私の10年|奇妙な人間|西村紗知
私の10年|奇妙な人間|西村紗知
Text by 西村紗知(Sachi Nishimura)
メルキュール・デザールが10周年を迎えた。私が最初に寄稿したのは「現代音楽のために――これからの「抵抗」へ向けて」で、2018年の第5回柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞作の改稿版である。当時は慣例的に、受賞作は『音楽現代』に掲載されることになっていたが、直前になって掲載不可になったので、改稿ののち掲載してもらうことになった。
改稿作業は丘山(元)編集長に全面的にサポートしてもらい、以後、演奏会評の執筆もさせてもらうことになった。私は、批評の稽古を2000字程度の演奏会評を書くことから始めることとなったわけである。メルキュール・デザールという同人媒体がなければ、私の今の批評活動はまったく違うものとなっていただろう。最近は演奏会評が書けておらず申し訳ないが、感謝に堪えない。
私のここ10年というと、会社員生活が10年目で、批評を始めてから8年目、商業デビューしてから5年目。昼の仕事である会社員生活と夜の仕事である批評、両方の仕事に向き合い、昼と夜それぞれが時間帯問わず脳内で干渉し合って、私は奇妙な人間になった。
昼の私は仕事を発注する人間であり、夜の私は受注する人間である。昼と夜、つまりは発注・受注という異なるフローで二重になった私は、どちらにも与できない。複数の異なる立場に立たされるのは社会人なら普通のことであろうと思うが、ひとつの立場からのみ常に物を言う人間を、私は信じることができなくなった。まずひとつ、これが私のここ10年の帰結である。
問題解決を図ったと思いきや、問題をどこかに追いやって、誰かに押し付けて先延ばしにしただけだったということはままある。それがさも問題解決に成功したと見せるのがいわゆる「歴史」というもの、つまりは事後的にしか成立しえない覇権的かつ恣意的な編年体の記述である。歴史は歴史的発展を人々のために騙るためのものだ。他方で私たちの小さな日々は、問題の先延ばしの連続で、ままならなかった出来事の積み重ねでできている。
ところでここ数年、ZINEカルチャーが注目を集めている。ZINEとは、比較的簡素な製本の、全国規模の流通網には乗らない自費出版物である。一般書籍を扱う書店に置かれることもあれば、ZINEのみを集めたイベントが開催されることもある。ZINE制作を通じ、表現活動を行い、人と人とのつながりを生み出す人が増えているようである。商業出版ではなかなか企画の通らない専門的な内容のものや、プライベートな記録文書、それから政治的な主張を含むものも多い。彼らの活動は、ひとくくりにはできないが、多くの場合、私たちの日々の実感の側に与するものだと思う。
この流れを受けてのことか、2カ月ほど前に宝島社から、ZINE制作のノウハウをまとめたムック本『はじめてのZINE』が発売された。しかしながら、ここに紹介されているZINEが書影を無断使用されていたというSNS上での告発を皮切りに、多くの反感が寄せられることになった。
書影の掲載にはそもそも許可が必要なのか、という議論が巻き起こった。ZINEは商業出版と違い利益を上げることを目的としていないという意見、それからセミクローズドな場でしかできない内容を扱っていることもあるのだから、むやみにZINEを商業出版で紹介すべきでない、といった意見も提出されていた。
私はこの軽い炎上をみて、出版社と、ZINE制作者それぞれに対して思うところがある。
まず出版社に対しては、各ZINE制作者への許可取りくらいはやるべきだと思った。実際の誌面制作は、フリーのエディター、カメラマン、ライター、DTPデザイナーなど、外注に出しているのだろうから(もちろん憶測に過ぎないが、すべてのプロセスを自社でまかなっているとは想像できない)。
ZINEについては、セミクローズドな場、という理念が何も知らない人からおざなりにされることもあれば、時に制作者側にとって都合のいい方便になってしまわないか、という懸念が拭えない。商業出版とZINEとでは勝手が違うと、説明することは大事だけれども、それで理解を得られるかどうかは話が別である。理念という、この金と納期に関わりのないところのものは、実際に金を払ってくれる客の価値観に相通じるものでもない限り、仕事上の説得材料にはならない。
表現活動はやりたいが表現活動しかやりたくない人、あるいは表現活動しかできない人というのはいる。表現活動に伴うリスクと後処理について、あまり実作業としてイメージできていない人が多いのではないかと思う。出版物は制作者の手を離れて一人歩きをし出してからが本番だ。
どうしてそもそもこのような出版企画が成り立つのか、ということも合わせて考えるべきである。ここ数年、商業と同人との間には、良くも悪くも距離感が失われている。私にとってこの『はじめてのZINE』という企画は、商業と同人との間の、今日特有の敷居の低さを改めて感じさせるものだった。
出版社は、編集部隊をそのまま、執筆者とのコネクションごと同人からピックアップすることもある。人文書院の「批評の座標」という企画には、商業デビューという名目のもと、若手の批評同人誌から人員が集められていった。『ユリイカ』2025年7月臨時増刊号「総特集=岡﨑乾二郎」には、『ZINEおかけん』の寄稿者が参加している。書店では両冊子が一緒に置かれることもあったらしい。
企画内容も商業と同人では重複する場合がある。『ユリイカ』2024年12月号「特集=お笑いと批評」を読むなら、あわせて『早稲田文学』増刊号「「笑い」はどこから来るのか?」と、文芸同人誌『限界』3号(東北芸術工科大学文芸学科4年(当時)の和田裕哉が主導して制作)とを、手に取るべきだ。執筆陣がそれなりに重複しているのがわかると思う。吉本興業所属の芸人からのインタビューでも取れれば、同人との差別化が図れると思うが、なかなかそうもいかなかったようだ。
出版社の制作事業は着実に空洞化している。編集物制作を統括する立場の編集者でさえ、嘱託社員であるケースを私は知っている。このままいけば、出版社は権利関係の処理に特化した組織になっていくのではないかと思う。人気のあるIP(知的財産)を有する出版社は、これの二次使用の際に発生する使用料で利益をあげていくだろうから、今後一層富を蓄積するだろう。そして、IPの二次使用のために役立つ文章を書く批評家でないと売れないだろうとも思う。
職能を有する者から順に、フリーランスとして独立していくのもやむを得ない。残された正社員には、彼らがやりたくないと残していった仕事の後処理の日々が続くことだろう。それらは例えば、権利関係の許諾申請が下りるかどうかやきもきしながら夜遅くまで会社に残ったり、顧客からのクレーム対応に追われたり、ステークホルダー同士の利害関係の調節役を買って出なくてはならなくなったり。名前も物も残らず、自分の手を動かしているわけでもないから労働の実感も覚束ないこうした仕事は、誰にとってもやりたくないものに違いない。
『はじめてのZINE』への一連の反応を見ていて、私は、かつて民俗学者の大月隆寛(a.k.a. king-biscuit)が、ブログでコミケに参加する人々を批判していたのを、ぼんやりと思い出すのだった。
趣味なんだからいいじゃない、とあなたたちは言います。誰にも迷惑をかけていないじゃない、とあなたたちは訴えます。違う。全く逆です。それがたかだかきちんと迷惑もかけられない程度のままだから、あなたたちはいつまでもそんなあなたたちのままなのです。(1)
「迷惑をかける」とはどういうことか。今の時代状況にあわせて考え直す必要があると思う。今や、迷惑系YouTuberのなかから政治家が生まれる時代である。「迷惑」はアテンションエコノミーにすっかり汚されてしまった。そういうわけで、「迷惑をかける」という行為を、社会にインパクトを与えるとか、金になるだとか、何かわかりやすく積極的なものとしてのみ捉えてはならない。
もっと否定・陰画的(negativ)な行いとしての「迷惑をかける」……思うに、物事の本質は至極シンプルである。「誰かが割を食わねばならない」。これである。
AIなどテクノロジーが発達し、やりたくない仕事がどれだけ減っても、やりたくない仕事の押し付け合いの発生件数が減ることはない。やりたくない仕事の押し付け合いが発生するのを、誰も防ぐことはできない。これが、この社会に普遍的な原理だと私は確信している。
「誰かが割を食わねばならない」という、この原理の外側にいられるかのような幻想を抱かせるようなところが、同人活動にはあるのではないか。(自分の責任で、自分が割を食うのだからいいという矜持、あるいはすでに割りを食ったことのある人間として制作する矜持は、高潔だが「迷惑をかける」の真反対である。)「誰にも迷惑をかけていない」のが実際にそうなのかどうかを考えても栓無いことだ。重要なのは、尻拭いする立場に置かれた自分を、奇妙にも想像できないという現実のほうである。それが大月のいう「きちんと迷惑もかけられない程度のまま」という発言の深層ではないかと、私は思う。
この10年でのことか、あるいはそれ以前からそうだったのか、人々は、自分が割りを食わないようにするための方便をたくさん生み出していった。しかし、割りを食うための方便、例えば、割りを食った後に今度はピンハネしてやろうなどと、狡猾にも自分に利益をもたらすための方便もまた、この社会全体には必要なはずなのだが、こちらはずっと手薄である。
Xと名称が変わったツイッターでの言葉を見て、私はそう思うのである。毎日のように男女論など格差にまつわる話題で意見を衝突させ、たくさんの小さな「亜運動」とでも呼びたくなるようなムーブメントがうごめいている。しかしながら、どの立場も割りを食わないようにしたいという意見表明に過ぎないと思えば、大差がないのでつまらない。
割りを食わないつもりの人間同士では共同体がつくれない。ツイッターでの言論活動が結局さほどうまくいかないのは、このためだと私は考える。弱くて狡い人間の、たくましい方便がないと、この社会の人々はつなぎとめられることもままならないのかもしれない。共同体の崩壊とは、狡猾な人間の消失と同時に起こっていくものだと思えば、自分ひとりが身綺麗なままでいようとする人間しかいなくなったのなら、その共同体はすでに崩壊しきっていると言ってもよいのだろう。
「雑誌」の理念を再考すべき時期に来ているのかもしれない。各人のやりたいことを束ねたに過ぎないものならば、その媒体でやる必然性はない。個人のnoteやブログなど、それこそZINEなどいくらでも発信する方法はあるのだから。そうではなく、各人のやりたいことを受け入れた結果としての、「雑誌」というものを考えるべきだ。この場合「雑誌」とは、他人の原稿を預かる場所である。預かるに至るまでの信頼関係の構築も含まれているので、なかなか一朝一夕にはいかない。
以前、丘山(元)編集長が、作曲家・梅本佑利についての作品評で揉めたことがあったのが、もはや懐かしい。あの時ツイッターでいろいろ言っていた人々に対し、編集部はそれならメルキュール・デザールに寄稿しませんか、と呼び掛けたものだったが、あれは編集部なりの「雑誌」の理念に基づいた行いだった。信頼関係を構築するコストを払った上での呼び掛けではなかったから火に油を注いだに過ぎなかったが、別に間違っていなかったと今となっては思う。
せっかくの10周年記念エッセイなのに湿っぽい内容になってしまったので、最後に、「迷惑をかける」に関連して、書き残しておきたいことがある。
私の知り合いに劇作家・梢はすかという人がいる。彼が主宰する演劇集団「遊星D」が、新作公演『書店から来た女』を、来年3月20から22日に北千住BUoYにて上演することを先日発表した。それに触れて梢が「たくさんの人に迷惑をかける準備ができました。 僕は地獄に落ちるので、皆様はぜひBUoYへお越しください。」とポストしているのを見て、私はなんだか嬉しかった。
かれこれ3回「遊星D」の公演に足を運んだ。シネフィルっぽい感受性と、サブカルっぽい感受性とが同じ平面にあるようで、それこそ同人的と言うのか、毎回、面白かったと思いつつも、何とも言えない感触とともに帰途についていた。
「たくさんの人に迷惑をかける準備ができました」。それなら私も、もう、何とも言えないだとか、どちらにも与できないだとか、言っている場合ではない。創作の側が「迷惑をかける」と言っているのだから、批評の側として「割りを食う」覚悟でいなければと思う。
そういうわけで、今年はちょっぴりサボり気味ですが、批評、がんばってみようと思います。
(1)1997-06-20 「研究」という名の神――あるいは、「好きなもの」の消息についてhttps://king-biscuit.hatenablog.com/entry/19970620/p1
(2025/10/15)

