山邊光二(1990-):『Shred,shred timeline』(2020/初演/公募作品)
梅本佑利(2002-):『SUPER BACH BOY』(2020/初演/6年連続委嘱作品1作目)
イヴァン・フェデレ(1953-):『虹』(2004)
伊藤弘之(1963-):『チェロのための「プレリュード」』(2014)
坂東裕大(1991-):『カデンツ/アンバランスとレトリックのためのエチュード』(2019-20)
日本現代音楽界にこの人あり、と言えるチェロ奏者・山澤慧の無伴奏チェロリサイタル「マインドツリー」、今回からJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲をテーマとしたバッハシリーズを6年間かけて全6回開催する。
バッハを中心軸として、日本現代音楽界の明日を担う作曲家多士済々による最先端の音楽を筆者は聴いた、はずだ。
なのにこの寂寥感は何に由来するのだろうか?
弦を弓で擦るという擦弦楽器の奏法の中から引き出される様々な音色の連続性を、その他のパラメータとの変化とも関わらせながら全体としてグラデーションを形成するという北爪裕道『GRADATIONS』、ガサガサと楽器のどこかをこする(筆者の席からはどこかは見えなかった)音の中に、キュイッ、キュキュッという鳥の鳴き声じみた音が混じる序奏に始まり、軋んだ音、かすれた音が次々に現れ、突然フォルテシモになったり、突然テンポが急変したりして、最後は太く低い噪音、超高音の噪音、どうやって出しているのかやはりわからなかったが、カシャカシャカシャカシャと虫が這うような音で終わる。一般的なチェロ「らしい」音はほぼ全く出てこないが、チェロでしか出せない音による、確かに常人離れした音感覚による作品ではあった。
しかし、次に演奏された北爪『兆し』でも同様にほぼ全曲にわたって噪音が使われると(ただし、突然通常奏法による旋律(?)が飛び出す部分もあった)、その手数の多さに反比例して音への愛着とも言うべき大切な何かは薄れていき、北爪という作曲家の像もまた痩せ細っていく。タイトルの「兆し」とはバッハのプレリュードの要素が見え隠れしながら、よりはっきりとした形で姿を現すことを「聞き手に予感させるであろうことを想定したもの」(プログラムノートより)とあったが、どこにバッハのプレリュードが見え隠れしていたのか筆者には聴き定められなかった。
山邊光二『Shred, shred timeline』、「「時間が細切れ」「時系列が分からなくなって」脳がぶっ壊された感覚とその状態への”抵抗”で心身にかかる強大な負荷という個人的な体験を発想源」(プログラムノートより)とし、様々な〈楽譜の書き方〉で厳密な秒数規定をしつつ、奏者の自由裁量にまかせた部分などをまぜこぜにした、プロジェクターで映し出された複雑というより乱雑な譜面から山澤が引き出した音楽はやはり複雑というより乱雑。とんでもない数と種類の特殊奏法がものすごい速度で入り乱れるが前後の脈絡はつかめない。「行く末の無い感情表現についてJ.S.バッハに代表される修辞法を参考に、SNSのタイムラインをスクロール/反復するような仕方で全体を構成した」(プログラムノートより)作曲者の意図は実現されたと言い得ようが、その意図の目的、理由、必然性は筆者には不明だった。
坂東祐大『カデンツ/アンバランスとレトリックのためのエチュード』は調性音楽のカデンツの機能を用いながら、それを新たに現代的な言い回しの技術/レトリックで読み替えてみようという試みだという。気だるいロングトーンと、ヒステリックに乱れ弾く部分が交代で現れる序盤から、バッハを押し潰したような切り刻まれた断片や高速強音の激しい断片などが入れ替わり立ち替わり登場し、最後はおそらくカデンツの終止音で終わる。馬力はある作品であったが、その力はどこを何故目指していたのだろうか。
バッハシリーズで毎年新作委嘱をする、シリーズの看板作曲家とも言うべき梅本佑利の2作品。『バロッコ・マシーン』は運弓の反復運動を「機械的運動」と捉えてそれにフォーカスした作品。右手の運弓のみならず左手も上下に反復運動をするなどし、バッハの無伴奏第1番の第1曲の奏者の運動を変奏した曲と筆者は捉えた。
『SUPER BACH BOY』はファミコンの「スーパーマリオブラザーズ」などの音楽と効果音を模した音をバッハや現代音楽的な楽想ととり混ぜ、ゲームのような物語構造を構築した作品。
どちらも巧みに作曲されてはいるが、筆者には〈梅本という人間〉によって〈作曲〉された作品というより、〈梅本という装置〉に現代音楽の手法・様式・コンセプトなどをインプットして、装置が編集してアウトプットするという〈作業〉の結果のように思えた。表現という営為の核となる〈自我〉が感じられず、それでいてそつなく巧みに〈現代音楽を書いている〉ということに、アンファン・テリブルと言われる若者像とは全く異なり、既存の型に自分からはまりにいこうとしているように思えた。
これら4人の若手作曲家は〈閉じた世界の中に生きている〉、いや、〈自分の世界を進んで閉ざそうとしている〉ように感じられた。〈閉じた世界〉とは、〈他者〉、すなわち自分とは異質な存在者を抹消した世界のことであり、現代音楽の様式からでることがない、現代音楽愛好家層以外にアピールしない、日本という地域から外に出ることがない、ある時代の流行としてしか通用しない、といったありふれた非難の言葉ではない。特殊奏法や特殊な記譜法などを用いて作曲家が奇抜な独自の音楽を目指せば目指すほどに、その音楽の作る世界が自分だけの占有物となり、世界から〈他者〉が失われていき、音楽が機械的・決定論的に自己完結した、のっぺりとしたモノと化してしまっていると今回筆者は感じた。作曲家の自我が強過ぎる、のでも、作品が完全なオブジェとなっている、のでもない。作曲家と作品が自己以外の何もかもを排除し、〈他者〉と出会うことを拒絶している、先述した筆者の寂寥感はここに由来するだろう。
蝶をモチーフとして、かすれ、軋んだ音をフワフワと漂わせるサーリアホ、ハーモニクスによるロングトーンが次第に旋律に変わっていくフェデレ、旋律というより人のうめき叫ぶ声を模したように激しく弾きまくり、同音反復からバッハにたどり着く伊藤弘之ら年長世代の作品の方が手法的には保守的なのかもしれないが、世界が〈開いて〉おり、筆者は安らぎと刺激を受け取ることができた。
そして山澤のバッハ。演奏会のコンセプトが全く異質な今年2月のB→Cとは別人のように、雄弁かつ雄渾。大きく呼吸をして楽器と全身をグゥウーンと一音一音共鳴させ、また大きく呼吸して次のフレーズへと攻め進む。一切のためらいも衒いもない正攻法のバッハであった。
音楽の未来は若手作曲家の肩にかかっている。だが、今回の彼らの作品群に筆者は未来への道ではなく袋小路しか見出し得なかった。
(2020/11/15)