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私の10年|小石かつら

私の10年

Text & photo by 小石かつら (Katsura KOISHI)

私の10年は、関西学院大学文学部に着任してからの10年と重なる。関西学院大学文学部の美学芸術学専修というのは、西日本きっての歴史と伝統があり、すばらしい卒業生がたくさんいらっしゃる。歴代の先生方も同僚の先生方も卒業生が多い。私は卒業生でもなく、知り合いもいない。外様として完璧な状態での着任だった。選んでくださったことに感謝するばかり。

ところが、それがもう、たのしいこと!どんな授業にしようかとか、卒業論文をどうするとかいう基本的なことはもちろん、ゼミ合宿どこ行く?とか、バイトや恋愛のこととか、プチ事件もしょっちゅうあるし、話題に事欠かないどころか、話題に溺死しそうな毎日。卒業論文や修士論文の作成は、実際に書くのは私じゃないというジレンマもあって、常に試行錯誤だった。それが最近、チームで取り組むということを発見!たのしさ数倍増!もう本当にたのしくてたのしくて・・・。「文系の研究は個人でするもの」という常識を打ち破る、共同研究の手法がわかってきた感じ。「議論しながら一緒に考える」と、想定外の発見がいっぱいあって、日々びっくりの連続。それぞれがお互いの研究内容や進捗状態を、まるで自分の研究と同じくらい知っている状態なので、昨今のネット社会、いつでもどこでも議論可能。

そんな幸せ状態の今年度、「ガチの共同研究」メンバーは、大学院生2人、ポスドク2人、それに私、という5人。研究内容は兵庫のお祭り、明治日本、中世からのヨーロッパ、18世紀フランス、19世紀ドイツ、と、全くバラバラで5つ以上ある。その内の4人で、この9月、国際音楽学会東アジア支部大会に参加し、それぞれ研究発表をした。開催場所は中国の広西チワン族自治区の南寧市にある広西芸術学院。アジアを中心とした音楽学研究者が約120人集まった。私たちは23歳から53歳までの女子4人。いきあたりばったりの珍道中。

廈門

どれくらい珍道中かって、最初に飛行機を探して予約する時から大変だ!なんてったって、南寧市ってどこにあるかわからない。乗り継ぎの可能性は数多ある。さんざん思案して、厦門経由で往復した(香港から高速鉄道で4時間だということは出発の直前に知った。悔しい)。「学会の中」以外は、空港も、ホテルも、大学も、英語は通じなかった。市中で通じないのはもちろんだ。外国人は見かけない。つまり観光地ではない中国の大都市である。大量の電動バイクが、音もなく走る。それを我が大学院生は「スイミーみたい」と言った。なんとすばらしい感性だろう。片側3車線くらいの道路でも信号はほとんど無い。そこを堂々と歩いて渡れば、スイミーたちは「歩行者のいる場所だけ」止まってくれる。

南寧の公演で麻雀をする人々

スイミーたちは歩道も容赦なく猛スピードで走る。ヘルメット着用は2割くらい。3割くらいが2人乗りで、夕方は後ろに子どもが乗っていることが多い。子どもたちはお弁当を食べたり勉強したりしていた。これ、バイクの後ろの席での話。信号が少ないからか、渋滞状態に見えてもスイスイ走っている。電動だから空気はキレイ。スイミーたちの背後の夜の電飾はギラギラで、まぶしくて目が痛かった。

IMSEA発表の様子

街の喧騒とは裏腹に、学会は、ある種の緊張状態が張り詰めていた。4つの会場で発表が同時進行。その全部の教室で、2つ以上のカメラが別角度から発表の様子を録画する。それに加えて写真撮影もすさまじい。もともと政治的な文脈の発表はひとつもない。それでも、ぴりぴりしていた。その一方で、機材は古く持参したケーブル類は使えない。ボランティアの現地学生も機材に疎く、トラブル対応もできない。最年少参加者で初めての学会発表だった修士課程の学生さん、なんと、発表中に教室備え付けのコンピューターが動かなくなった。係の人もどうにもできない。そのピンチに、すっと立ち上がって舞台に登ったのは博士課程の先輩。普段と同じように慣れた手つきで持参した新しいコンピューターを繋ぎ直してくれて、発表はすぐに再開できた。私はハラハラしていたのに、ポスドクの先輩はその様子をカメラに収めた。その冷静さよ。私が発表した時には、答えにくい質問がきたその瞬間、学生さんが本気の顔で私にテレパシーを送る。「先生、準備してたアレや」。私は0.1秒でキャッチ。師弟じゃなくて共同研究者のなせる技である。
学会で知り合った研究者同士で、夜の屋台に繰り出した。才女が多く、なぜか日本語ができる人たちがいた。日本語だと周囲の誰にも会話内容がわからないから、安心して大声で話せる。聞くと、怖い話ばかりだった。監視がすごくて、何も言えない、何もできない。37歳の研究者が話す。「外国での学会で油断した私の彼は、パスポートを取り上げられて、それっきり、連絡が取れなくなった」。目の前の柔和な女性が話す現実に、相槌も打てない。「今も安否はわからないの?」と、聞こうと思ったその時、流しのカラオケ屋みたいな放浪芸人が本気で攻めてくる。首からラジカセみたいなのをぶら下げて、大音量で歌ってくれる(頼んでないのに)。大混乱だ。我が大学院生は放浪芸人を録画している。簡体語のアプリを使いこなして買い物をし、いつの間にか中国語も話して、タクシーも乗り放題。まるで《ラ・ボエーム》のクリスマス市のシーン。

広西芸術学院の学生らによる歓迎演奏会もあった。度肝を抜かれたことは言うまでもない。踊りや歌など色々あったが、最も驚いたのは民族楽器によるオーケストラ。ヴァイオリンの代わりに二胡や月琴のような弦楽器が弾く。つまり、西洋楽器が民族楽器に置き換えられたオーケストラなのだ。おそらく低音の民族楽器が無かったのだろう、チェロとコントラバスだけそのまま使っていた。舞台いっぱいの大編成で、ド迫力で西洋風の現代曲(ハチャトリアン風)を聴かせてくれた。チャルメラのような民族楽器の協奏曲は、チャルメラの超絶技巧でまばたきも忘れたと思う。ひたすら吹きまくる。速いパッセージをこれでもかと聴かせまくる。「ここで終わる」と感じてからの、さらなる上昇、高音の持続。お腹の底から興奮する。こんなの、生まれて初めて。いったいぜんたい、どうなってんの?なんなのこれは?何をめざしてるの?何をやってるの?笑うものなの?感動するものなの?そう、いったいぜんたい、音楽って、何なの?
呆然としていたら、大学院生たちがうれしそうに言う。「これってリアル『閃光少女』ですね!『閃光少女』は上海の映画で、中国の音楽大学で民族楽器チームと西洋楽器チームが戦うんです!その結果、民俗音楽チームが勝つんですよ!帰国したら研究室で一緒に見ましょう!」「え?民族音楽チームが勝つの?でも、今聴いたやつだと、土俵は完全に西洋音楽になってない?すでに西洋音楽が勝ってるんじゃない?演奏している楽器は民族音楽だけど、演奏している音楽は完全な西洋音楽だったし・・・」「その状態のことを、西洋音楽の土俵に乗ってしまっていると考えるんじゃなくて、我々民族音楽が西洋音楽を絡め取っていると考えているんだと思います!」「ええ?この状態で、西洋音楽を食い潰しているっていうこと?」驚愕の体験を直ちに議論する。本当の理想形だ。

最後のパーティーでは、学生さんたちが、今まで名前の活字でしか知らなかった世界中の研究者から声をかけられていた。「国際学会誌に投稿すべきだ、そのためにはこの部分を書き足した方が良い」とかなんとか、アドヴァイスをもらっている。私はなるべく近寄らないようにして、うっとり観察。学会誌の編集者と臆せず話す若者は、すごくまぶしかった。学会の会長のことも「ケイトさん」と呼んでいたし。
まだまだ、ぜんぜん、書き足りない。私はこんなに尊い時間を、共同研究者と過ごしている。なんと幸せなことか。なんと恵まれていることか。素敵すぎる10年。みなさん、本当にありがとう。

広西芸術学院発表会場の校舎

(2025/10/15)