追悼 藤堂清さん|丘山万里子
追悼 藤堂清さん
Text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 藤堂清(Kiyoshi Tohdoh)
本誌創刊からの屋台骨であった藤堂清さんが、この4月18日に逝去された。
間質性肺炎での闘病は本誌でも語られており、1/15号での『プロムナード《コンサート通い~病気と付き合いながら》』、公演評『アンネ・ゾフィー・フォン・オッター クリスマス・ソングズ』 、『自選ベストレビュー《クリスティアーネ・カルク ~クララ・シューマンへのオマージュ~》』 の3本が絶筆となった。
創刊5周年記念に寄せた彼の《記憶と記録》への敬意とともに、私の記憶と記録を記しておきたい。
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藤堂清さんと出会ったのは、高校合唱部で(現筑波大附属)。私はソプラノのパートリーダーをしていたが、細身の涼やかな男子がテナーに入ってきて歌うのを聴き、澄んだ優しい声だな、と思った。
再会は随分のちで、私が『JAZZTOKYO』で書き始め、クラシック系の書き手を探していた頃、たまたま新国立劇場のロビーでぱったり出会い、「気楽に書いてみない?」と声をかけたのだ。『音楽現代』に寄稿したことがある、と言うので、大いに私は喜んだ。2013年のことだ。
本誌を立ち上げた時、私が「批評は批評は」と振りかざすのに、彼はキッパリ言ったのである。「私は、ただの音楽愛好家です。」それは、自分は反アカデミズムにも反ジャーナリズムにも立たない、という表明だった。批判とかプライドとは無縁の、彼そのものの「自然(じねん)」の発露に、私は、ああ、この人がいてくれれば大丈夫、と思った。
システムデザイナーとの誌面デザインの初会合に、彼は来なかった。当時、安倍政権での安保関連法案へ反対する国会議事堂前のデモに参加する、とのことだった。私たちは学生運動只中時代の若者だが、この炎天下、この歳になっても?と私は驚嘆、写真家の林喜代種さん(2023年逝去)も、僕も行くから、と欠席したのである。
気持ちはわかるが、ノートパソコンで画面を説明されてもちんぷんかんぷんの私は(もう一人の創刊メンバー、出版社の編集者が居たものの)、実に心細かった。
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今年1/15号に掲載された『自選ベストレビュー』を見て、私はつい笑ってしまった(もう病状悪化を知っていたけれど)。
引用しよう。
◆クリスティアーネ・カルク ~クララ・シューマンへのオマージュ~
2025/1/15号 vol.112
コンサート・レビューという特性上、プログラムや曲目についてふれ、その意義を書くことが必要であろう。また演奏の特徴を取り上げることも重要。よく知られている曲であれば、後者のウェイトが大きくなるだろう。この日のコンサートではクララ・シューマンという演奏頻度が高いとはいえない曲が多くを占めた。そのため曲の紹介にもある程度配慮した。曲と演奏のバランスがとれた記述になっていると考える。
本誌は、それぞれが自分の「批評の形」を探求する「場」なのだが、一貫して彼の求める「批評の形」を簡潔に整然と述べている。
対して私は。
◆西村朗 トリビュート・コンサート
2025/10/15号 vol.121
西村朗論連載4年、まとめて大著出版もしたが、西村作品演奏「批評」は長い批評人生でこれがなんと2本目。だけでなく、この1年、コンサートレビューはわずかしか書いていない。
レビューという枠内で書くことが難しくなってきたのだ。一つの公演に、いろいろな想いが寄せてきてしまう。最近はいつも、これが最後と思ってレビューは書いているが、「今ここ」の音の現場に身を置いていないと長い評論も生きたものにはならないわけで。
ほぼ、真逆と言えよう。
もう「形」を気にせず自由勝手に書きたいんだ!と口走りつつ、だけど音の現場からは離れたくないし、の未練がましさ。
藤堂さんはこれを読んで、やっぱり笑ったろう。
彼女はいつも、「私は私は」ばっかり。しょうもないなあ、と(彼はくだけた物言いは絶対しないが)。彼の自選コメントは、はみ出したがる私に、それとなく釘を刺しているのである。
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彼は欠かさず(2月初めパソコンから離れる寸前まで)更新前の全ての記事を読んでいた。私はこの10年に、そうすることによって彼が文章家としてものすごく成長したと思っている。
無駄なく粉飾なく明快な指摘と記述に、色と香気が漂うようになり、ここ数年は「大家の風格」を備え、万全の文体だ。ミスも全くなく、外部校正者に毎回、文句なし優等賞をもらっていた。
海外情報にも通じ、勉強家で努力家で物理学博士の頭脳家で(本当は研究者になりたかったそうだ)、知情意の整った銀髪の紳士。
語学も堪能だし人当たりも柔らかい。たぶん、友達もたくさん。いつだか、春祭の『子供のためのワーグナー《さまよえるオランダ人》』にゆき、終演後、カタリーナ・ワーグナーと立ち話をしたと言うので、この人、最強!と感嘆したものだ。
何より音楽に触れることを、こよなく愛していた。
* * *
彼は学年こそ下だが、早生まれの私とは半年しか違わず、兄のような人だった。
ご存知のように、私は「長」を務めるに必要な資質を持たず、喧嘩っ早く、直情的で瞬間反応し動こうとする。が、その前に、まずは電話だ。怒りをぶちまけ、彼は黙ってそれを聞いており、鼻息がおさまった頃にやんわり、「まあでも」、と穏やかに言うのであった。
辛い時も何度かあった。電話口で涙声になると、彼は沈黙を続け、やがてぐすんぐすんが弱まると、「大丈夫ですか」とぽつり。
つまり、私は、彼が居てこそ「長」を続けてこられたのだ。
実はサッカー少年であったとかで、ポジションを聞くと、ミッドフィルダーだった。そう、創刊時にウェブ担当となった彼は(どこかのソフトウェアエンジニアを退職してフリー)、システム上のアクシデントからパソコン音痴の幼稚なトラブルまで(ほとんど私)嫌な顔ひとつせず引き受け解決、さらに、さまざまなミスに目を光らせ黙って修正もしくは誰彼に作業を促し続け、まさにミッドフィルダー、静かなる陰の司令塔であった。
自力でアップ画面も操作できない私に、「そこをプルダウンして...」「何?プルダウンって」なんて会話にも付き合ってくれた。今は彼が作成してくれた「ノート」を見ながら、私もできるようになったけど。
決して個体の差異を、優劣で測ることがなかった。できない人を馬鹿にしたり、できる人を賞賛したりもしなかった。私も含め、メンバーそれぞれの凸凹の穴はみんな、彼がそれとなく埋めてくれ、それを厭わなかったし、言い立てもしなかった。
周囲の人全てへの敬意と節度。彼のメールは事務的で一切余剰がなく、時にそれを「冷たい」と感じることもあったが、私は常に保たれているその姿勢を心から尊敬していた。
執筆者が互いを尊重、敬意を払い、学び合う本誌の気風は、彼が醸成したものと思う。
思いつくとなんでもやりたがる私に待ったをかけ、あらぬ方に暴走しそうな私の歯止めとなった。
つまり、本誌は、彼が居てこそ大きな瑕疵なく続けてこられたのだ。
* * *
藤堂さんは、プライベートはあまり話さなかった。
が、よくコンサートで連れ立って見かける夫人が、高校の後輩で(つまり私の後輩でもある)、しかも出逢いが夏の合宿所蓼科桐蔭寮と知ってから、ごくたまに、共通の思い出話になったりする。そんな時の彼は、10代の少年のように瞳をキラキラさせ、「えっ?」とか言って笑うのである。ちょっと照れくさそうに。
創刊5周年の特集『私がものを書き始めたのは』『私が書く理由』で、私は《恋文》という文章を書いたが、その蓼科の山波と林の小道の風景写真は、彼が提供してくれたもの。たぶんその年だかに、夫人と桐蔭寮を訪れた折のものではないか。
ちなみに彼のは《記憶と記録》で、ここにも彼我の対比が出ていよう。
昨年、連載中の『三善晃の声を聴く』第5回で、大相撲の話を書いた時、電話の最中に珍しく「ちょっと余計な話なんですが」と前置きしつつ、幼少期から相撲ファンの三善が名を挙げている和田信賢アナウンサー(双葉山と安藝ノ海の歴史的大一番の実況放送が伝説となった国民的人気のアナウンサー)が夫人の父上だ、と言った。えーっと仰天、興奮する私に、彼は嬉しそうだった。
余計なことは喋らない彼の、唯一の「余計な話」。
藤堂さんて、そんな人だった。
彼が居たから、私も居られた。
* * *
今年1/15号の『プロムナード』(メンバー輪番執筆枠)で、彼は自身の病状を述べている。
更新前に読み、私はショックを受けた。10周年記念の会合をこの春にでもできれば、と思っていたから。
すぐにメールで尋ねた。
「藤堂さん、このままそっとしておいて欲しいですか、それともみんなに会いたいですか。」
すぐに返事が来た。
「動けるうちにみなさんに会えれば。」
1月号更新前の11日、ご自宅に近い池袋のホテルのレストランに私たちは集まった。関西から2名参加で11名というほとんど奇跡的人数で、10周年の祝杯は藤堂さんの音頭で上げた。飲食といつも通りの(コロナ以前は年1回集合)何だかんだ議論に盛り上がり、藤堂さんも楽しそうだった。私は近くだと彼のことばかり気になるから遠い席にいたが、そばのメンバーがあとでそう伝えてくれた。
終了時、彼の周りになんとなく集まったのだが、若手メンバーの一人と一言二言、言葉を交わし、小さな声で誰にともなく「あとをよろしく頼みます」と心なしか頭を下げ、別室に控えておられた夫人の方へと歩み寄り、並んでその場を去られた。私たちはその背を、全員で見送った。
翌日夫人にうかがったら、朝から体調悪く、反対したがどうしても、と聞かなかったと。帰りの車の中で安堵の顔をなさっていたとのことだった。緊急入院の電話が彼から直接かかってきたのは、会合の2日後の夕方だった。
* * *
彼の言っていた「記憶と記録」。
ここに、こんなことを書き連ねたことも、許されよう。
素晴らしい10年だった。
音楽を語るにあたり必須なのはひたすら「音楽への愛と敬意」であることを、教え続けてくれた藤堂さん。
10周年に彼が書いた《私の10年》を、最後にお読みいただければと思う。
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以下は藤堂清さんの2015/10/15~2026/1/15までの全投稿である。彼はウェブ担当として自力アップできないメンバーやゲスト寄稿、表紙、contentsそのほかをアップし続けたから総数は455にのぼる。そのうち290篇近くが彼の原稿で、壮観という他ない。
彼の清澄な声が聴こえてくる。
遺してくれて、ありがとう、藤堂さん。
5月4日記
(2026/5/15)
