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評論|三善晃の声を聴く(2)萩原朔太郎の詩と(中編)|丘山万里子

萩原朔太郎の詩と(中編)〜魂の共震域(1)精神・気質域での声

Text by 丘山万里子( Mariko Okayama)

三善の「声」の源泉を探るべく、三善が朔太郎の何に反応、その詩に同道したかを見たい。
三善は詩集《青猫》、《月に吠える》ののち、習作期作品から「〈霊智〉〈白夜〉〈決闘〉」の3篇を一つに編み『決闘』(1964)とした  。同年、男声合唱『五月』『いづかたに』の2作があるが、こちらは12年後、やはり習作期の愛憐詩篇(《純情小曲集》として選集)から編んだ『抒情小曲集』(テノールのための)の世界に近い。いずれも朔太郎少年期の詩情漂う詩篇を平易な書法で歌い、『トルスⅡ』『決闘』の青ざめた刃先とは異なる音調を持つ。
つまり三善は20年余をかけ朔太郎を遡行、少年のなよやかな息遣いへと戻って、その同道を終えるのだ。その間、1972年『レクイエム』が、そして朔太郎から離れて3年後に『詩篇』が来るのは、念頭に置いておきたい。
三善は何を求めて、朔太郎を遡ったのか。
朔太郎への本源的な「共震」(三善はこの言葉を使う)はさまざまに吐露されているが、筆者はその共震域を二つとしたい。一つは精神・気質域、もう一つは音楽・言語域。

まず、精神・気質域から。
朔太郎は大正期の日本近代詩の端緒に立つ詩人だが、中学時代から短歌を嗜み、1903年には与謝野鉄幹主宰の『明星』に投稿、3首が掲載された。10年後には北原白秋の『朱欒 』に詩を5篇発表、1917年『月に吠える』で詩人としてデビューする。石川啄木もどきで凡庸との評価であった短歌には1927年以降戻ることはなく、かつ、俳句に批判的であった。三善の師、池内友次郎は高浜虚子の次男で俳人であることを思い出しておこう。

三善が最初に音化したのは《青猫》(1923)だが、その「序」にはこうある。長いが引用する。

『青猫』
   私の情緒は、激情パツシヨンといふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聽く横笛のひびきである。
   ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。
    およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼(いと)けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鷄(にはとり)の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。
 げにこの一つの情緒は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。――中略――
    されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。

初版『青猫』の挿画「青猫之圖」

この序に、これは僕だ!と三善はひそかに叫んだに違いない。思春期にあって、多かれ少なかれ誰もが抱く感情と、若き悩み。それはまさしく「えれじい」だが、「春の夜に聴く“横笛”」なのである。ここには、朔太郎を取り巻く世界が見える。彼は群馬前橋の開業医の長男として生まれたが、その腺病質ゆえ学業にも馴染めず原っぱで寝そべって時を過ごすような子供であった。
三善もまた幼い頃は虚弱体質だったが、こちらは床の枕元で母が読み聞かせる芥川龍之介などに耳を傾けて育つ。少年期は活発、長野疎開時の地元少年(当地訪問、筆者取材)によれば大柄で「親分」オーラがあり、喧嘩と相撲にめっぽう強かったと言うから(本人の言)、朔太郎とはほぼ真逆。大柄とは、三善より年下の疎開村の子供の目には、そのように見えたのだろう。
が、「それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。」というくだりは、似ているのではないか。
「霊魂の影をながれる雲の郷愁」だの「遠い遠い実在への憧れ」は三善的には感傷過多感があるが、こういう感性は魂の基質のようなもので、三善にもあろう。筆者はそれを生来の気質と考えるが、その由来、つまり「故しらぬ靈魂の郷愁」を魂の「飢餓」と言いたい。この「飢餓」は、貧富、外的環境その他に関わらない。かつて筆者の恩師チェリストの青木十良が、芸術に必須なのは「魂の飢餓」と言った、それ。埋めようのない穴、欠落。
『波のあわい』で三善はそれを「欠乏」「不足」と言い、その飢えを「悲しいとか、苦しいとか、“哀”という字の感覚とか……」を子供心に感じ取ったと語っている。そう、なぜか悲、苦、哀、なのだ。そうして穴を埋めるとまたその横に穴があく、「掘っては埋め、掘っては埋めという感じで七十年間きてしまった……そうして“私” と  いう“人となり”ができてしまった。」(p.18)。創造とは創(きず)つき創ることで、痛み(傷み)を知らずにものは生まれない。全ての創造行為の初発初動にあるそれを、声なき声言おう。のち、三善は寺山修司『田園に死す』(1984/混声合唱と2台ピアノのための)を書くが、寺山もまた同じ飢餓型の詩人だった(『田園に死す』については、改めて述べる)。
朔太郎も三善も寺山も、そういう魂を抱いて生まれ、生きたひとであったのだ。が、このように「傷むひと」は、この世にごくわずか居れば良い。そのわずかに「宿命的に」(この受苦感覚も彼らの鍵だ)生まれた人間だけが、その「運命を背負う」。背負わされるのではない、背負ってしまう性(さが)、あるいは業(ごう)なのだ。一気にいえば、『遠い帆』の六右衛門につながる「宿命」と「責任」と「寄るべなさ」が、ここにある。
パリ留学から帰国の羽田、機窓から見た「墨絵世界」、そこで墓碑銘を立てようと思った、それも宿命と責任の三善の一つの負い方果たし方で、最後まで変わることはなかった。
この傷む(傷んでしまう)ひとの魂の声なき声(悲、苦、哀、「えれじい」)を、ここで確認しておきたい。

こうした生来の気質は、だが、時代・環境によっても助長される。
朔太郎『純情小曲集』(1925)出版に際し記された故郷の人々の無理解への恨みつらみには、幼い彼を蝕んだ激しい疎外・孤憂がどれほどのものだったかが知れる。

   かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。單に私が無職であり、もしくは變人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後(うしろ)から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴(ばか)が歩いて行く。」さう言つて人人が舌を出した。

異常なまでのこの疎外感、周囲との「異物感」は、裏返せば強烈な自意識(自我)の存在を知らせる。故郷の因習的な土地柄の厭忌と同時に、決して帰属し得ないものへの「郷愁」と「憧憬」はさらにかき立てられることになる。まさに「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」(『純情小曲集』より《旅上》)に極まろう。
都会型三善にこうした風土は見当たらないが、三善もまた「近世的な自我を含んだ人間、という意味からするならば、過去の東洋にそのような存在はほとんどいなかったのだろう」「芸術を、個の世界や、人間であることの安心乃至苦しみ」から考えると語るように(「創作に於ける国際性と国内性」『音楽芸術』1957年9月号)、海の向こう彼の地にこそ「自分」の居所があるように感じていたことは確かだ。
時代は隔たっても「西欧に触れることで獲得された“私”(個我)」という認識は両者共通で、これは明治以降の日本の知識人のほとんどが持ち、今なお、変わらない精神風土ではないか。
いわば西欧近代への日本の恋わずらい、罹ると長いのだ。
付け加えるが、漢文化到来、仏教伝来の折、見果てぬ憧憬に海を渡った日本知識層(学僧ら)の熱情も同様、 そもそも日本とはそういう位置どりの国なのである。

だが、この二人、気づいてしまうのだ、何か違うと。
朔太郎の場合。
『氷島』(1934)を最後に詩作から離れた彼は、すでに『詩論と感想』(1928)などの詩歌論で評論家として立っている。これらの膨大な評論はその詩作よりよほど多い。詩人としては彗星のように現れ輝き消えた流れ星。明治の漢文化を背に進取の気風の花咲いた大正期は、やがて第1次大戦(1914~18)へと突入、戦勝国日本は世界列強仲間入りに沸き、ナイーブな西欧崇拝から目覚め自国礼賛へと大きく針が振れてゆく。
そんな中で彼は『日本への回帰〜我が独り歌えるうた』を発表する。時代がファッショへ雪崩れる音を聴きつつ朔太郎が歌うのは「我が独り歌えるうた」。日本礼賛というより故郷喪失者の女々しい嘆き節である。
「少し以前まで、西洋は僕らにとっての故郷であった。」から始まるこの文章は、日清日露に勝利し「世界列強の一位に伍した」僕等は長い間の西洋心酔から覚醒したものの、気づけば自国文化は喪失、眼前には「虚無」が広がるばかり、という慨嘆と、いや、再度「西洋からの知性によって日本の失われた青春を回復」「世界的新文化を建設しよう」との鼓舞ではあるのだが、主旋律は「悲しい漂泊者の歌」である(『萩原朔太郎』ちくま日本文学全集)。

締めくくりはこうだ。

過去に僕等は、知性人である故に孤独であり、西洋的である故にエトランゼだった。そして今日、祖国への批判と関心とを持つことから、一層また切実なジレンマに逢着して、二重に救いがたく悩んでいるのだ。孤独と寂寥とは、この国に生れた知性人の、永遠に避けがたい運命なのだ。

日本的なものへの回帰!それは僕等の詩人にとって、よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。誰か軍隊の凱歌と共に、勇ましい進軍喇叭で歌われようか。かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。しばらく我が静かなる周囲を去れ。p.322

朔太郎は西洋的知性人ゆえの孤独と、伝統的日本人としての血との間に引き裂かれつつ、軍隊の凱歌や国粋主義の号令から身を遠ざけ、二重のふるさと喪失者として寄るべない我が身の漂泊をただただ嘆く。そして痛感するわけだ。
日本にも西欧にも居場所のない「宙吊り」の「私」。

では、三善は?
彼は西欧を「僕らの故郷」とは言わないが、明らかに西欧的知性(知識と知性は別物だが)のひとである。幼少からプーシキン、芥川龍之介『蜘蛛の糸』など母の読み聞かせで親しんでいたものの、その母が習う梅若一門(能)の舞・謡の音律に耳が馴染むことはなかった。それが突如姿を現すのは『変化嘆詠』(1970)以降だ。朔太郎に夢のふらんすは遠かったが、三善はリベラルな自由学園でピアノ、ヴァイオリンを学び、小学校から高校まで平井康三郎、のち池内友次郎に師事しつつ東大仏文へと進む。留学生としてパリに向かう三善は、スーツ姿で羽田から軽やかに飛び立つのである。
だが、そこでしたたかに思い知るのは 、カダンスに陶酔するシャラン・クラスでの自身の異物性、彼らとは決定的に異なる自分の位置、感性であった。ここは自分の居場所ではなかった。我がもの、と思っていた「近世的な自我」とは何だろう?フランスを夢見た詩人と、戦後パリに降り立った作曲家は共に西欧にこそ自我の在所を探ったが、いずれもその「宙吊り」を、朔太郎は二重の故郷喪失者として、三善はパリの異邦人として痛覚することになる。
「宙吊り」とは、つまりは自らの拠り所のない「寄るべなさ」で、それもまた「えれじい」に他なるまい。

二人の気づきはだが、こうした文化的宙吊りのみならず、もっと根源的なところにある。それは戦争という巨大暴力を眼前に、凝視せねばならなくなった人間の「悲業」(筆者造語で、非業ではない)だ。
朔太郎は戦前、昭和のファシズムの足音に、いかに「近代」を謳おうと、人間は邪智暴虐な人殺しへと瞬時に堕ちてゆくことを察する。いや、得体の知れぬその暗黒が自身に宿っていることも覚知している。三善は異邦人の自覚とともに帰国、羽田の機窓から少年期の生々しい戦時体験へと「自らの歴史」を振り返ることになる。そこから最後の合唱作品『その日―August 6』(2007)までの長い長い道のり。
西欧への憧憬を通して新たな個我の存立を目指した日本の近代知性が、自国の歴史・文化土壌への冷静な知見をも含めた自己咀嚼成熟に向かう以前に、大規模な戦争暴力がそれを絶った。朔太郎はあらゆる個我が蹂躙・抹殺されてゆくその現場にリアルに立ち会うことなく済んだが、まだ少年の三善は生々しい殺戮を流血を、その眼で見る。そうして彼自身もその共犯であるとの自覚に立ちすくむのだ。
二人が「最も傷んだ」のは、近代という夢や故郷という岸辺の喪失など抽象論ではなく、眼前の人間の「悲業」という具体であったに違いない。ひとはいつでも誰でも瞬時に悪魔になりうる。人を殺し、自分は生きる。その現実だ。先走るなら、だからこそ、彼らは「えれじい」を歌い続けた。もっと先走るなら、三善の最後の未完のオペラ『カチカチ山』の主人公たぬき(タヌ公)の自爆テロの姿が歴然とそこにあることを書き留めておく。筆者はむろん、まだ初稿にもならぬそのリブレットを『波のあわいに』の対話ののち氏に手渡され、ひととき預かり読んだに過ぎない。それでもここでそう言っておきたい。あれも、そうだったのだ、と。
悲業の悲歌、それは時空を超えた、普遍の、傷むひとの抑え難い「声」。
それは人類誕生の時から、ずっと響き続けている……今もだ。

最後に、三善の朔太郎遡行を、両者の「青春」をめぐって見ておこう。
朔太郎の詩作期間は『月に吠える』から『氷島』までの17年で、以降、評論を主とし、旧来の詩壇歌壇を厳しく糾弾した。彼の詩は、言ってみれば異物の塊を自傷自損する傷口からの青春のえれじいであった。
その抑え難い詩作衝動つまり青春期が終わると、彼は批評家に転身、自分を異物扱いした周囲への攻撃に転ずるのである。当たり前だが、青春は過ぎ去っても、その記憶が人生から消えるわけではない。彼は舌鋒鋭く現在の詩歌の堕落を指摘しつつ、『万葉集』『古今和歌集』をはじめとする名歌世界(特に恋愛和歌集)にその青春の記憶を重ね、熱心に愛でるのである。つまり里帰りだ。
一方、三善は朔太郎の青春えれじいに強く共震しつつも、その特異なじとじと陰惨湿地帯、底なし沼的言語世界には用心深く足を取られぬ選択をしている。それは『三つの沿海の歌』『トルスⅡ』『決闘』での言葉選びを見れば明らかだ。三善の青春もまた、えれじいには違いないが、それはもっと透明で硬質な純度を備え、刃もぴすとるも青ざめた血も、朔太郎のぬらぬら感を拒否、ぬぐい落とされている。筆者はつい、西村朗が朔太郎のこの種の言語感覚に飛びつき、さらにぬらぬらを増殖させるのを思い出し、作曲家の言葉への欲望と生理の全き相違を興味深く思う次第だ。
だが、おそらく『決闘』で、三善もまた自分の青春を一区切りとした、と筆者は考える。その後の彼が間をおいて、まだ短歌世界の残影を宿す柔らかな初期作品群へと遡行するのは、そこにこそ朔太郎の本質がある、あるいはやがて自分もそこへ戻るのではないか、という予感にあったのではないか。
『決闘』の2年前、三善は自殺願望での軽井沢行きから帰還、高田敏子『嫁ぐ娘に』(1962)を書く。この62年は、『弦楽四重奏第1番』、『三つの抒情』(女声合唱とピアノのための)、『白く』(ソプラノとピアノ)、『ピアノ協奏曲』、『金の魚の話』(合唱物語/ナレーション、バリトン、女声合唱と室内楽のための)、『組曲 会話』(マリンバ独奏のための)、『聖三稜玻璃』(ソプラノとピアノ)と多作であった。
三善の青春、パリ以前と以後。その間の自殺願望、それらは『決闘』によって吐き出され、彼は次へと歩み出す。
いずれまた、この青春の季節に立ち戻ってくるつもりだが、今はここまでとしよう。

「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」
この言葉とともに、次回は共震域の音楽・言語域を見つつ、『決闘』(1964)に触れたい。

(2025/3/15)

参考資料)
◆書籍
『遠方より無へ』三善晃著 白水社 1979
『鬩ぎ合うもの超えゆくもの』丘山万里子著 深夜叢書社 1990
『波のあわいに』三善晃+丘山万里子 春秋社 2006
『萩原朔太郎 ちくま日本文学全集』 筑摩書房 1991
『帰郷者』萩原朔太郎 中公文庫  1993
『萩原朔太郎全集 第7巻』筑摩書房 1976

 

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