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評論|三善晃の声を聴く(11)奈良井の原風景|丘山万里子

(11)奈良井の原風景

Text &Photos by 丘山万里子(Mariko Okayama)

『詩篇』『響紋』のわらべうた、『焉歌・波摘み』の子守唄には、三善の母の故郷、木曽の奈良井が映じている。幼少時、奈良井の盆踊りで、神社境内にその木曽節が風にのって響いてくるのを耳にした、それが今もルフランになってこだまする、と三善は言った。対話本の手掛かりにと、その原風景を訪ねての旅は、多くのことを私に教えた。
それを回想しつつの、再考。

訪れたのはずいぶん昔、訪日客で満杯の今とは異なる。1月末の奈良井駅、降車客は数人だった。国の「重要伝統的建造物群保存地区」の街並は、奈良井千軒の宿場の往時の賑わいを伝える。千本格子やくぐり戸、鎧庇に手摺の二階、間口が狭く奥が深い出梁造りの家並みの風情、軒先のちょっとした飾り細工などに見とれた。樹齢三百年の檜作りの太鼓橋、木曽大橋の架かる奈良井川は、街並にそって左手に流れる。
その宿場のどんづまりに鎮神社がある。中山道最大の難所、鳥居峠の入り口にあり、争いを鎮め病を鎮め災厄を鎮める万象鎮めの神を祀る。三善の音の原点だ。境内は鬱蒼とした杉や檜の巨木に囲まれ、仄暗い。雪を載せた鳥居から見渡す川向こうには、国道が走り、山が連なる。幼い彼はここで、風のルフランを聴いたのだ。
と、境内にずわーんと風が巡り、私は社の森に引き摺り込まれるような「呼気」に巻かれた。霊域、結界とはこれを言う、と、『西村朗 k論を終えた今ははっきり思う。私はその種の怪奇を好まないが、古代から人々はそういう世界に抱かれて生きていた。本誌『西村朗 考・覚書』執筆時に道成寺を訪ね、車窓にのぞく海と熊野古道の入り口あたりをうろつき、それをうっすら感じた。不可知、不可思議をそのまま受け入れ、あるいは行き来し、馴染んで暮らした。人知、科学を超える世界の豊かさを感知する能力を持っていた。幼い三善もまた、おそらくそうだったのだ。

【正調木曽節の「一節一声」〜言霊思想】
風のルフラン、正調木曽節の一節を引こう。

木曽のナー 中乗りさん
木曽の御岳(おんたけ)ナンチャラホイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷(あわしょ)ナー 中乗りさん
袷やりたやナンチャラホイ
足袋を添えてヨイヨイヨイ

「中乗りさん」には諸説ある。一般には、木曽の材木を筏に組み木曽川を運ぶ筏師のことで、先頭「舳乗り」(へのり)、後方「艫乗り」(とものり)、真ん中を「中乗り」と言う。山深く独り住む夫を想う妻の歌と言われ、いわば相聞歌。一方、御嶽山は木曽川筋一円の信仰の中心となる霊峰。ゆえ、宗教儀礼で神の言葉を人々に伝える「中座」(御嶽の修験者、神がかりとなって神おろしをする人)を指すとも言われる。いわば神歌。
民謡は「一節一声」、歌詞の一節一節に魂と感情を込めて歌うもの。正調木曽節はその微妙な節回しが日本一難しいそうだが、夏の盆にはこの節にのって木曽踊りの輪ができる。高音の旋律、ゆったり伸びやかな声に合わせての素朴な輪踊りは、現在保存会で継承されている。三善が耳にしたのは、当時木曽節、木曽踊りの整備と普及に尽力した伊藤淳の町長時代(1915 ~ 1927)のそれであろう。音頭取りが前半を唄い、後付け(ナンチャラホイ、ヨイヨイヨイ)を踊り手が全員で唄う。ちなみにこの囃し言葉、土地方言の「なんとまあ」由来の他、仏教由来「南無(ナム)〜〜」、御嶽山の修験道中に唱える喜びの祈句などいろいろ。一種のおまじない、「神咒(しんじゅ)」「真言(マントラ:仏の真実の言葉)」と考えることもできよう。
と、こう追うと、民謡や踊りにいかに日本の風土歴史が息づいているか。いや、時空を超えた普遍世界の地脈水脈の底に繋がる感受が生きているか、を思い知る。都会青年で西欧実存主義にどっぷりはまっていたと見える三善に、母のいわば文化、いや、人類規模のDNAが潜んでいた。そのことは、やはり強く意識すべきことではないか。
三善自身、「私は人間が種として持っている記憶のみならず、トランスパーソナル心理学のいう、人間も植物も虫たちも、同じ地球に生命を持ったときから共有している分子レヴェルの記憶のようなものが、哲学や精神主義とは別な、普遍性への手がかりにならないだろうか、という気すらするのです。」と、作家辻邦生との対談で語っている(『三善晃対談集 現代の芸術視座を求めて』p.24)。

民謡の「一節一声」に、私は今日の五十音の元となる神代文字ヲシデ(縄文中葉〜弥生、古墳前期)で書かれた古文書『ホツマツタエ』にある長歌『アワのうた』(言霊歌:イザナギノミコト、イザナミノミコトが天照大神を授かった時に歌われた)を思わずにいられない。日本語の一音一音に神が宿るとし、字句を祀る感性、すなわち言霊思想は、西村朗の合唱第1作『汨羅の淵より』の読経もどきやヴォカリーズに現れているが、三善もそれを直覚していたのではないか。『レクイエム』での、言葉の「意味」でなくそこに宿るエトスをこそ聴け、との姿勢もそれ。禅思想における「一音成仏」は「一節一声」にある日本古代の感性(音霊・言霊)との親和性が生んだ神仏習合の一つの形と考える方が自然と思う。漢文化(仏教・儒教)渡来以前の日本古代から今日まで、近代、現代と時代区分はされようが、実は土地土地に深く根付く樹々が吸う地水のごとく、日本語(母国語)という「根流」はその底に響き続けて揺るぎない。
実際に三善の言葉の扱いを見れば、三善アクセントと呼ばれるものと、木曽節での頭音強調とその後に続く揺らしの感覚が似ていることに気づく。三善アレグロで相撲に触れたが、相撲の呼び出しが和歌の朗詠を継ぐもので、三善アクセントや調べ(謡い)がその流れにあることはすでに触れている。むろん器楽も同様で、ピアノ曲『アン・ヴェール』(韻を踏んで)もその一つの形。それが彼の「語法」つまり「語り」そのものであり、木曽節もまた、その語りに直結していたと思える。
母国語というものの持つ「根源的な力」への感応を、私は奈良井の風のルフランに聴くのだ。

と、ここで私は三善の『五月』に引き戻されてしまう。なぜか。
祖母に覆い被さった中2の彼にあった「もしかして」(自分もまた、人殺しをするかもしれない)に巣喰う絶望、すなわち「根こそぎ喪失者」の地獄堕ち(とここでは言おう)に待ったをかけたのが、他ならぬ祖母の「念仏」であったから。念仏とはマントラで、その神咒のお唱えこそが、彼を地獄の淵から引きずり上げた。それが南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経か、あるいは他の何かかはわからないけれど。
「ナカノリサン」(神おろし)と「ナンチャラホイ」(神咒)の流れを遡れば、木曽節も念仏も同一路線上にある。言霊とはそのように字句に宿り、働き続けるものなのだろう。
とまたまたここで、私は神社境内、ずわーんと風が巡り、森(守)の「呼気」に呑まれたあの特別な感覚を思い出す。古文書『ホツマツタエ』には日本原初の宇宙原理を示す「フトマニ図」、すなわち「宇宙の初息(ういのひといき)」たる「アウワ」の三声(真ん中の三文字)を中心とする図がある。あれがまさに「アウワ」「ういのひといき」であったのか、と。
ちなみに「アウワ」は古代インドの「オーム」、ヘブライの「アーメン」につながるとされるが、インド、チベットの祈りの声に付帯する「オーム」(om, aum)を聴くと、祈りの発句や終句の響きはどこも同じ、という気がする。そうして、密教開祖空海のファンであった西村朗の『大悲心陀羅尼』『両界真言』『光のマントラ』といった呪文シリーズ、さらにはオペラ『紫苑物語』での密教経典『大日経』の読経シーンが思い浮かぶのだ。
実は三善も1980年代、空海に接近する。空海には『声字実相義』という密教教義をまとめた書がある。『大日経』における「声字実相」(百字真言法品第二十三)の空海解釈(言語観)で、西村も三善もこれに吸い寄せられた。いわば、古代言霊思想の新興宗教解釈版(空海にしても当時は新興宗教であったわけで)のようなもの、と言ってもよかろう。彼らがこれに惹かれたのは自分の扱う「言葉」「音」「響き」の成り立ち、あるいは働きを日本精神がどう捉えていたか、それを知りたい、との意識に他なるまい。世界のあらゆる文芸は宗教と同根であれば、彼らもまたそこに踏み入ってゆく(日本の場合、神道・仏教に括られようが)のは自然なことだろう。
だがその前に、彼の「日本」意識の初点を振り返っておこう。

*   *   *

【三千院〜やっぱり、いた!】
1963年9月、京都での現代音楽祭出席のおり、三善は陶芸家の車で霧雨の魚山に向かった。日記にはこうある(『遠方より無へ』p.223)。

 大原の山ひだが、薄墨色の南画だった。三千院の門をくぐって右手の、石垣と黒塀に折れる坂道に立つ。石積み、石肌の苔生い、目地の砂落ちを配ったその空間は、私には、私自身の前世のように定まっていて親しいものに思われる。
 全ては、許されたただ一つの存在の仕方で、そこにある。その内側に、あらゆる人為が消え、これらのものに、「時」は経たないだろう。
存在(もの)の、このような本来的な姿の前で、何をかくすことがあろう。この時すでに私の心から、仏院を観る気持ちが脱落してしまったことなど。
 今、私は、あの場所に立った時に横切った何ものかを、言葉で追ってみる。
「やっぱり、いた!」というような言葉で。

「やっぱり、いた!」、ここに居た。かつてここに自分が居た、その場所を見つけたという感覚は、「根こそぎ喪失者」にとって、天からの「蜘蛛の糸」であったろう。前年の希死を抜け出たばかり。向こう側への投身を踏みとどまった、淵から次へと踏み出す『決闘』の1年手前だ。この「糸」のほぼ1ヶ月前、祖母の命日供養の線香の匂いに、彼は「もしかして」を思い出してもいる。「あのとき、もし、と思う。この祖母が睡っている顔に、桶をかぶせたこと。」(同書、p.220)そこに念仏や「押しておくれ、あきらさん……の細い声」と、「汗の冷たい感触」は記されていないけれども。
この「やっぱり、いた!」という強い実感は、それらを押し流す。
「全ては、許されたただ一つの存在の仕方で、そこにある。その内側に、あらゆる人為が消え、これらのものに、「時」は経たないだろう。存在(もの)の、このような本来的な姿の前で、何をかくすことがあろう。」と続くほとんど悦びに近い言葉。言ってしまえば、「僕を許してくれる何ものか」からの一瞬のメッセージを、彼はこのとき受け取ったのだ。天からするすると降りた蜘蛛の糸のように。
ここで三善に感触されたのは、人為など何ほどのものか、「全ては許されてそこにある」。その存在(もの)の本来的な姿は常に「永遠」だ、ということ。自分もまたそこに「居て」今「在る」ものの一つ。そんな、おそらく初めての、宗教的かつ存在論的了解ではなかったか。

私はふと、西村朗17歳、同じ大原の寂光院、帰りがけ背にかかった見送りの尼僧の声に「言葉を超えた何かが心にしみいって、そのひと声の記憶は今も瑞々しい」。夕暮れ、さらに古知谷阿弥陀寺への道に見た「生と死の臨界域」に踵を返した、そのことを思い出す。この西村の原風景に響く「声」と「生死」の境目。
三善は、母のふるさと木曽節の風のルフランと、三千院の坂道の石積み石肌の空間に、全ては許されたただ一つの存在として永遠にある、という了解を得る。
両者の原風景にあるのは、等しく「声」と「生死」の橋梁のように私は思う。
三善の場合、それが前世感覚として立ち現れた背後には明らかに輪廻思想があるが、当時、彼がそうした仏教思想に馴染んでいたとは思えない。
彼は京都への列車車中で、アルジェの一少女に対するフランス軍の拷問の記録『ジャミラ・ブパシャ』を読み、こう記している。「「朝は近い」と訳者は呼びかける。だが、モラルは、けっして明けることのない夜の一部分ではないだろうか。そうして、絶えず、夜を告発する。夜……私自身を。」
自分に巣喰う暗黒への絶えざる自問。
「蜘蛛の糸」は突然、眼前に垂れたのだ。

【『チェロ協奏曲』〜 母の死、母なる海】
ここで得た感覚は、1974年母の軽井沢での急逝と同時期の作品『チェロ協奏曲』で音化される。チェロへの偏愛は、室内楽、オーケストラでの扱いを見れば歴然だ。『詩篇』でのチェロに私は三善の歌声を聴いたが、彼はその音を「光が影であり、生が死であることを、この音は許している、と思う。音そのものに私はドラマを看る。その音のために私が書く譜は、(たぶん、宿命的に)ロマンスと称ばれるものであろうか」と述べる。また、「曲は、むしろバラードとして聴かれよう」とも。
久々にその音を聴いて、私は驚愕した。これを「ロマンス」「バラード」と呼ぶ三善の言葉をそのままに、かつて「大小さまざまな弧を描いて落下する音」「天地を激しく往来する管弦の間を打楽器の閃光が走り、チェロは地の波となってうねる」(『鬩ぎ合うもの超えゆくもの』丘山著、p.125)と感受した音たちが、今、あたかも奈良井の社の森に跳梁する音霊のようであったから。冒頭、ボロロンとつまびかれるチェロとマリンバの幻想に、森の昏い薄靄が広がった、そこですでに私は異界へと呼ばれてしまったのだ。作品というのは、聴取というのは、これほどまでに様相を変えるのか、と、その衝撃。
風が起こる。逆巻く。渦巻く。時に黒鴉がぎゃあと叫ぶようであり、はたまたヒューっと風がうなり、何かが烈しく樹間を飛び交い、弦は時に琵琶のようであり、管楽器は龍笛のようであり尺八のようであり、何かの咆哮のようであり、いや、チェロすら悲鳴を上げるようであり。そこに打の地雷、天雷が炸裂する。その一方で、どこまでも地に滲む細流のように緩やかな弧線を描くチェロも居る。それにしても打楽器群のなんという切迫、裂帛か。まるで水墨の抽象画。
たぶん、あの境内あの森には間違いなく原始の奇怪の声と、それを鎮める大地の声とが日々、日夜、絶え間なく交錯しているのだ。三善が書いたのは、それ。バラードとは譚詩、これは彼の聴いた鎮守の森の物語ではないか。最後の打での追い上げ、揺すり上げの果て、チェロ再びのボロロンに鈴の一振り。かつての私は「巡礼の鈴を聴いた」と……?なるほど、これは三善の常套だ。が、続けて「「安らかなもの」へ、「なつかしいもの」への遍路である。」と書いている。え、安らかなもの、懐かしいもの? いや、それはないだろう……。
彼はこの2年前、『レクイエム』に居るのだ。巡礼の鈴は未だ、ではないか?

本作への三善の言葉をさらに追えば、こうだ。
「ある交錯」として彼は10年前の『管弦楽のための協奏曲』(1964)に触れ、言う。そこで「私は、世界(音)を認識しようとする自分を分析し、分析された自分と世界の境界(あるいは、隔絶)に立ち会うことで自分を定位しようとしていた。」と(『遠方より無へ』p.151)。
だが本作は「隔絶は、そこに私が立ち会える、世界と自分という両壁の間ではなくて、私を含めた万象の豊かな母胎である。生死が、ただ一つの形質しかもたないその母なる海に、私はチェロの音を聴いた。――中略――それは、私の生を許している見識らぬものであったが」(『遠方より無へ』p.151)。
つまり、世界と自分の隔絶から、万象の豊かな母胎、母なる海に溶けたと。
ここに1963年、三千院で三善を横切った「何ものか」を重ねれば、「見識らぬもの」がなんであるかがぼんやり見えてこようか。

【『レオス』〜永遠への回帰】
『変化嘆詠』は『チェロ協奏曲』の翌年だ。三善はこの作品を、「この一年、母の法要を度重ねたが、そのつど、お寺さまのつぶやかれる法辞の抑揚にどれほど、心なごんだことか。無、空への誘いに、それは聴こえた。物語部分にその抑揚を再現し、この話の慈悲としたく。」としていることにはすでに触れた。いわば母への回向だが、夜な夜な踊り狂う三変化にやはり私は鎮神社を思ってしまう。
さらに1年後の『レオス』(1976/オーケストラのための)で、三善は再び三千院での感覚に触れ、母の死をこう語る(『同書』p.158)。

 二年前の初秋のある朝、私は、信州の高原の空へ消えてゆく母の煙を見上げていた。突然の死に接して、私は永別のかなしみに耐えるより共に焼かれることを希ったが、母を焼く煙が山肌を伝い、梢とあそび、蒼碧の空に溶けてゆくのを見ているうちに、ある種の安らぎ――慈悲の優しさのなかにたゆたう安心を与えられていた。永遠の流れ(レオス)のなかにまず死があり、生はその上に、干潮になれば現れる貝がらのように、途切れ途切れに浮き現れているにすぎないのではないか。今の私という現世にしても、また。
 かつて京都は三千院の門前の石垣をはじめて見たとき、あたかも私の前世がその石のあいだにひそむ虫であったかのごとき安らぎを覚えたことがある。未経験の経験心地は説明されている。が、私には、あそこでの前世感覚の安らぎを、永遠への回帰という死の安らぎと区別することができない。
 さて、その京都での初演曲を、私は、レオス(流れ)と名づけた。

『レオス』の響きは土に沁(し)んでじわじわと大地を潤し、あらゆる有情(命あるもの)無情(命なきもの)を包み込んで絶え間ない。ぷくぷくと泡立つ響きになり、あるいは岸辺に寄せる波になり、時に岩にぶつかり飛沫を上げ、どのようにも姿を変えるがあくまでも「水」であり、それは太古から今日まで、命の源泉。ここに現れる沈黙と静謐は、なるほど三善が母の死を通して得た「安らぎ」に通じよう。
私はその永遠への回帰と安らぎを、道元禅師の『正法眼蔵』にある《有事》「永遠の今」と《山水経》「水は水」の一節に見るが、それについては、のち、空海とともに触れることとしたい。

*   *   *

わらべうたと子守唄、その原風景を追って奈良井を訪れたが、川を渡って鎮守境内に響く木曽節、風と樹々のざわめき、その場に宿る地霊・樹霊の呼気を、あれは「ういのひといき」とでもいうものであったのか、と腑に落とす。
だが、『チェロ協奏曲』での原風景は安らぎや懐かしさというより、未だ生死のドラマ、光と影の相剋、天地の交錯であったろう。チェロの響きに包まれ、三善は森の境内にうずくまる。そこには『レクイエム』の阿鼻叫喚だってあったのだ、たぶん。それが聴こえもするのだ、実は。
同時に、境内の盆踊りの輪に入り踊っているボク、村の子らと遊びつつ、「わらべうた」を歌うボクが見える。日暮れれば、逢魔の時とみんな知っていた。お寺の鐘が鳴れば、みんな帰るのだ、カラスと一緒に、わが家に。ボクをよぶ母さんの声。囲炉裏で夕餉を囲み、蚊帳をつって、寝付くまでうちわでボクをあおいでくれた母さん。子守唄。そういう安心(あんじん)世界が、確かにあった。
私は幼少期(小学以前、もちろん東京)、近くの寺の境内でかくれんぼや鬼ごっこ、「かごめ」や「はないちもんめ」で近所の子らと遊んだ記憶がある。3歳で自由学園の子供ピアノグループに入り、4歳で平井康三郎に作曲、ヴァイオリンを学ぶ都会神童であったとしても、間違いなくそれらは毎夏の奈良井の盆にあった。そこに流れていたやさしい「時間」。
彼は信州で母の煙が山肌を伝い、梢とあそび蒼碧の空に溶けてゆくのに、安らぎと永遠の相を見る。まず死があり、生はその上に途切れ途切れに浮き現れる洲(しま)、という仏教的了解が降りてきたのは、『変化嘆詠』『レオス』を俟ってだ、とやはり私は思う。
『レオス』の3年後、『詩篇』が、『響紋』が、そうして交響四部作最後の『焉歌・波摘み』(1998)の子守唄が来る。
一方で、三善は子供の詩を1963年から作曲(『小さな目』など)、1973年『五つの日本民謡』『おてわんみそのうた』(東京の童歌)と、民謡やわらべうたを手がけており、この時期、彼の中に一貫して響き続ける子らの声があったことも指摘しておこう。
三善の日本は、そんなふうに訪れた。

本稿の最後に、最晩年の合唱曲『ゆったて哀歌集』(2004/混声合唱とピアノのための)4篇の第1曲《あーうんの子守歌》をあげておく。五木寛之が平和を願って書いた伝統的和讃(奈良以来の仏教讃歌)に則った詩に感動した三善が作曲を申し出たところ、新たに書き下ろしを渡された。第1曲は無伴奏で、その2番の歌詞を。上記の原風景そのままではないか。おまけに、「ういのひといき」(アウワ)まで、ここにあった。

《あーうんの子守歌》

西の空 夕焼け 流れる鐘の音
忘れた むかしの 子守歌
あなたの ほほえみに いつかは出会えると
信じて 両手を合わせます
あの水煙の むこうには
幾千年の 時の世界が
幾万年の 夢の世界が
あるのでしょうか 阿―吽

あなたに会いたくて
ここまで きたのです

スコア解説によれば、「ゆったて」とは、会津地方の言葉で、「結い立て」のこと。山道などの立木に「私はいま ここに来ています。あなたとお会いできずに」と結び残しておく置き文のことだそうだ。相手に届かず、虚しく残された無数の文の哀切を、三善はそのまま素直に歌った、と記している。
「あーうん」「あーうん」と繰り返されるフレーズが印象的な作品である。

(2026/3/15)

参考資料)
◆書籍
『遠方より無へ』三善晃著 白水社 1979
『鬩ぎ合うもの超えゆくもの』丘山万里子著 深夜叢書社 1990
『波のあわいに』三善晃+丘山万里子 春秋社 2006
『三善晃対談集 現代の芸術視座を求めて』音楽之友社 1989
◆楽譜
『チェロ協奏曲』 全音楽譜出版社 2011
『レオス』 全音出版社 レンタル
『ゆったて哀歌集』 全音出版社 2005
◆CD
『三善晃の音楽』〜管弦楽曲と協奏曲・響きの世界・言葉の世界
カメラータ・トウキョウ CMCD-99036-8 2008
◆YouTube
『正調木曽節』
『チェロ協奏曲』
『ゆったて哀歌集』

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