吉村七重~二十絃箏で紡ぐ「音の詩・ことばの詩」|齋藤俊夫
霞が関ミュージックサロン 吉村七重~二十絃箏で紡ぐ「音の詩・ことばの詩」
2019年12月5日 霞が関ナレッジスクエア
2019/12/5 Kasumigaseki Knowledge Square
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
二十絃箏、十三絃箏(*):吉村七重
ソプラノ:工藤あかね(**)
<曲目>
佐藤聰明:『神招琴(かむおぎこと)』(1989)
八橋検校:『乱(みだれ)』(1664?)(*)
三木稔:『お種の箏歌(おたねのことうた)』(**)
久田典子:『森の声』(2019)
木下正道:『石をつむI』~二十絃箏と箏歌のための~(2010/2011)(**)
佐藤聰明:『櫻』(2017)
5月の邦楽展Vol.34 KOTO COLLECTION TODAYで見事な共演を聴かせてくれた吉村七重と工藤あかねが再び組んでくれると知り、邦楽と現代音楽が交差する場にまた立ち会いたいと喜び勇んで会場に向かった。
まず劈頭を飾った佐藤聰明『神招琴』、爪を使って絃を縦に擦る音に始まり、その後はほぼ全て爪を外した指での軟らかな音で音楽が奏でられる。拍節感ではなく、間(ま)の感覚によって隔てられた1音1音は、この世ではなく彼の世からの響きのよう。最後にまた爪を使って弦を縦に擦るまで、息をすることすらはばかられるような緊張感が会場を満たした。
佐藤作品の静寂の後の八橋検校の古典箏曲『乱』、爪を使っての強いアタックで音高数13とは思えないほど「乱れる」ように箏が掻き鳴らされるこの音楽には、現代的、都会的、デジタル的なセンスすらも感じられた。350年昔、江戸時代の作品であることに驚かざるを得ないこの新鮮さは筆者が当時の音楽に馴染んでいないからではなく、作品自体と吉村の演奏に宿る永遠の新鮮さゆえであろう。
前半最後の三木稔『お種の箏歌』は三木のオペラ『JORURI』より抜粋されたアリア。オペラのアリアなのだから当然と言われればそれまでであるが、日本語の歌詞と日本音階と二十絃箏を使っているものの、根本において西洋の音楽作品と聴こえた。何をもって音楽作品の根本とするかは難しく、強いて言えば音楽の〈精神〉が日本ではなく西洋のものと思えた、と抽象的にしか表せないが、今回の6作品の中で最も日本から離れた音楽と筆者が感じたのはこの作品だったのである。
久田典子『森の声』、これはバーゼルの森を散歩した時の印象を音楽化したものとプログラム・ノートにはあったが、筆者には見知らぬスイス北西部の森ではなく、自分も歩いたことのある日本の森の雰囲気、〈日本的〉であろうとしなくても自然と滲み出てくる〈日本の音〉が聴こえてきたのだ。本作品で選ばれた絃の音高は日本音階ではなく、西洋的とも南国的とも捉えうるものと聴こえたが、何故かその音階で作られた音楽の中に〈日本的〉な響きを感じたのである。
木下正道『石をつむI』、箏は爪で絃を擦ったり、左手の推し手により音高を揺らしたり、ずらしたりし、拍節感覚も伸び縮みする。ソプラノの工藤は「石をつむ、人、石をつむ」などの歌詞を常ならぬ低音の、謡のような渋い発声法で「石を、石を、、石を、、、つむ、、、、」のように反復して歌う。これらの要素の何かが、もしくは何もかもがずれたまま「石をつむ」ことを繰り返すことにより、音楽の激しい動きが逆に全てが静止した感覚を与える。日本的情緒といったものとは相反しているようでいて、それでも何故か日本的であると言わざるを得ない始原的な土の匂い。工藤が「とりにもしるし」とうめくようにつぶやき、箏を爪で擦って曲が終わるまで、美と醜、快と恐が渾然一体となる得も言われぬ感覚を味わった。
最後の佐藤聰明『櫻』は非常に日本的であるが、『乱』の都会的センスとも木下作品の民俗的な土の匂いとも異なり、観念的な理想像としての〈古代日本の美〉を音楽化したものと感じた。そんな理想の日本など存在したことはない、と拒むことも可能だったかもしれないが、1音の減衰を最後まで聴かせてから次の1音に進む、玄妙なる調べに魂を持っていかれてしまった。たとえその〈日本〉が幻想であっても、拒むことができないほどの美しい音楽だったのだ。
〈日本〉とは、〈日本的〉とは何を示すのか、はっきりとはわからない。だが、今回の箏とソプラノに筆者は類型的な〈日本〉とは異なる、それでもやはり〈日本的〉と感じられる〈何か〉を聴いた。それは狭隘なナショナリズムを越え、もっと開けた、そして謎に満ちたものとして〈どこか〉にある。そのような音楽体験ができた幸せな演奏会であった。
(2020/1/15)