Menu

アップデイトダンス No. 113 「静か」|能登原由美

アップデイトダンス No. 113 「静か」
update dance #113 echo of silence

2025年7月19日 カラスアパラタス
2025/7/19 KARAS APPARATUS
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by Akihito Abe/写真提供:KARAS

ダンス:勅使川原三郎、佐東利穂子

 

暗闇のなか、ほのかに光の当たった壁にぼんやりと影が浮かび上がる。くねった身体。少しずつポーズを変えながら、スローモーションのように動いていく。と、別の一角にもうひとつの輪郭が現れる。黒い服に身を包んだ二つの陰影。白く光った顔と手に、自然と目が惹きつけられる。静止した指先の、綺麗に整えられたそのラインに意識が集中する。

「静か」と題された舞台。「沈黙のダンス」ともある。確かに音楽はない。聞こえてくるのは空調の音だけ。それらは途切れることなく片隅で鳴り続けている。ゆえにいつしか背景へと溶け込んでいき…。それ以外には…?最前列に陣取った私は舞台上の人物に耳をそばだてる。目の前をゆっくりと進むダンサーたち。床の上を進む衣擦れの音だけが、微かに伝わってくる。

無音のなかのダンス。音楽はなくとも、仕草や動きからそれが感じられるに違いない。きっと聴覚ではなく視覚に訴えるのだろう。あるいは触覚かもしれない。空気の振動とか…。しかもひとりではない。ふたりいるのだ。交わる、重なる、離れる、接する。ペアによる舞台なのだからそうした共動があるはずだ。それがどこかの感覚を刺激し、聞こえないはずの音を引き出すのだろう…。と、たかを括っていた。期待は見事に裏切られた。

待てども待てども、踊り手たちが組み合うことはない。モーションが重なることもない。全く別の次元に存在するように、それぞれの時間と空間で舞う。いや、「舞う」という言葉もそぐわない。両脚が宙に浮かぶことはなく、また律動的でもないのだから。むしろ、自らを標本として骨や筋肉、腱、神経まで、あらゆる組織を動かすことで、キャンバスの上に身体の機能やフォルムの美しさを描き出そうとしているようにも見える。

少しずつ動きが速くなる。大きく回転する手が、網膜の奥に白い弧を残す。暗がりに軌跡を描きながら。反転したカリグラフィーのごとく。時にふたつの動きがシンクロする。磁場に吸い寄せられるように互いの体が近づいては遠ざかる。次はどうなるのか。その流れの先を読むことができない。どこまでもその行方をただ追い続けるだけだ。水中に滴り落ちる墨に似ている。予想はできない。だからこそ目が離せない。ひたすら凝視してしまうのだ。


なるほど、この舞台に音楽はなかった。錯覚することすらなかった。むしろ、音そのものが缶詰か何かの密閉容器に押し込められてしまったと言ってもいい。というのも、不思議なことに、一時間ばかりの上演中、客席からも物音一つしなかった。通常のコンサートであれば、多少の咳や飴の包み紙をいじる音、何かがすべり落ちる衝撃音など、必ず何かが聞こえてくるものだ。が、ここにはそのノイズさえ存在しなかった。あるいは、この場にいる誰もが「サイレンス」を求め、その生成に加担していたのかもしれない。とはいえ、その小さな目的のためだけに、長時間にわたって息を凝らし続けることなどできるだろうか。なにせ、はじめこそ耳をそばだててはいたものの、いつしかそのことも忘れ、ひたすら演者の動きだけを追いかけていたのだ。気づけば無音の闇に放り込まれていたのだから。

****

終幕後、さまざまな思いが脳内を乱れ飛ぶなか、勅使川原と佐東によるアフタートークが胸にストンと来た。彼らによれば、「沈黙は作るもの」だという。ただし、「音楽に現れる無音とは異なる」。むしろ、今日のように、「観客によって生み出される」ことも重要だった。であれば、客席にいた我々は、単に観劇していたわけではないということになる。ともにこの演目を作り上げていたわけだ。

あらゆるサウンドに覆われた現代社会。わずかな移動時間さえ、ヘッドフォンから流れる振動に耳を浸し続ける。少なくとも都会では、その侵食から逃れることなど決してできない。だからこそ、沈黙は今、音楽を作ること以上に難しくなってしまったと言えるだろう。もはや、発し手だけでなし得ることなどできないのだ。作り手と受け手との協働によって成立する舞台。少なくともこの日の上演は、大成功であったことは間違いない。

(2025/8/15)