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五線紙のパンセ|・・・そのように聞こえるので仕方がない。移動ド聴取、あるいは機能ド聴取・・・|横島浩

・・・そのように聞こえるので仕方がない。移動ド聴取、あるいは機能ド聴取・・・

Text by 横島浩(Hiroshi Yokoshima)

今では廃刊となって久しいが、音楽之友社出版「音楽芸術」という雑誌を中学生のころから面白がって定期購買していた。当時は長野市の田舎で生活していたため、「音楽芸術」誌の存在すら知らなかったのだが、小学生時分に「レコード芸術」誌を書店に注文したところ間違って「音楽芸術」誌が届いたのだ。この雑誌を手にした衝撃は忘れられない。
「レコード芸術」誌は、巨匠たちの指揮や演奏のワンシーンが1ページまるまる割かれているカラーページが多数あり、知った名前の作曲家や演奏家が録音した音盤批評があり、毎号企画が催され広告ページも多くてすべてがゴージャスであった。しかし、この薄っぺらい雑誌はなんだ。同人誌か。誰かが書いた作曲作品批評に対して当の作曲家が猛抗議する文章あり、そもそもこの雑誌に書かれた作品批評文の辛辣さは子供の私にとって恐怖であった。しかし面白いもので、FMラジオから流れる「現代音楽」に馴染むに従い「音楽芸術」誌が恋しくなり、中学生になる頃には定期購読を始めていた。というか、東京で発表される新作なんて長野に住む私には全く縁がないし、聴いたこともない曲の批評を誰が読むのだろうと疑問を持ちながらも、面白がって毎月の発刊日を楽しみにしていた。
当誌上では論争がよく起きた。1979年、ほぼ半年間続いた「固定ド唱法か、移動ド唱法か」論争は教育問題を機に起こったが、音楽学分野にまで波及して泥仕合となった。論争の発端は、三善晃氏による「こどもの可能性を奪うもの-義務教育における音楽教育の諸問題」とタイトルされた論である。指導要領に設定された「目的」や「難易度段階」や、更に音楽が「豊かな情操を養う」迷信は、指導要領が改定される度に専門家(というより芸術家か)から突かれるのが常だ。この論の中で述べられた「現在、原則的に移動ド(唱法)にしてあるのは、相対音感を持っている大部分の子供が調性音楽を歌うのに適しているからだといわれる。しかし、調性音楽のほとんどが広い意味での転調(一時的な移調使用)をするのだから、途中でキーを乗り換えなければならない。・・中略・・初めからドをドと呼んでいれば、それ以外ないのだから(たった12)、これほど楽なことはない。」
たしかに12しかない音をそのまま読めることができれば楽譜(音高)が理解できていると、子供が自負するのは確かだ。
ここでは詳しくは書くスペースはないが、私がかつて小学校の教員を務めていた折り、五線紙に散りばめられたランダムな音名を毎時ドリル方式で解答させたのち授業を開始していた。低学年生であっても半年あれば確実にすべての児童が、高音部記号の音名(加線3本まで)を読めるようになった。驚くなかれ、子供たちが五線紙に記された音符の音名が読めることができるだけで、保護者の絶大な支持を得られた。つまりは、親たちが音名を読めないという現実の裏返しでもある。保護者から賞賛される子供たちは、音楽が得意教科となるわけだ。先の論争内で示されたデータの孫引きとなるが、1972年にアメリカで行われたノルトライン=ヴェストファーレン州公立学校で行われた千人規模のアンケートでは、両親が学校音楽教育で最も行って欲しい内容は「楽譜の読み書き」であったという(「音楽社会学入門」で知られるアルフォンス・ジルバーマンの調査)。私はその後、児童たちに音名と実際の音とのマッチングを指導し、簡単な初見視唱へと進めた。

五線譜に書かれている音名を歌う、固定ド唱法はどこに問題点があるというのだろうか。まず、「ドレミファソラシ」はグイード・ダレッツォにより階名発想で考案されたものなので、音名とは異なるという点にある。ト長調のG音は「ド」と読むべきであるということだ。二つ目に、純正調で音を取り良き旋律を歌うためには、大全音と小全音と大半音と小半音の音程を区別しなければならず、どの長調音階においても階名唱ができれば、よりよい旋律ができるようになる。従って、固定ド唱法であればニ長調音階の主音Dと第二音Eをレミと歌うこととなり、小全音音程を取る。主音Dと第二音Eは大全音でなければならないのだ。第三に各音の機能認識に、固定ド唱法が全く向いていないということにある。先に上げた大小の全半音の区別がないからである。
11世紀にダレッツォが提唱したソルミゼーション(日本でいう移動ド唱法のみなもとと言ってよいか)の重要性は、バッハの高弟アグリーコラが訳編した「歌唱芸術の手引き」(東川清一訳・春秋社)でわかりやすく解説されている。バッハの時代に7つのヘクサコードを使い、ムタツィオを橋渡しに読み替えを行っていたとは驚きでもあるが、それもソルミゼーションの重要性が当時まで引き継がれていたということ証なのだろう。
ここで、移動ドが「合理の不合理」な難点であると三善氏が指摘した転調を含む視唱をどう読むのかについてになるが、三善氏はこんな譜例を上げて「読み替えの負担」を追求する。

私は物心ついた時から移動ド、あるいは機能ドで読み聞きをしており固定ドはそのまま読めばよいのだから簡単なものだと感じていた。もしかしたら、長野県の徹底した音楽教育が刷り込まれたのだろうか、よくわからない。
ここに三善氏が上げた読みであるが、おおかたこれでよいが一部これはそぐわないという箇所があった。次号で東川氏が指摘した部分と符合する。機能を感じ取るとこれ以外には読めないし、少なくとも私には聞こえない。固定ド方式で音名を読むのは、そのままなのでそのまま読めばよい。しかし、和声を感じ取る内的高揚は全く得られない。

ここで、「機能ド」という言葉を何度も書いてきた。この呼び名を知ったのは、長野の高校教員からかつて受けた指摘による。機能ド唱法とは長調・短調でも主音をドと読む読譜であり、機能的にはまさにどの調性でもそのまま対応できるのが長所である。私は古典曲やロマン派近代まで、鑑賞の際に意識せずこの階名で聞き取りをしてきた。

先の三善氏の楽譜を機能ド読みすると、次のようになる。

この機能ド唱法にも難点があり、機能第一に読み取ることができるが、先に上げた固定ド唱法の二つ目の難点がここにも当てはまることになる。ただし、固定ドでは全く得られない機能の把握を、短調に於いても簡単に得られることができる利点がある。

興味を引いたのは、三善氏が別の例で上げた譜例である。三善氏は誤った移動ド読みを記し、次号でそれを訂正した。まさに、それが機能ド読みであったことである。ハ長調のEが持続され、和声はイ短調へと移る。移動ド読みでは持続している間も「ミ」と読む。しかし、三善氏はイ短調属七に転調したその瞬間「ソ」と読ませている(これは移動ド読み取りでは誤りだが、機能ド読み取りでは半分正解。しかし第一小節目シは誤り。レである。第二小節目頭はド)。

三善氏の論では、簡素で自然な旋律ですら、同一音を読み替えなければならないことに不合理を訴えている。三善氏はミレドが時には(移動ドでいう)ラソファに聞こえたりしないのだろうか?彼は、旋律を機能で聞くことができないのだろうかと疑問に思ったものであった。しかし、上に示した誤った移動ド読みは、機能重視の「機能ド」読みである。
この論争に間に入りまとめ役を務めたのは別宮貞雄氏であった。湯浅・中田による現代音楽堕落論や、クセナキスでたらめ論のまとめ役も彼ではなかったっけ?
その別宮氏の論文「併用したい音名唱法と階名唱法」に於いて「転調の多い十九世紀以降の音楽を扱う職業音楽家のためのソルフェージュ訓練では、階名唱法を採用することは、実際問題として不可能なのである。」と述べられている。では、どこまでならできるのだろうか。東川氏は簡単な譜例の「解釈譜」を上げている。欧米民謡風な一時的転調を含む8小節の楽譜である。解釈譜についても、三善氏は「すべての音について調性判断することに支えられています。」と書いている。つまりは、調性判断すればいいんでしょ??なにが負担なのか・・と私は思う。調性判断せずに演奏するほうがおかしいのではないか。このあたりでは公教育の場で、という前提での話ではなさそうになってくる。
調性判断は十九世紀作品では、やはり難しいのだろうか。ここで、私がどのように十九世紀の音楽を聴いているのかをカミングアウトしてみたい。フォーレの歌曲「夢のあとに」をとりあげる。
フォーレの和声については、デポルトが言うように古典和声の範疇で捉えられるのか、弟子のケックランが旋法の中でフォーレを取り上げているように旋法が支配しているのか。
私は、このように聞こえる。1.機能ド聴取2.移動ド聴取3.固定ド聴取。いずれにも聞くことはできるが、優位性は13の順である。

このような多くの「解釈」を含むべき聴取方法に、ちょいと悩むことがある。ピアノパート第2小節目のCEはは経過音には聞こえないため、ドリア調を予告するのかどうか、すると次の和音でHが鳴らされてドリア調と判断するに足りる迷いが出る。そうすると、読譜はまた違ってくる。いや、しかし私は先のように聞こえるのだ。
フォーレが学んだルフェーブルの和声学はとんでもない広範囲に渡る変化和音を各機能下に設定しているため、第3小節のHを変化音と捉えることもできるかもしれない。いや、鋭敏な耳にはHの音が衝撃的に響くはずである。私はその和音機能を三度調のドッペルドミナントの7の和音と、無意識に判断して聞いていることになる。
今でも続く固定ド移動ド論争に私は関りたくはないが、少なくとも固定ド唱法・聴取がつまらないものだとは私自身実感している。
ちなみに、転調を含む移動ド読みが過度の負担であるという意見には、ソルミゼーションでイオニア旋法音階を(現在のハ長調)をド・レ・ミ・ファ・ソ・レ・ミ・ファとムタツィオを行い読むことを記しておく。そしてこれにムジカ・フィクタが加わるのだから、中世ルネサンスの音楽的感性、恐るべし。ティンクトリスはムジカ・フィクタ臨時記号を記すのは恥だとしていたもんだから、ヘクサコードの読み取りからムジカ・フィクタを選ぶ術など私にはわからず、どのリアリゼーションが正しいのかも私にはわからん。ただ、後期バロック・古典派以降の機能重視の和声学とそこに乗る旋律には、私でもいにしえの理論「グイドのソルミゼーション」に基づいたものではないかと思われる聴取ができているので、移動ド・機能ド唱法や聴取は世界で今後行われるに違いないと思っている。それに、そのような聴取ができることを幸せに感じているのは事実である。固定ド・移動ド論争に関心が無いのは、個人の幸福を侵害されたくないという、ただその一点であり、たまたま獲得してしまった機能ド聴取能力を誰にも侵されたくないという思いでいるからである。

(2021/8/15)

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横島 浩 (Hiroshi Yokoshima)
1961年生まれ。長野県出身。
才能教育研究会にて片岡ハル子氏ほかにピアノを師事。
武蔵野音楽大学大学院(作曲)修了。作曲を池本武、竹内邦光、田辺恒弥の各氏に師事。ピアノを木嶋瑠美子氏に師事。
1988年、第5回日本現代音楽協会新人賞入選。
1989年、第58回日本音楽コンクールに入選。
1990年、第7回日本現代音 楽協会新人賞入選。
1990年、作曲家グループ「TEMPUS NOVUM」創立に加わり創作活動を行う。
2005年、第74回日本音楽コンクール作曲部門第1位、併せて明治安田賞を受賞。
現在、福島大学人間発達文化学類教授