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ティル・フェルナー(ピアノ)|平岡拓也

ティル・フェルナー(ピアノ)

2018年7月7日 トッパンホール
Reviewed by 平岡拓也(Takuya Hiraoka)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
ピアノ:ティル・フェルナー

<曲目>
シューベルト:ピアノ・ソナタ第14番 イ短調 D784
       楽興の時 D780

シューマン:幻想曲 ハ長調 Op.17
~アンコール~
リスト:巡礼の年 第1年 スイスより 第2曲 ワレンシュタット湖畔で

 

実現までに紆余曲折があったリサイタルだった。ティル・フェルナーのシューベルト・ツィクルスとして全3回のプロジェクトが予定されていたが、昨年12月の第1回がフェルナーの手の不調により公演中止。第2回にして初回となったこの7月の公演も、右手の回復の遅れのため当初発表の『さすらい人』『レリーク』が取りやめとなり、シューマンの幻想曲に差し替えられた。ホール側はせめてシューベルト作品で代替出来ないか、と希望したそうだが、現時点で弾ける最良のプログラムがこれだ、とフェルナーが強く主張したという。なお2016年に同ホールで行われたリサイタルでも彼はシューマンの当曲を弾いている(筆者は未聴)。

当初のプログラムに予定されていた幻想曲『さすらい人』の翌年に書かれ、同様のヴィルトゥオジティを有する作品がD784のイ短調ソナタである。『さすらい人』の前進する強靭な力とは対照的な、内面に漲る力強さをもつD784。おそらくこれら2曲の選択は、その性格の対比という文脈であったのだろう。その意味では本来のプログラム意図が崩れることになりやや残念。しかし、フェルナーの演奏は洗練をきわめた。闇に引きずり込むように始まるこのソナタに隈なく光を当て、楽曲の構造を明らかにする明晰なピアノ。それでいて第2楽章の祈りにも似た旋律の移ろいは実に温かな情感を伴って弾かれる。感情の発露と構造の抽出、この二要素のバランスが絶妙なのだ。終楽章でその稀有なバランス感覚はいよいよ全開となる。最強奏で激した後に訪れる弱奏のなんと柔らかなこと!

中期の大傑作であるD784に続いて、最晩年の作である《楽興の時》D780を聴くと、最初はそのシンプルさに驚く。しかしながら、ごく数分の短い時間の中に、なんと澄み切った音楽が拡がっていることか。それは大ソナタにも劣らぬ深みを有しており―いや、そんな比較に意味はない。我々はシューベルトが遺してくれた両者を味わえる悦びに浸ろうではないか。フェルナーは一切飾り気なく、しかしタッチの繊細さや和音のバランスなど、吟味の跡を残しつつ弾き進める。

『楽興の時』と同じく最晩年の作である『レリーク』が演奏され、最後に大作D784を置いて対比をなしつつ締めるはずだった当初のプログラム。それがシューマンに代えられた。しかし2016年のシューマンプロジェクトでもベートーヴェン『遥かなる恋人に寄す』と『幻想曲』の関係性で2夜を結びつけた才人フェルナー、今回とてシューベルトの2作品とシューマンを無意味に並べたわけではなかろう。ソナタの形をとりながら感情の起伏の点でそれをはみ出さんばかりのD784、シューベルト晩年の透徹した世界が性格的小品という形で結実したD780、そして性格的小品でありつつソナタ的な構成をもつシューマン、という音楽史の系譜を追うプログラムになったのではないか。それがフェルナーの意図かどうかは知り得ないが、彼の演奏からそういったことを想起したのは紛れもない事実だ。曲が内包する熱情を不足なく響かせつつ、強い打鍵の陰で聴き逃しがちな繊細な和声をも浮かび上がらせる。第2楽章の打鍵には手の不調など信じられない力強さが宿っているが、相当鳴らすのに決して「叩いている」とは思えないのだ。

アンコールのリストも含めて、ティル・フェルナーというピアニストの実直な魅力、そして音楽への奉仕を強く感じたリサイタルだった。彼の右手が最良の状態になり、意図するところのシューベルト・ツィクルスが再び実現することを祈りたい。

(2018/8/15)

 

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