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特別寄稿|対話・ IX : 演奏会主催者とピアニスト・パートナーの対話|アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ & 金子陽子

対話 ・IX : 演奏会主催者とピアニスト・パートナーの対話

アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ & 金子陽子

>>>作曲家と演奏家の対話
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>>> セルビア語版

アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ (A.D.)

読者の方々はこの連載の対談のタイトルが替わったことにすぐ気がついたことと思う。『作曲家と演奏家』の代わりに、『演奏会主催者とピアニスト・パートナー』と私達は記した。というのは、前月号でも記した1月16日のパリ・サンセルジュの丘でのコンサート開催にあたって、若きヴァイオリニスト、ドリアン・ランボーがパガニーニとシベリウスのヴァイオリン協奏曲を、貴女のピアノ演奏と共に弾くことを希望したのだ。この選択は平凡ではなく、この種の芸術的なシチュエーションにおけるピアニストの役割についての問いを投げかける。聴衆を前に最良のコンディションでコンサートに臨むために彼は貴女に共演を依頼した。これは偶然ではない。他の楽器の奏者と、とりわけ協奏曲を共演するピアニストは平凡なピアニストではない。一部の人々は『伴奏ピアニスト』と呼称する訳だが、実際は伴奏とは違った共演であり、特殊なコラボレーションであるという意味でこの呼び方は間違っている。
しかもこの共演はピアニストが他の楽器とデュオ(ソナタとも言う)、トリオ、四重奏、五重奏を弾く『室内楽』とも違う。クラシック音楽には沢山の微妙さがある、ということ、そしてこの職業の繊細さを、読者の方々に明らかにして行こう。

金子陽子

先日の演奏会では、ヴァイオリニストの希望で、5分のミニ休憩の間にピアニストの役割について貴方から実に的確な説明があったことで、聴衆から大きな反響があった。この体験から、ディスカッションすべき話題と判断して今月号のテーマとして取り上げることに意見が一致した。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、私が東京の桐朋女子高校音楽科(共学)時代に、試験や学内演奏会のためにクラスメートから依頼され初めて伴奏体験をした曲だった。小沢征爾や世界的な演奏家を輩出したこの学校の教育主旨の一環であろう、学内行事には専属伴奏ピアニストは関与せず、生徒同士で対応していた。ピアノ科の生徒数が他の楽器を大幅に上回る数だったため、このように学友から伴奏を依頼されるということは、大変名誉なことだった。生徒間の謝礼は勿論禁じられており、純粋に貴重な勉強ができる歓びを私は感じていた。
このようにして私は、この仕事が必要とする繊細な能力が如何に多様であるかということに気がついた。他者と自分自身の演奏を同時に制御して、主観的、客観的に存在できるということは、高度な技能の一つの形態で人間にしか出来ないことなのだ。

ところで実際にはどのように展開するのだろう? 私が当初感じ、その後自分の上達のために役立てたいくつかの点について書いてみよう。
ピアニストが『伴奏パート』を演奏するときの条件は以下だ。

第一の条件・『ソリスト』と呼ばれるパートナーが取るテンポに常に添って(最初の段階で)一緒に弾くこと。

第二の条件・『伴奏パート』を演奏する者は、『ソリスト』の音量を超えてはならない、何故なら、グランドピアノは恐ろしいほど大きな音が出るため、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロなど、ピアノに比べて(時には100倍も)高値の弦楽器の美しい音を覆ってはならない。

第三の条件・『伴奏パート』を演奏する者は、芸術的にも社会的にも控え目でなくてはならない、『ソリスト』以上の音楽的表現も、他のいかなる要求もせず、スデージに出る時は『ソリスト』の背後を歩き、プログラムにもごく小さな字で『伴奏者』の名前が記される。

そして一般に、社会的に、『伴奏者』とは、卓越した才能や、『ソリスト』になれるような根気を持ち合わせないピアニストと考えられているため、ニ次的な存在と見られている。

A.D.

貴女の言葉の合間に、芸術的な事実と全く異なる一般の見解や慣行に起因したある種の苛立ちを感じる。何故なら音楽作品というものは、人間の身体のように、すべてのパートが切り離せない一体となったもので、極く小さい部分であっても(つまり取るに足らないということにはなり得ない!)生命に関わる重要さを持ち合わせるからだ。絵画を例に取ると、外面に見える層の内側に有る様々な絵の具の層は作品の輝きに大きく貢献している。見えない部分でもそれ無しには作品は違ったものとなってしまう。となると、音楽でも同じことになると私は思うのだが?

金子陽子

正にその通り。協奏曲において、例えば、『ソリスト』という優越者の概念は勿論のこと、『主導する者』と『主導される者』があるという考えも誤ったものである。書かれた音の一つ一つは楽曲におけるその目的とはっきりした役割が備わっている。幾つかのピチカート(撥弦)の和音は時空間を限定し、作曲家が提案するリズムの効力を示す拍であるし、和音やトレモロはハーモニーに由来する色彩を定める。そこに、作曲家に定められた、なめらかさ、音の芯の質感といった音響素材の性質を読み取ることもできる。実際『ソリスト』のパートが必要とする表現に対する大体の回答は、楽譜の中に見つけられることからしても、おろそかにされるべき音など一つたりとも存在しない。即ち、ピアニストの役割は必要不可欠で、それなしには、作品は単に存在しないと言い切れる。室内楽においてもそれは同じである。

レジス・パスキエ氏とシューベルトのデュオ全曲演奏会、モダンピアノ。氏は必ず全開のグランドピアノ前に立って、ピアニストの演奏の詳細と幅広い響きをすべて確認し、背に受けつつ演奏する。2019年広東オペラハウス・中国

音量のバランスについては、私は3つの問題を提起することができる。まず、作品の読解の甘さから、ソリストのパートがオーケストラ作品の一部として構成され、即ちオーケストラパートと芸術的に対等である、という事実を人々は往々にして忘れがちである。次に、商業的な理由でレコード(CD)のプロデューサー達は『巨匠』『スター』が協奏曲だけでなく、双方が対等であるべきピアノとのデュオ作品(モーツアルトやベートーヴェンの初期の作品は、『ヴァイオリン伴奏付きピアノソナタ』だったことを忘れてはならない)においても『ソリスト』の音量を人為的に上げた。そのために、そのような録音を聴いた多くの音楽愛好家達が、ピアノパートは控え目に(消えるほど、と敢えて言わずとも)弾かれるように曲が構想されているという、作曲家の構想に対する根本的な誤りを信じてしまった。

更に、何世紀もの間にピアノという楽器が5オクターブから8オクターブにまで発展して様相が変わったことについても知っておかなければならない。モーツアルトやベートーヴェンの初期のソナタの幾つかは『(チェンバロの形をした)5オクターブしかないフォルテピアノとヴァイオリン伴奏』のために書かれており、今日のグランドピアノを使って行われる演奏では全く違ったものになってしまっている。ピアニストがこの楽器の発展を意識せず、しかもそれに伴う演奏方法の発展をも考慮しない暁には、その過ちは音のボリュームという枠を超え、作品の美学の問題に立ち入ってしまうという訳だ。

筆者のために造られた、クリストファー・クラーク製のワルターモデル

モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト等のピアノとヴァイオリンのための作品を歴史的なフォルテピアノで演奏すると、実は弦楽器の音の方が大きく、繊細さが欠ける、ということに気がつくものだ。

幸いなことに、古楽に傾倒した音楽家達によるバロック、クラシック、ロマン派の音楽における様々な研究、考察、実体験が演奏の境界を更に広げた。とりわけ初期においては困難に抗しつつたゆみなかったこれらの探究のお陰で、人々の感化と高度な要求が誕生した。私は、この恩恵により、新たな世代のピアニスト達がより高い価値を認められた文化財としての音楽に天職として興味を寄せることを期待している。

ピアニストの手の動きを時折見られる位置で演奏したいという音楽家も多い。ベートーヴェンのフォルテピアノとヴァイオリンのためのソナタ全10曲、マラソンコンサート。ヴァイオリン、ジル・コリヤール。2013年武蔵野市民文化会館

A.D.

これらの『紋切り型の考え』として、貴女は音の強弱の問題、一辺倒な解釈としてのピアニストと共演者のコラボレーションを描写した。この問題提起を例に取って貴女が指し示した『ソリスト』と『伴奏者』の区別、そしてピアニストが負う芸術的、社会的服従の条件、そして『伴奏者』がテクニック不足であるという仮定にもとづいた、ソロ活動ができないという謂れのない主張などを見直してみよう。

音楽作品は全体像の中で構想される。作曲家は決して協奏曲を独立したソロパートと場合に応じて演奏しても良い伴奏パートなどというようには考えない。むしろしばしばその反対に、ソロパートはオーケストラ(ソナタならばピアノ)の和声とリズムが成す織物から由来している。それらを離すことなど無分別でしかも不可能だ。作曲家の意志に反するから無分別であり、未だかつて、協奏曲のソロパートだけをオーケストラやピアノ演奏無しで聴衆の前で演奏した者がいないことから不可能である訳だ。

『スターシステム』は20世紀に出現した演奏技術の過度の価値付けから生じた、意図されていなかった産物である。パガニーニやリストの見事な技巧から、華々しさや、音の強さ、一秒間にどれだけ沢山の音を弾けるかといった肉体的なパフォーマンスだけを残し、音楽が語る処の真髄、芸術的精神的な内容、パフォーマンスの概念と往々にして対照的である美(真の美しさは控え目なもので、誇張もなく、それ自身から光を放つものだ)を軽視したものだ。

しかも、この肉体的、外面的なパフォーマンスの興奮が、表面的な興奮に飢えた聴衆の賛辞に溢れた成功に溺れてしまった、若く、才能ある音楽家達のキャリアを幾多破壊したことだろう。室内楽曲のピアノパートの技術的難度や協奏曲のオーケストラパートのピアノ編曲版の複雑さを見た限り、このような作品を弾きこなすピアノ奏者は完璧なテクニックと色彩に満ちた音色、溢れる想像力を持ち合わせているほか、他者と共演するピアノ奏者は、2重の聴力をも持ち合わせる訳だ。実際、ピアニスト達は自身の2つの手で違う音型を演奏し、多声部豊かなポリフォニー作品やフーガのような対位法の作品も演奏するだけでなく、2つの音響世界を同時に聴いて制御するという素晴らしい能力を培っている。初心者ではバッハの2声と3声のインヴェンション、そして5声のフーガも含まれる平均率全集によって、同時に複数の『物語』を発展させるという見事な能力を身につける(まるで、作家が複数の登場人物や出来事を一つの小説の中で発展させるように)。そして、この目を見張る見事さは、上記した超絶技巧とは全く違う次元のもので、ここではバッハ、ベートーヴェン、シューマンらの複雑な観念の層をひと時に震動させるのだ。これほどのピアニストは共演者の演奏を聴くだけでなく自身のパートを培い、しかも、弦、管、といった単旋律楽器にとっては得意な分野ではないポリフォニーのすべての秘密を共演者に伝授する。豊かな音楽的財産、様々な共演者との豊かな経験の受託者として、このようなピアノ奏者は涸れることのない神秘的な資源の探索の真の宝物なのだ。

作曲家の立場として、私は自身の体験から次のように結論したい。このようなピアノ奏者は理想的なソリストである、何故なら、その奏者はピアノを弾くのではなく、想像力を駆使してオーケストラのすべての楽器に成り代わる、それは新しい作品を演奏する際にかけがえない要素なのだ。。。

ラ・ロッシュギュイヨン城にてピアノカルテットのコンサート。ジャン・ムイエール、ヴァイオリン

Y.K.

これまでの対話を顧みると、『ソリスト』『伴奏者』といった語彙の使用は今日不適当ですたれていくように私は感じる。

親愛する音楽家や作曲家達との緊密なコラボレーションと考察から得たこれらの教えを、私は音楽を学ぶ若い生徒達にできるだけ早く伝授するよう努めている。

なぜなら、若い世代は昨今のソーシャルメディアの台頭で、聴覚ならず、視覚・幻覚の世界の崇拝に流される傾向にあり、音楽的で芸術的な純粋な指標を持つことを阻害されているからだ。

演奏家というものは、聴くこと、聴かれることで、真に存在が成り立つのである。

(2022/2/15)

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アレクサンダー・ダムニアノヴィッチ
1958年セルビアのベオグラードに生まれ、当地で音楽教育を受ける。高校卒業後パリに留学し、パリ国立高等音楽院作曲科に入学、1983年に満場一致の一等賞で卒業後、レンヌのオペラ座の合唱指揮者として1994年まで勤務すると共に主要招聘指揮者としてブルターニュ交響楽団を指揮する。1993年から98年まで、声楽アンサンブルの音楽監督を務める。1994年以降はフランス各地(ブルターニュ、ピカルディ、パリ近郊)の音楽院の学長を務めながら、指揮者、音楽祭やコンサートシリーズの創設者、音楽監督を務める。
作曲家としてはこれまでに、およそ10曲の国からの委嘱作品を含めた30曲ほどの作品を発表している。

作品はポストモダン様式とは異なり、ロシア正教の精神性とセルビアの民族音楽からの影響(合唱のための『生誕』、ソプラノとオーケストラのためのフォークソング、ヴァイオリンとオーケストラのための詩曲、ハープシコードのための『エルサレム、私は忘れない』、オーケストラのための『水と葡萄酒』など)或いは他の宗教文化の影響を受けている以下の作品(7つの楽器のための『エオリアンハープ』、弦楽オーケストラのための『サン・アントワーヌの誘惑』、声楽とピアノのための『リルケの4つの仏詩』、合唱とオーケストラのための『ベル』など)が挙げられる。

音楽活動と並行して、サン・マロ美術学院で油絵を学んだ他、パリのサン・セルジュ・ロシア正教神学院の博士課程にて研究を続けており、神学と音楽の関係についての博士論文を執筆中。

2019年以来、フォルテピアノ奏者、ピアニスト、金子陽子のためにオリジナル作品(3つの瞑想曲、6つの俳句、パリ・サン・セルジュの鐘)、アリアンヌの糸とアナスタジマのピアノソロ版が作曲されて、金子陽子による世界初演と録音が行われた。

Entendre

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金子陽子(Yoko Kaneko)
桐朋学園大学音楽科在学中にフランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科共にプルミエプリ(1等賞)で卒業。第3課程(大学院)室内楽科首席合格と同時に同学院弦楽科伴奏教員に任命されて永年後進の育成に携わってきた他、ソリスト、フォルテピアノ奏者として、ガブリエル・ピアノ四重奏団の創設メンバーとして活動。又、諏訪内晶子、クリストフ・コワン、レジス・パスキエ、ジョス・ファン・インマーゼルなど世界最高峰の演奏家とのデュオのパートナーとして演奏活動。CD録音も数多く、新アカデミー賞(仏)、ル・モンド音楽誌ショック賞(仏)、レコード芸術特選(日本)、グラモフォン誌エディターズ・チョイス(英)などを受賞。
洗足学園音楽大学大学院、ラ・ロッシュギュイヨン(仏)マスタークラスなどで室内楽特別レッスンをしている。
これまでに大島久子、高柳朗子、徳丸聡子、イヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエ、ミッシェル・ベロフの各氏にピアノを、ジャン・ユボー、ジャン・ムイエール、ジョルジュ・クルターク、メナへム・プレスラーの各氏に室内楽を、ジョス・ファン・インマーゼル氏にフォルテピアノを師事。
2020年1月にはフォルテピアノによる『シューベルト即興曲全集、楽興の時』のCDをリリース。パリ在住。

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