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小人閑居為不善日記|一度きりの神々の話――萩尾望都とジャスティス・リーグ|noirse

一度きりの神々の話――萩尾望都とジャスティス・リーグ
Moto Hagio and Justice League

Text by noirse

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マンガ家・萩尾望都が語り下ろした《一度きりの大泉の話》が話題になっている。ある種の自伝なのだが、これが色々と波紋を呼ぶ内容だったからだ。

一部のマンガ読者にとって、萩尾望都は特別な作家だ。多くの名作をものにし、50年ものあいだほとんど途切れなく執筆を続けて今でも衰えがないという、ほとんど類例のない存在だ。

特に《ポーの一族》(1972-)、《トーマの心臓》(1974)などの70年代の作品は、「24年組」と呼ばれる同時代の作家たちと共に少女マンガの流れを決定的に塗り替えたとされ、最大級の賛辞を受けている。また現在のBLに繋がる少年愛ブームの火付け役と評価されていた。――《一度きりの大泉の話》が刊行されるまでは。

萩尾はデビュー後すぐ2年ほどのあいだ、大泉の一軒家で、同世代のマンガ家・竹宮惠子とシェアハウスしていた。そこに若いマンガ家が集まり作家同士交流することで、萩尾の初期傑作群が誕生し、のちの竹宮の代表作《風と木の詩》(1976-84)の下地を作っていった。このコミュニティは「大泉サロン」と呼ばれ、少女マンガ版のトキワ荘と見做されていた。

《大泉の話》はその定評を覆した。詳しい内容には踏み込まないが、いわば萩尾から竹宮への絶縁状で、さらに少年愛に興味はなかったと自作の評価にも異議を唱えたのだ。萩尾はこの時期については触れたくなかったようだが、大泉時代についてあまりに聞かれることが多く、ドラマ化の依頼など来るに及んで表明しておきたかったらしい。

24年組だとか大泉サロンというのは周囲の一方的なカテゴライズであって、それに対して当人が違和感を持つのはよくある話だ。この時期に関しては竹宮も著書《少年の名はジルベール》(2016)をものしており、双方の見解には食い違いが生じている。何があったかなど結局藪の中だし、作家自身が言っているからといってそれが正しいわけでもない。

萩尾や竹宮は、熱心なファンにとっては一種神格化されている。とはいえ彼らも人間で、悩みもすれば諍いもある。《大泉の話》はそうした虚飾から身を置き、静かな生活を手に入れるための闘いだ。

同時に作家自身による自作の再評価という側面も大きい。ジェンダーSFを多く手掛けてきた萩尾の初期作が同性愛を扱っていたという図式は「分かりやすい」作家理解であり、その否定はファンや研究者にはそれなりに衝撃だったろう。

これだけの齟齬が作家と読者のあいだに横たわっていたのは、萩尾や竹宮が「神」であり、彼らが「神々のヴェール」に包まれていたからだ。もちろんプライベートは秘すべきだが、自作についてコメントしたくとも、難しいこともあっただろう。だが作品と読者を取り巻く関係性は、今では大きく変わってきた。

2

先月、映画《ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット》が配信リリースされた。4時間もある大作だが、大きな評判を呼んでいる。

《ジャスティス・リーグ》は2007年に公開されたDCコミックのヒーロー映画だが、シリーズ全体の陣頭指揮を執っていた監督ザック・スナイダーに家族の不幸が起きて降板、急遽別の監督を立てて公開するに至った。しかし興行は苦戦、スナイダーのファンが本来のヴァージョンでの公開を望み、ツイッターでハッシュタグ「#Restore the SnyderVerse」が展開。結果、今回の配信へと繋がった。

スナイダーが手掛けたDC映画はシリアスで、興行成績は悪くはなかったもののさらなる成功を望んでいたワーナー本社と監督は次第に対立していった。スナイダー降板後に起用されたのは、ライバルのマーベルで《アベンジャーズ》(2012)、《アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン》を監督したジョス・ウィドン。ウィドンの軽妙なセリフ回しやコメディタッチの作風が、それまでのシリアスなトーンを緩和すると目されたわけだ。

マーベル映画は親しみやすさがウリだ。それはコミカルな要素だけではない。たとえば「政治的正しさ」もそれに当たる。マーベルは、特にディズニー・スタジオ傘下となってからは、社会的なメッセージ性を強調するようになってきた。

マーベル最大の「政治的正しさ」の成功例は、黒人層の大きな支持を得た《ブラックパンサー》(2018)だろう。《ブラックパンサー》はそれまでの白人中心だったヒーロー映画を、黒人にとって「親しみやすい」ものへと変えた。多様性を打ち出すことで、興行面でも批評面でも好評を得た、理想的なケースだ。

というと聞こえはいいが、これは営業戦略でもある。巨額の予算をかけた大作は、アメリカ国内だけでの興行ではもう採算が取れない。そうなると他国での成績が鍵となるが、その場合白人男性ばかり出演させるより、多様な人種を織り交ぜていくほうが望ましい。《ブラックパンサー》の場合は舞台をアフリカとすることで、そちらでの成功も見込んでいたはずだ。

しかしあけすけに言えば、人口と成長率から見て最も重要視されるのは中国だ。マーベルの次々回作《シャン・チー/テン・リングスの伝説》とそのまた次作の《エターナルズ》の主演を務めるのは中国系の俳優である。

というとこれはこれで実際的すぎるように聞こえるかもしれないが、白人男性中心のキャスティングに偏らない、多様性を重視した政治的正しさをキープしてもいる。だが中国資本の目配せが過ぎるのも考えもので、ディズニーは《ムーラン》(2020)で新疆ウイグル自治区の政府機関への謝辞をエンドクレジットに記載していたことがSNSで拡散され、ボイコット運動へと発展していた。

かといってリベラル層だけを重視していればいいわけではない。たとえば《ゴーストバスターズ》(2016)は、女性中心のキャスティングが一部の白人男性から反発を喰らい、大きな炎上騒ぎへと発展した。その影響かどうかは断言できないものの、続編の見込みは薄いのが現状だ。

他にもキャンセル・カルチャーで取り返しのつかない事態に追い込まれたケースは少なくない。SNSが無視できない影響力を持つ今、手堅いターゲット戦略と「政治的に正しい」ルートの折衷案を模索し続けることが成功の筋道なのだろう。現在のハリウッド映画にとって「政治的正しさ」とは、SNSへの迎合主義なのだ。

3

翻ってDCはどうだろうか。もともとコミックの映画化に定評のあったスナイダーは原作のイメージを重視するためか、マーベルほどマイノリティを重視したキャスティングを行うことはなかった。製作を務めた《ワンダーウーマン》が、ほぼ初と言える「女性のためのヒーロー映画」を実現したとして絶賛されたが、それも主に監督のパティ・ジェンキンスらの功績で、スナイダーの意図が大きく反映していたかといえば怪しいだろう。

スナイダーが「政治的正しさ」に無関心だとまでは言わないが、そこまで興味がないのも事実だろう。言い換えればSNSの反応に必要以上に気を配っていないということでもある。

これはスナイダーという作家性に拠るものだと思う。彼の作家的特徴は、自らのヴィジョンを優先させるということだ。それに全力を注いでいるから、SNSウケなどに関心を向ける必要がないのだろう。

スナイダーはインタビューで述懐する通り、ヒーローの神話化に注力している。マーベルのヒーローのような親しみやすさとは別次元にある、ヴェールの向こうに包まれた神話的世界。

これはマーベルからすれば古臭く時代にマッチしない、反動的な映画だろう。それはその通りだと思う。だがこう考えてみてほしい。SNSを常に意識した作品ばかりを見たいものだろうか。たまにはそうした風潮から距離を置いた作品も見たくならないだろうか。

本来作品は受け手と一対一の関係にあり、そのあいだに介入するものはない。しかし現在はそこにSNSが入り込み、それを通した観点から作品を楽しむ傾向が強まっている。地上波で人気のある映画が放送されると、ツイッターで先を争うようにネタが投下される光景はめずらしくない。それはそれで楽しいかもしれないが、そこに感想が規定され、本来持てるはずだった解釈を抑圧することだってあるだろう。それくらいならまだいいが、些細なことで炎上し、残念な結果に繋がったりもする。

かつて作品とは、一度完成すれば固定化され、動かしようのないものだった。しかし今ではそれは怪しくなってきている。作品はSNSを通して弾力性を持ちつつある。もうSNS以前の世界に戻ることはできないだろうし、「作品の弾力化」は加速化していくだろう。

Netflixが製作した《ブラック・ミラー:バンダースナッチ》(2018)は、視聴者がストーリーを選択しながら楽しむ双方向性が注目された作品だった。こうした動きはさらに加速化するだろう。あらかじめ複数のヴァージョンを製作し、炎上したらすぐに内容を差し換えられるようにしたり、初めから複数のヴァージョンをリリースするような未来が待っていてもおかしくない。

SNSで送り手と受け手の距離が縮まれば、萩尾が思い悩んだようなケースも幾分かは緩和していくかもしれない。しかし同時に、作品が固定化していた時代も終わりを迎えていくのだろう。《ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット》は、「神々の時代」の巨大な墓碑銘なのかもしれない。

 

(2021/6/15)

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noirse
佐々木友輔氏との共著《人間から遠く離れて――ザック・スナイダーと21世紀映画の旅》発売中