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ルネサンスと鳩時計——東京人から見たスイス|オーベルマンの谷で(1)|秋元陽平

オーベルマンの谷で(1)
In the valley of Obermann (1)

Text & Photos by 秋元陽平(Yohei Akimoto)

私はこのスイス紀行のコラムをトーマス・マンの『魔の山』を引用することによってはじめた。『魔の山』はスイスを舞台として描かれた小説の中でもっとも知られたものであるとはいえ、マンはドイツ人である。いまになって「スイス人」作家の引用によってはじめてもよかったのではないかとも考えた。だがスイス人作家と聞いたとき、市井の読書家は果たして誰を思い浮かべるのだろう? 海外文学を手広く読む人ならば、古典新訳文庫でも近年翻訳のあるフリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)や、近い世代のマックス・フリッシュ(1911-1991)を挙げるかもしれない(今でも覚えているが、わたしがこの二人の作家をはじめて識ったのは二十歳ごろ、やはりジュネーヴに一年間の気ままな学部留学をしていたときだった。ベルリンを旅行し、ウンター・デン・リンデンをぶらついているときに出会ったユダヤ系ドイツ人の古本市のお爺さんは「君はスイスにいるのに、これも読んでいないのか!」と私の無知を嘆き、あろうことか7冊も無料で譲ってくれた)。
あるいは仏語圏ローザンヌ出身のフェルナン・ラミュ(1878-1947)は、メルキュールの読者諸賢にはむしろストラヴィンスキーの『兵士の物語』のスクリプトをはじめとする良き共作者として識られているかもしれない。彼の「洗練された訥弁」とでも言うべきフランス語の味わいが、邦訳でどのように翻案されているのかわたしはまだ確かめていない。ブレーズ・サンドラール(1887-1961)はどうか? ダリウス・ミヨーの『世界の創造』のバレエ台本を作った人、といえば思い当たる方も多いかもしれない。ブルースと複調性、プリミティヴィズムとモダニズムをふらふらとさまよう佳作だが、意外と実演に接する機会が少ないのは残念なところである。エリック・ル・サージュらが弦楽四重奏+ピアノの編曲で録音しておりこれもきわめて爽快な室内楽となっているが、やはりビッグバンド編成のほうで、アルト・サックスやパーカッションの猥雑さ、剽軽なクラリネットの幕間劇といったオーケストレーションの妙を味わいたいものだ。
話は逸れたが、もう少し前の時代についても触れておきたい。というのも仏語圏に限っていえば、スイス出身、あるいはスイスに地縁をもつ作家が集中的に活躍した時代はうたがいなく19世紀初頭、ナポレオン帝政期前後であろうからだ。ジュネーヴ市民ジャン・ジャック=ルソーの死からおよそ半世紀あとの論客バンジャマン・コンスタンやスタール夫人(ジェルメーヌ・ド・スタール)らはコペ派(Groupe de Coppet)と呼ばれ、現在でも立憲民主制の人文的基礎を幅広く考究した政治思想の重要な淵源と見做されている。同時に、スタール夫人もコンスタンも、小説家、とくにそれも非常にメランコリックで、内省的で、それなのに明晰で、それでいて妙にくだくだしい、一風変わった小説家でもあったのだ。
だが概してこの時期の小説、大雑把に言えば「前ロマン主義」(これ自体議論を呼ぶ概念だが今はおいておこう)にくくられるフランスやスイスの小説はあまり日本では読まれていない——それどころか仏文科ですらあまり人気が無いのが実情だ。いわばそれ以前(ルソー、百科全書派)と、それ以降(スタンダール、バルザックやユゴー)に挟まれて不遇を託っているのである。コンスタンのばあい、意中の女を手に入れたのち瞬く間に来る幻滅の局面に——ほとんどそれのみに——フォーカスした苦々しい恋愛小説『アドルフ』なら岩波文庫で簡単に読むことができるが、流謫の北方紳士と天才女性詩人がイタリアを旅行しながら叶わぬ愛にひたすら苦悶するスタール夫人の『コリンナ』となるともう手に入れるのが難しい。自らの姉と禁断の愛を育んだ青年がメランコリーに取り憑かれて北アメリカのネイティヴ・アメリカン社会に隠遁し、長老の前で半生を告白する『ルネ』を書いて一世を風靡したフランスの文豪シャトーブリアンに至っては主要著書の現代日本語翻訳すら出揃っていない。一世代あとのヴィクトル・ユゴー——「前ロマン派」の「前」がとれて、晴れて「ロマン派」というわけである——は『レ・ミゼラブル』によってもはや日本でも識らぬ人のいない確固たる地位を得ることとなったわけだが、そのユゴーにしても若い頃はこうした作品を貪るように読み、革命後の世界で「作家」という存在に賭けられたものの重さに胸を震わせたというのに。

Senancour

前置きが長くなったが、こうした「前ロマン派」の中にも、スイスを舞台にした小説を書いた人がいる。といっても、彼はスイス人ではなく、フランス人である。こうして、再び「外国人から見たスイス」へと回帰してしまったわけだが、このエッセイの主旨からそれも許されるだろう。
そのフランス人とはエチエンヌ・ピヴェール・ド・セナンクール(1770-1846)である。彼は無数の哲学的エッセイといくつかの小説をものしたが、そのなかでも彼を有名にしたのはもっぱら半-自伝的小説『オーベルマン』だろう(岩波文庫の古本で——旧仮名遣いの翻訳だが——かろうじて手に入るので、ご興味のある方は手に取ってみることをお勧めする)。スイスに地縁をもつコンスタンやスタール夫人は小説の舞台としてことさらスイスを強調することはなかったが、この『オーベルマン』では、とくにスイスという場所が強い意図をもって舞台に選ばれている。
面白いのは、それでいてこの小説は「旅」というものをどこか忌避しているというところである。語り手はたしかに、スイスを旅し、書簡体でことこまかに旅程や宿泊先の食事を記録する。訪れたさきの風光に心を奪われもするし、それを——さほど鮮やかな仕方ではないが——スケッチしさえもするが、彼の関心ごとはもっぱら自分自身、もっといえば旅先に放り出された自分自身であって、スイスの風景は、彼のめくるめく自家中毒的な思考のなかにぐずぐずと溶かし込まれてしまい、決して記念はがきに載せられるようなピントの合った像をむすばないのである。

(続)
(2020/6/15)

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秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京大学仏文科卒、同大学院修士課程修了。在学中に東大総長賞(学業)、柴田南雄音楽評論本賞などを受賞。研究対象は19世紀初頭のフランス語圏における文学・哲学・医学。現在ジュネーヴ大学博士課程在学中。