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五線紙のパンセ|淡路東宝といしいひさいち|今村俊博

淡路東宝といしいひさいち

Text by 今村俊博(Toshihiro Imamura)

通っていた小学校では4年生になると「クラブ活動」という授業があった。僕は「地理歴史研究部」というクラブに入り校区内にある旧亀岡街道を歩いたり、古い建築物を訪ねたり、それらの歴史について学んでいた。古い瓦塀が残っている屋敷にお邪魔して塗り込まれた瓦の数を数えていた。何度数えてもどこかで間違えてしまうのか同じ数になることもなく、ついぞ正しい数は分からなかった。
僕が育った町は大阪市内とはいえ昔ながらの雰囲気が残る地域で、古くから住む地の人も多かった。母が育った土地でもあり、幼稚園、小学校、中学校と母と同じ学校に通った。幼稚園にいたっては先生まで同じだった。母方の実家も同じ町内にあり、両親が共働きで小学校低学年のころから鍵っ子だった僕にとっては祖父母との思い出のほうが多いかもしれない。
その町は「菅原」といい大阪市東淀川区にある。最寄駅は阪急京都線淡路駅。かの菅原道真が淡路島を目指して淀川を船で往く途中、当時まだ中洲だったという淡路駅付近に降り立ち、「ここが淡路か」と淡路島と勘違いしたことから名付けられたという。隣接する菅原もその縁で呼ばれるようになったとか。勘違いで生まれた町。

そんな淡路駅の商店街には「淡路東宝」という映画館があり、子どものころ祖父母に連れられ『ドラえもん』などを観に行った。その頃はまだ完全入れ替え制ではなかったからか、少し早く着いたら前の上映回の途中でもシアター内に入り、入口付近の席に座ってしばらくぼーっと状況の分からない物語が展開されるスクリーンを眺めていた。次の上映回との間にいそいそと席を移動して中央付近に座る。映画が終わったら隣接する「喫茶トーホー」で「キューピット」を飲む。もしかしたら、幼少の僕にとっては映画よりも終わってからの「キューピット」が楽しみだったのかもしれない。カルピスの原液をコーラで割る悪魔的な飲み物で、いまでも無性に飲みたくなったときに作ってしまう。ジトっとした夏の暑さと、少しかび臭いシアター内、そしてサングラスをかけた祖父の顔、それらと結びついている。
しかし、「淡路東宝」での映画体験は小学校低学年くらいまでだと思う。『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』や『ハリー・ポッター』シリーズは「梅田ピカデリー」で観た。

淡路東宝(2019年撮影)

いまでこそコンサートや読書、観劇、映画など雑食でとりとめのない趣味と友人たちに言われるけど、我が家は決して文化的といえるような家庭ではなかったと思う。音楽にしても映画にしても、小説や漫画、観劇など自分から望まない限り触れることはなかった。どちらかというと白浜や大山などへ遠出をした記憶が強く、映画などに僕を連れ歩いてくれたのは祖父だった。
同い年の友人夫婦に子どもが生まれ絵本の話をしていても、彼らの口から出てくる幼少期に自分が触れて思い出にある絵本のタイトルのどれもが読んだことのないものだった。実家で絵本に触れた記憶もない。記憶にあるのは「日本昔ばなし」シリーズくらいだ。「コロコロコミック」などのコミック誌を買ってもらったこともなく小学校までは本を読むという習慣もなかったように思う。いろいろな文化に触れた年齢が少し遅かったからか、原体験のようなものをはっきりと記憶している。

『ザ・ビートルズ1』

たとえば初めて買った「CD」は『ザ・ビートルズ1』。鮮烈な赤に大きく「1」という数字が配置されたジャケットは印象的だった。こづかいを握りしめ近所のスーパー「イズミヤ」の2階に入っていたCDショップへ向かった。

森見登美彦『太陽の塔』

初めての「本」は中学に上がり、誕生日プレゼントとして祖父が買ってくれた。それまで夏休みの課題図書くらいしか読書習慣がなかった僕は、本を買ってくれるという祖父の言葉に胸を躍らせ「イズミヤ」の2階に入っている書店で平積みされている本を片端から手に取って選んだ。初めて自分で選んで買ってもらった本は森見登美彦『太陽の塔』だった。第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した傑作である。その読書体験はすさまじいものだった。ハードカバーの帯に書かれていた「ファンタジー」の文字列に勘違いしてしまったんだと思う。何か夢みて手に取り買ってもらったんだと思う。今思えばそこから今に至るまで、何かがズレている気がする。「イズミヤ」の2階だけが、僕が知っている文化のある場所だった。

初めて「漫画」に興味をもったのは「BSマンガ夜話」の放送を見たことだった。番組で取りあげられていた作品を少しずつ買って読んだ。それから毎日、新聞に掲載されている4コマ漫画を読むのが楽しみになった。「アニメ」体験も覚えている。自分が見ているものが「アニメーション」だと認識し、様々な作品に触れるきっかけになった『THE ビッグオー』。当時サンテレビで深夜に放送されているのをたまたま見かけて、のめり込んだ。毎週夜更かしをして楽しみにしていた。
中学の終わりくらいから、それまでの反動なのか漫画や小説やアニメを貪るように摂取した。そのころには「サブカルチャー」なんて言葉も知り、いろいろな媒体で紹介されていた作品たちに後追いで触れていった。
初めての「コンサート」はフェスティバルホールで聴いたデュトワ指揮、チェコフィルの演奏でメインは『春の祭典』。「舞台」はラーメンズ第17回公演『TOWER』だった。「映画」を意識したのはなぜか劇場で観たものではなく、テレビでやっていた伊丹十三『タンポポ』だった。生卵を口移しするシーンの衝撃は忘れられない。
オタク的なものにあこがれ、興味を持ち楽しんで触れるけど、どこかでいつも醒めてしまう。いわゆるファン心理のようなものもわからず、没入するような体験をするなんてことはなかったように思う。それは今でもそうだ。誰かの言葉を借りれば、僕にはオタクになるための執着心と狂気が足りないんだと思う。

興味をもつ発端としての原体験があり、そこから地続きに様々な作品に触れる日々は変わらない。だけど歳月だけは経ち、記憶と紐づいた個人的な場所が失われていく。
淡路商店街にあった「純喫茶アメリカン」もそのひとつだ。駅舎及び周辺の再開発により取り壊されて今は「喫茶アメリカン」として新設された東淡路商店街アーケード内に移転して雰囲気が変わってしまった。
いしいひさいちが漫画『バイトくん』を構想していたと語る場所であり、淡路駅のある東淀川区は『バイトくん』シリーズの舞台となっている。区名は「東淀川大学」として作中に登場するし、区内にある地名の「柴島」や「崇禅寺」などはバイトくんの通う大学の同級生としても登場する。
漫画の面白さに気付き、毎日読んでいた新聞に掲載されていた4コマ漫画はいしいひさいちの『ののちゃん』だった。祖父母、両親と妹と連れ立って、唯一家族全員がそろって観に行った映画は『ホーホケキョ となりの山田くん』だった。
「淡路東宝」も「純喫茶アメリカン」も、いまはもうない。「淡路東宝」は取り壊されずに残ってはいるし「喫茶トーホー」は営業を続けてはいるけど、それはかつてとは別物になってしまった。
つい先日「ユジク阿佐ヶ谷」が2020年8月いっぱいで休館するという報があった。阿佐ヶ谷に越してから何度も通った場所だ。ここも、続いている。これまで様々な作品に触れる中で出会った場所である。

数える人Ⅷ(今村俊博/2020)
リモートワークでの撮影風景

誰かが勘違いして生まれた町で、駅から実家への道すがらいまも誰も正しい数を知らない瓦塀はある。ふとした時に、いまならちゃんと数えられるかもと思ったりする。そんなことを考えながら、僕は自作で数え続けている。無くなったけど取り壊されずに残っている場所もあれば、予想だにしない事情により立ち消えてしまう場所もある。地続きだと思っているのも、中洲を島と間違ったように、ただの勘違いかもしれない。勝手な思い込みかもしれないが、やはり無くなってしまうことで得も言われぬ喪失感を味わうのは紛れもない事実である。
次回が最終回です。では、また来月。

                (2020/7/15)

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今村俊博(Toshihiro Imamura)
1990年大阪府生まれ。作曲家・パフォーマー。
東京藝術大学大学院美術研究科修了。第6回JFC作曲賞入選。
作曲を井上昌彦、川島素晴、古川聖の各氏に師事。
池田萠との「いまいけぷろじぇくと」、藤元高輝との「s.b.r.」メンバー。「数える/差異/身体」をテーマに創作活動を展開。