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土田ヒロミ写真展『ヒロシマ・コレクション—1945年、夏。』|能登原由美

土田ヒロミ写真展『ヒロシマ・コレクション—1945年、夏。』
Hiromi TSUCHIDA: Hiroshima Collection, summer, 1945 

2025年6月28日~9月7日 中之島香雪美術館
Nakanoshima Kosetsu Museum of Art
2025/6/28~9/7 

Text by 能登原由美(Yumi Notohara) 

 壁にかけられた大きなパネルには、さまざまな遺物がひとつひとつ写し出されていた。 

衣服が多い。元の形を留めたものもあれば、ズタズタに破れ、キャプションを見なければよくわからないものもある。多くは色褪せ、大きな染みに覆われていたが、なかには美しい色合いに思わず目が奪われたワンピースもあった。ほかに、表面が剥がれたカバンや靴、下駄、フレームの曲がった眼鏡など。普段身につける小間物ばかりだ。 

 弁当箱が並べられた一角もあった。中身がどれも黒く炭化している。家を出るときに家族に持たされ、そのまま食べられることなく遺族のもとに戻ってきたのか。作った人の思い、食べるはずだった人の思いを想像してしまう。 

 向かい側には時計を集めたコーナー。多くは焼け焦げ、円盤の上の針も数字も見分けがつかない。ただひとつ、展覧会のチラシにもなった懐中時計だけは、遠目にも「8時15分」を指していることがすぐにわかった。傍らの説明書きによれば、持ち主は息子から贈られたその時計を肌身離さず持ち歩いていたという。8月6日もこの時計とともに被爆。大火傷を負って川に飛び込んだ。かろうじて帰宅するも、2週間余りのちに亡くなった。炎や水の中を潜り抜けたというのに表面がきれいなのは、ポケットに入っていたせいであろうか。あるいは、愛するわが子からもらった宝物ゆえ、必死に握りしめていたのかもしれない。 

 戦後80年を迎えた今年は、全国各地で戦争に因んだ展覧会が開催されている。 

そのひとつ、大阪の中之島香雪美術館で開催されていたのは、写真家の土田ヒロミが半世紀にわたり追いかけてきた「ヒロシマ」のコレクション。展示されているのは全て、広島平和記念資料館が所蔵する被爆遺物。いや、現物ではない。そのフォト・パネルである。 

 美しい風景というわけではない。かといって報道写真のような事件現場を伝えるものでもない。博物館に行けば見られるはずのものを、写真を通して見ることにどのような意味があるのか。 

もちろん、現地まで足を運べないという理由もあるだろう。けれども、ここにあるのは、焦土と化した街や、焼け焦げた死体、溶けた皮膚をさらしながら治療を待つ人々など、あの日の惨禍を記録した画像ではない。むしろ、ありふれた日常の道具である。傷だらけとはいえ、無地をバックにきちんと整えられたそれらは、ケースに入った展示物のような静けさをも湛えている。 

 展覧会の図録によれば、土田がこうした被爆資料の撮影を始めたのは1982年。これまでに400点近くを撮り溜めているという。撮影においては、「一切の私的感情を排して、資料を即物的に記録することに徹した。……私的で情緒的なイメージ操作を伴うような表現を避け、あくまでも資料のかたちと表層を忠実に捉える方法をとった。被爆した資料の欠損や傷跡を強調するのではなく、現代において誰もが日常の中で持っている類似の『かたち』と同格であるよう捉えた」とある。 

 確かに、写っているのは広島の資料館に収められている遺物の数々だ。けれども、単なる資料として、あるいは記録として以上に、「物」そのものの存在に思いを馳せ、そこに宿る命を見いだそうとしているように見える。 

 パネルから少し離れた位置にはいずれも小さな短い文章が添えられている。記録文書をもとに土田自身がまとめた言葉だ。このコレクションには、「文字」を一体化させることが重要であったともいう。 

 これらの遺物がいつ、誰によって資料館に寄贈されたのか。持ち主が被爆した時の様子や、その時に身につけていた物であったということ。形見として遺族に大事に保管されてきたこと。時には判別のつかない遺体を、愛する人のそれと同定するものとなったこと。安否不明の家族の最期を示す証拠となったこと。命を繋ぐことができた人にとっては、お守りのような存在になったこと。どれもがあの日の記憶とともにあり続けてきたことがわかる。 

 やはり、これらは単なる資料にとどまるわけではない。それぞれが物語をもち、さまざまな記憶を抱えている。時には持ち主に代わり、時にはそれ自体が体験したことを、観るものに語りかけてくるのだ。ガラスケース越しでは見逃しがちな、その「小さな声」に気づかせるコレクションであった。 

2025/9/15